第7話 王国からの帰還命令? 聞こえないので寝たふりします
謁見の間の重い扉が開く。
私とクラウス陛下は、並んで足を踏み入れた。
広間の中央には、数名の男たちが待ち構えていた。
派手な装飾のついた礼服。
見覚えのある、ルミナス王国の紋章。
先頭に立っていたのは、恰幅の良い中年男性だった。
バルニエ伯爵だ。
王宮で何度か顔を合わせたことがある。
声が大きく、自分より立場の弱い人間には居丈高に振る舞う、苦手なタイプの人だ。
「おお、アリア様! ご無事でしたか!」
私を見るなり、バルニエ伯爵は大げさに両手を広げた。
まるで感動の再会を演じる三流役者のようだ。
「蛮族の国に攫われたと聞き、心を痛めておりましたぞ。さあ、今すぐこちらへ。保護いたします」
蛮族呼ばわりとは失礼な。
隣で陛下がピクリと眉を動かしたのがわかった。
私は陛下の手を握り直し、一歩前へ出た。
「お久しぶりです、伯爵。ですが、訂正させてください。私は攫われたのではありません」
努めて冷静に、はっきりと告げる。
「自分の意思で、ノクス帝国に滞在しております。保護の必要はありません」
広間がしんと静まり返る。
バルニエ伯爵の笑顔が引きつり、みるみるうちに赤黒く染まっていく。
彼は信じられないものを見る目で私を凝視した。
「……は? 自分の意思、だと?」
「はい」
「馬鹿なことを! 貴女は騙されているのです!」
伯爵が唾を飛ばしながら叫んだ。
鼓膜に響く、甲高い声だ。
「帝国のような野蛮な国が、まともなはずがない! きっと洗脳魔法か何かをかけられているに違いない! そうでなければ、公爵令嬢が敵国の皇帝になど寄り添うはずがない!」
すごい剣幕だ。
こちらの言い分を聞く気はゼロらしい。
私は小さくため息をついた。
これだから、「人の話を聞かない人」の相手は疲れるのだ。
眠気が増幅する。
「おい」
低い、地を這うような声が響いた。
陛下だ。
彼は私を背に庇うようにして前に出ると、冷ややかな視線で伯爵を射抜いた。
「私の客人に無礼だぞ。言葉を慎め」
「ふん! 誘拐犯が皇帝気取りとは笑わせる!」
伯爵は怯むどころか、さらにヒートアップした。
どうやら、帝国のことを相当見下しているらしい。
あるいは、アリアさえ連れ帰れば自分の手柄になると焦っているのか。
「アリア様! ライル殿下は慈悲深いお方です! 今戻れば、追放処分を取り消し、再び側におくことを許すとおっしゃっています! これは最後のチャンスなのですよ!」
恩着せがましい言葉の羅列。
私の頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。
慈悲?
許す?
あの時、「顔を見るだけで生気を吸われる」と言って私を追い出したのは誰だったか。
今さら戻って、またあの息の詰まるような生活をしろと言うのか。
朝から晩まで結界維持のために神経をすり減らし、それでも「陰気だ」と罵られる日々を。
(……やだ。絶対にやだ)
ここのベッドの寝心地を知ってしまった今、あんな硬いマットレスの生活には戻れない。
「お断りします」
私は伯爵を真っ直ぐに見つめ返した。
「私はここで、美味しい紅茶を飲んで、ふかふかの布団で眠るのです。王国には帰りません」
「き、貴様……!」
伯爵がワナワナと震え出した。
プライドを傷つけられた顔だ。
彼は背後に控えていた王国の騎士たちに合図を送った。
「ええい、やはり洗脳されている! もはや対話は無用! 実力行使で奪還する!」
「はっ!」
王国の騎士たちが剣に手をかけ、一斉に足を踏み出した。
殺気が膨れ上がる。
外交の場で剣を抜くなんて、正気とは思えない。
ガシャン。
隣で、陛下も抜刀した。
美しい装飾の施された長剣が、ギラリと光を反射する。
「……いい度胸だ。私の目の前で、私の大切なものを奪おうとするとはな」
陛下の全身から、凄まじい圧力が放たれた。
本気の殺意だ。
このままでは、謁見の間が血の海になってしまう。
(うるさいなあ……)
怒号。
鎧の擦れる音。
殺気立った空気。
すべてが、私の安眠を妨げるノイズだった。
せっかくハーブティーを飲んでリラックスしていたのに。
頭がガンガンする。
まぶたが重い。
もう、どうでもよくなってきた。
私は口元に手を当て、自然な生理現象に身を任せた。
「……ふあぁ」
大きなあくびが出た。
緊張感のかけらもない、間の抜けた音が広間に響く。
その瞬間だった。
ドサッ。
何かが倒れる重い音がした。
一つではない。
ドサッ、ガシャン、バタン。
連鎖するように、音が続く。
「……あれ?」
涙目で周囲を見渡すと、奇妙な光景が広がっていた。
先ほどまで鼻息荒く叫んでいたバルニエ伯爵が、大の字になって床に転がっている。
剣を抜こうとしていた騎士たちも、折り重なるように倒れ伏している。
死んでいるわけではない。
全員、規則正しく胸を上下させ、安らかな寝息を立てていた。
「スピィ……」
「ムニャ……ママ……」
緊迫した広間が、一瞬にして巨大なお昼寝スペースへと変貌していた。
「……えっと」
私は目をぱちくりとさせた。
何が起きたのだろう。
みんな、長旅で疲れていたのだろうか。
それとも、広間の暖房が効きすぎて、一斉に睡魔に襲われたとか?
「貧血でしょうか。皆さん、顔色が悪かったですし」
私が呟くと、隣に立っていた陛下が、肩を震わせていた。
笑っているのか、呆れているのか。
彼は剣を鞘に収めると、床で爆睡している伯爵を爪先でつついた。
「……とんでもない兵器だな、お前は」
「兵器? 失礼な。私はただ、あくびをしただけですよ」
「ああ、そうだな。ただのあくびだ」
陛下は可笑しそうに口元を歪めた。
なぜか陛下だけは、ピンピンしている。
周りに控えていた帝国の衛兵たちも数名倒れているのに、私のすぐ側にいる彼だけは平気そうだ。
やはり、基礎体力が違うのだろうか。
「セバスチャン」
「はっ、こちらに」
部屋の隅で控えていたセバスチャンさんが、ハンカチで口元を押さえながら進み出てきた。
彼もまた、眠気と戦っているように見えるが、目は爛々と輝いている。
「この粗大ゴミどもをどうしますか」
「国境まで運んで捨ててこい。……いや、丁重に送り届けてやれ。『当国の最高級の安らぎを提供した』とな」
「承知いたしました。ふふ、最高の皮肉ですな」
セバスチャンさんが指を鳴らすと、起きていた衛兵たちが動き出し、眠りこける使者たちを引きずっていった。
ズルズルと運ばれていく伯爵の顔は、皮肉なほど幸せそうだ。
広間に静寂が戻る。
「……終わりましたか?」
「ああ。邪魔者は消えた」
陛下が私の方を向き、優しく頭を撫でてくれた。
「帰ろうか、アリア。冷める前に、茶の続きをしよう」
「はい。そうですね」
私は大きく伸びをした。
やっぱり、平和が一番だ。
面倒ごとはすべて夢の中へ消えてしまえばいい。
私たちは手をつないで、部屋へと戻った。
廊下の窓から見える空は、まだ少し曇っていたけれど。
私の心は、久しぶりの二度寝前のように晴れやかだった。
――まさか、私のあくび一つで、王国軍の精鋭部隊を全滅させることになるなんて。
この時の私はまだ、自分の力の恐ろしさを半分も理解していなかったのだ。




