第6話 陛下、膝枕の対価は『安眠ハーブティー』でお願いします
その日、私は珍しく部屋の外に出ていた。
運動不足解消のための、廊下のお散歩だ。
足音を立てずに絨毯の上を歩いていると、向こうから見慣れた長身の姿が現れた。
クラウス陛下だ。
後ろに数名の文官を引き連れ、何か厳しい口調で指示を出している。
「――北部の補給線を見直せ。予算の配分が甘い」
「は、はいっ!」
「それから、国境警備の増強もだ。ルミナス側の動きが不審すぎる」
相変わらず忙しそうだ。
私は柱の陰でやり過ごそうとした。
仕事モードの陛下に関わると、面倒な用事を頼まれるかもしれない。
そう思った時だ。
陛下の足が、ガクリと止まった。
「陛下?」
文官が声を上げる。
陛下は片手でこめかみを押さえ、壁に手をついた。
顔色が悪い。
いつもの不眠による土気色とは違う、もっと根本的な疲労の色だ。
(……あ、揺れた)
彼の上体がゆっくりと傾くのが見えた。
周囲の文官たちが慌てふためくより先に、私は駆け出していた。
スリッパが絨毯を蹴る。
「っと!」
倒れる寸前、私は陛下の体に滑り込み、その体を肩で支えた。
ずしりと重い。
鉄の塊かと思うほどの重量感だ。
「……アリア?」
陛下が薄く目を開け、焦点の合わない瞳で私を見た。
熱い。
服越しに伝わる体温が、明らかに平熱ではない。
「何をしているんですか。病人なら大人しく寝ていてください」
「いや、まだ会議が……」
「中止です。私の『安眠契約』には、陛下の健康管理も含まれていると解釈します」
私は文官たちに視線を向けた。
彼らは「助かった」と言わんばかりの顔で、激しく頷いている。
「陛下をお借りします。その会議、明日に延期してください」
「は、はいっ! アリア様にお任せします!」
文官たちは脱兎のごとく逃げ出した。
残されたのは、私と、私に寄りかかって息を荒げている陛下だけ。
「……勝手なことを」
「歩けますか? 私の部屋、すぐそこですから」
陛下は文句を言いながらも、素直に私の肩に体重を預けてきた。
***
部屋に連れ込み、ソファに座らせる。
ベッドに寝かせようとしたが、「着替えていない体で『天空の羊』を汚すわけにはいかない」と変なプライドを見せたからだ。
陛下はソファの背もたれに深く沈み込み、ぐったりとしている。
「少し待っていてください」
私は備え付けの簡易キッチンへ向かった。
お湯を沸かし、棚から瓶を取り出す。
カモミールとレモンバーム。
そこに、たっぷりの蜂蜜と温めたミルクを加える。
前世で愛飲していた、特製の安眠ミルクティーだ。
甘い香りが部屋に漂う。
「どうぞ。毒は入っていませんよ」
カップを差し出すと、陛下は疑わしげに鼻を鳴らしたが、一口啜った。
途端に、強張っていた肩の力が抜ける。
「……甘いな」
「疲れた脳には糖分が必要です」
「悪くない味だ」
陛下はふう、と息を吐き、カップを両手で包み込んだ。
その仕草が、なんだか小動物みたいで可愛らしい。
普段の「氷の暴君」からは想像もつかない姿だ。
「働きすぎですよ」
私は対面の椅子に座り、自分の分の紅茶を飲んだ。
「貴族や官僚なんて、適当に扱えばいいんです。陛下が倒れたら、元も子もないでしょう」
「……そうもいかん。俺が隙を見せれば、すぐにハイエナどもが食らいついてくる」
陛下は自嘲気味に笑った。
「誰も信じられない。心を許せば、寝首をかかれる。それが皇帝という座だ」
重い言葉だった。
常に気を張り詰め、誰にも背中を見せず、一人で戦ってきた人の言葉だ。
不眠症になるのも無理はない。
「大変ですね」
私は軽く言った。
同情しすぎても、彼は傷つくだけだろう。
「でも、今は私の部屋です。ここにはハイエナはいません。いるのは、ただの怠け者だけです」
「……そうだな」
陛下がカップをテーブルに置いた。
そして、ずるりと体を傾け、ソファの肘掛けではなく、私の座る椅子のほうへ頭を寄せてきた。
コツン。
私の肩に、陛下の頭が乗った。
「え」
「少しだけ貸せ。……枕の高さがちょうどいい」
言い訳が苦しい。
明らかにソファのクッションのほうが柔らかいはずだ。
けれど、彼の髪から漂う微かな汗と石鹸の香りが、拒絶の言葉を封じた。
(……まあ、いいか)
私は読書を再開した。
肩に重みを感じる。
温かい重みだ。
陛下は私の肩に顔を埋めるようにして、すぐに寝息を立て始めた。
無防備だ。
私がその気になれば、かんざし一本で刺せる距離。
それなのに、彼は完全に脱力している。
「……『誰も信じられない』んじゃなかったんですか」
小さく呟いてみる。
返事はない。
ただ、寝ている彼の左手が、私のスカートの裾をぎゅっと掴んでいるのが見えた。
胸の奥が、ちくりとした。
母性本能というやつだろうか。
それとも、もっと別の感情か。
この不器用で、孤独で、手のかかる大型猫のような人を、可愛いと思ってしまった。
「仕方ないですね。しばらく貸してあげます」
私はページをめくる手を止め、空いている手で彼の髪をそっと撫でた。
陛下が気持ちよさそうに喉を鳴らす(ように聞こえた)。
窓の外から、夕日が差し込んでいる。
部屋の中は金色に染まり、穏やかな時間が流れていた。
ずっと、こうしていたい。
ふと、そんな柄にもないことを考えてしまった。
――コンコン。
無粋なノックが、その空気を壊した。
陛下がピクリと反応し、瞬時に覚醒する。
バッと頭を上げ、いつもの冷徹な表情に戻る。
けれど、掴んでいた私の裾だけは、まだ離していない。
「……入れ」
不機嫌極まりない声で許可を出す。
入ってきたのは、セバスチャンさんだった。
彼は私たちが寄り添っている(ように見える)光景を見ても、顔色一つ変えなかった。
ただ、その目は笑っている。
「お邪魔をして申し訳ございません。緊急の知らせが入りました」
「緊急? 北部の件か?」
「いいえ。ルミナス王国からです」
その国名が出た瞬間、部屋の空気が冷えた。
陛下の手が、私の裾から離れる。
「ルミナス王国の正規の使者が、城門に到着しました」
セバスチャンさんは私を一瞥し、淡々と続けた。
「目的は『アリア・ローズベルトの即時返還』。……かなり強硬な態度です。場合によっては武力行使も辞さないと」
「……は」
陛下が鼻で笑った。
氷のような、絶対零度の笑みだった。
「面白い。俺の昼寝相手を奪おうとは、いい度胸だ」
殺気が膨れ上がる。
私は慌ててカップを回収した。
せっかくハーブティーでリラックスさせたのに、これでは台無しだ。
「陛下、落ち着いてください。血圧が上がりますよ」
「アリア、お前はどうしたい」
陛下が私を見た。
赤い瞳が、真剣な光を宿している。
「帰りたくないなら、俺が全力で追い返す。国の一つや二つ、灰にしてでもな」
「……規模が大きすぎます」
私はため息をついた。
でも、悪い気分ではない。
私の意思を、何よりも優先してくれる。
その事実が嬉しかった。
「帰りませんよ。まだここの紅茶を全種類、試していませんから」
私が答えると、陛下は満足げに頷いた。
「よし。セバスチャン、その使者を広間へ通せ。俺が直々に相手をしてやる」
陛下が立ち上がる。
その背中は、先ほどまでの弱々しさが嘘のように、力強く、頼もしく見えた。
私は見送るつもりだった。
けれど、陛下は扉の前で振り返り、手を差し出した。
「来るか? アリア」
「え、私もですか?」
「ああ。俺の『所有物』ではないことを、あいつらに見せつけてやればいい」
所有物ではない。
私が自分の意思でここにいるのだと、証明しろということか。
「……面倒ですね」
私は呟きながらも、その手を取った。
陛下の体温が伝わってくる。
「でも、私の安眠を妨害するなら、文句の一つも言ってやりましょう」
私たちは並んで部屋を出た。
廊下を歩く足音が、二つ重なる。
戦いの予感がする。
けれど、不思議と怖くはなかった。
隣に、最強の不眠症患者がいるのだから。




