第8話 実は私が『伝説の聖女』? いいえ、ただの居眠り屋です
その日の午後、私の部屋は本の山に埋もれていた。
ガラガラ、という重たい音と共に、ワゴンに積まれた古びた書物が運び込まれてくる。
犯人はもちろん、宰相のセバスチャンさんだ。
「アリア様、大変興味深い記述を見つけましたぞ」
彼はモノクルの位置を直し、分厚い本をテーブルに広げた。
埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。
せっかくのお昼寝タイムだったのに。
私はクッションを抱きしめたまま、不満げに口を尖らせた。
「あの、セバスチャンさん。ここは図書館ではありませんよ」
「ええ、存じております。ですが、これは貴女様に関わる重大な発見なのです」
彼はページの一箇所を指差した。
そこには、古めかしい挿絵と共に、読めない文字が並んでいる。
「これをご覧ください。『鎮魂の聖女』に関する伝承です」
鎮魂の聖女?
聞いたことがない単語だ。
ファンタジー小説に出てきそうな響きだが、私には関係なさそうだ。
「数百年前、荒れ狂う竜を『歌声ひとつで眠らせた』という伝説の聖女。彼女の力は、癒やしや光ではなく、強制的な『鎮静』と『安息』だったと記されています」
セバスチャンさんが熱っぽく語る。
「対象の闘争本能を奪い、精神を強制的にリラックスさせる。……どうです? 先日の謁見の間での一件と、酷似していると思いませんか?」
ギクリとした。
あくび一つで騎士団を壊滅させた、あの事件のことだ。
「……偶然ですよ」
私は視線を逸らした。
「あの人たちが疲れていただけです。あるいは、部屋の二酸化炭素濃度が高かったとか」
「では、森のフェンリルは? 城の使用人たちの健康改善は? そして何より、不眠症の皇帝陛下を熟睡させている事実は?」
畳み掛けないでほしい。
セバスチャンさんは、まるで獲物を追い詰める猟犬のような目をしている。
「結論を申し上げますと、アリア様。貴女は極めて高い確率で、この『鎮魂の聖女』の再来、もしくはその血を引く者であると考えられます」
部屋に沈黙が落ちた。
聖女。
その言葉の響きに、私の脳内で警報が鳴り響く。
(聖女って、あれでしょ? 朝から晩まで神殿に籠もって祈りを捧げたり、戦場に連れ回されて兵士を癒やしたりする、超激務職!)
冗談じゃない。
私はここで、一日十時間睡眠を確保するために生きているのだ。
そんな責任重大な肩書きを背負わされたら、二度寝の権利すら剥奪されてしまうかもしれない。
「違います」
私はきっぱりと否定した。
「私は聖女なんかじゃありません。ただの、よく寝る健康優良児です」
「しかし、状況証拠が……」
「体質です! 私の周りの空気が澱んでいるだけです! ほら、マイナスイオンみたいなもので!」
必死で言い訳を並べる。
セバスチャンさんが困ったように眉を下げた。
「アリア様。聖女であることは、決して悪いことではありませんよ? 帝国の国益にも……」
「ほら、出た! 国益!」
私はクッションを盾にして抗議した。
「そうやって私を働かせる気でしょう! 『聖女なんだから国民のために祈れ』とか『隣国の呪いを解いてこい』とか言うに決まってます!」
私の剣幕に、セバスチャンさんが言葉を詰まらせる。
図星だったらしい。
ガチャリ。
ドアが開いた。
「……何事だ。廊下まで声が聞こえているぞ」
クラウス陛下が入ってきた。
いつもの休憩時間だ。
彼は部屋の惨状――本の山と、クッションを構えて臨戦態勢の私――を見て、怪訝そうに目を細めた。
「セバスチャン、アリアをいじめているのか?」
「めっそうもございません。ただ、アリア様こそが伝説の『鎮魂の聖女』ではないかと、ご説明を……」
セバスチャンさんが事情を説明する。
陛下は黙ってそれを聞いていた。
赤い瞳が、私へと向けられる。
心臓が跳ねた。
もし、陛下まで「お前は聖女だ」と言い出したらどうしよう。
「聖女として国のために働け」と命令されたら、断れるだろうか。
この快適なベッドも、おやつの時間も、全部取り上げられてしまうのだろうか。
「……アリア」
名前を呼ばれ、体が強張る。
私はクッションを握りしめたまま、陛下を見上げた。
「違います。私は聖女じゃありません。ただの怠け者です。役立たずです。だから……」
だから、仕事を与えないで。
ここに置いてください。
そう言いかけて、言葉が詰まった。
自分を卑下するのは簡単だ。
でも、それを認めてしまったら、この人と過ごした穏やかな時間まで嘘になってしまう気がした。
陛下はため息をついた。
そして、本の山を乱暴に押しのけ、私の前のソファにドカリと腰を下ろした。
「くだらん」
一言で切り捨てた。
「聖女? 伝説? そんなものはどうでもいい」
「……え?」
「お前が聖女だろうが、魔女だろうが、ただの眠り姫だろうが、俺には関係ないことだ」
陛下はまっすぐに私を見た。
その瞳に、迷いはなかった。
「俺が必要としているのは、『鎮魂の聖女』という機能じゃない。アリア、お前だ」
「……」
「お前が側にいて、俺の隣で寝息を立てている。それだけで俺は救われている。他に何の役割が必要だというんだ」
彼の言葉が、すとんと胸に落ちた。
機能じゃない。
私自身を見てくれている。
ルミナス王国では、私は「結界維持装置」か「次期王妃というパーツ」でしかなかった。
役に立たなくなれば捨てられる、ただの道具。
でも、この人は違う。
「……陛下は、物好きですね」
喉の奥が熱くなるのを誤魔化すように、私は軽口を叩いた。
「ただ寝ているだけの女なんて、国のお荷物ですよ」
「構わん。俺の稼ぎで養える範囲だ」
陛下はふんと鼻を鳴らし、いつものように目を閉じて横になった。
その顔は、とても穏やかだ。
私はクッションを置き、そっと手を伸ばした。
ソファの肘掛けに置かれた彼の手。
大きくて、ごつごつした武人の手。
今までは、彼から触れてくることしかなかった。
でも今は、私から触れたいと思った。
そっと重ねる。
陛下の手がピクリと反応し、すぐに私の手を握り返してきた。
強い力だ。
でも、痛くはない。
「……セバスチャン」
陛下は目を閉じたまま言った。
「その古臭い本は片付けろ。埃が舞うとアリアが眠れん」
「……はっ。承知いたしました」
セバスチャンさんが苦笑交じりに一礼する気配がした。
ワゴンの車輪が遠ざかっていく。
部屋にはまた、静寂が戻った。
繋いだ手から伝わる体温だけが、確かな現実としてそこにあった。
(聖女でもなんでもいいわ)
私は陛下の寝顔を見つめながら思った。
この人がこうして安眠できるなら、私が何者であっても関係ない。
ただ、この手の温もりを守りたい。
そう思えるだけで、十分幸せだ。
私も瞼を閉じる。
今日はいつもより、いい夢が見られそうだ。
――だが、その平穏は長くは続かなかった。
数時間後。
再び部屋を訪れたセバスチャンさんの顔から、余裕の笑みが消えていたからだ。
「緊急事態です、陛下」
彼は短く告げた。
「ルミナス王国軍が、国境へ向けて進軍を開始しました。その数、五千」
繋いだ陛下の手に、力が籠もるのを私は感じた。




