第5話 元婚約者がパニックになっているようですが、おやすみなさい
帝城での生活は、快適そのものだった。
特に、午後のお茶の時間は至福のひとときだ。
私は窓際のソファに深く沈み込み、焼き立てのクッキーを口に運んだ。
バターの香りがふわりと広がる。
お供は最高級茶葉のアッサムティー。
窓の外には、手入れの行き届いた中庭が広がっている。
「……平和だわ」
思わず独り言が漏れる。
ブラック企業のような公爵家での生活が、遠い前世の記憶のようだ。
ここでは誰も私に「もっと働け」「愛想を振りまけ」とは言わない。
求められるのは、ただ健やかに眠ることだけ。
コンコン。
静寂を破ったのは、宰相のセバスチャンさんだった。
彼はいつものように恭しい態度で入室してきたが、その手には分厚い封筒が握られている。
モノクルの奥の瞳が、どこか楽しげに光っていた。
「アリア様、お寛ぎのところ失礼いたします。少々、耳に入れておくべき情報がございまして」
「……嫌な予感がしますね。その封筒、禍々しいオーラが出ていますよ」
「おや、わかりますか? これはアリア様の故郷、ルミナス王国からの『悲鳴』です」
セバスチャンさんは優雅な手つきで、テーブルの上に報告書を広げた。
そこには、私の知る平和な国の姿はなかった。
「現在、ルミナス王国はパニック状態にあります」
彼が淡々と読み上げる内容は、凄惨なものだった。
私か追放されてからわずか十日。
王都周辺の森から、魔物たちが一斉に溢れ出したらしい。
街道は封鎖され、物流はストップ。
農村では作物が一夜にして枯れる奇病が流行し、国民の不安は爆発寸前だという。
「騎士団は不眠不休で討伐にあたっていますが、倒しても倒しても湧いてくるそうで。……いやはや、まるで『魔物を抑えていた蓋』が外れたようですな」
セバスチャンさんが意味ありげに私を見る。
蓋。
心当たりがないわけではない。
私が「微睡みの森」でフェンリルを寝かしつけたように、私の特異体質が何らかの影響を及ぼしていた可能性はある。
「ライル殿下はどうされているのですか?」
「そこが一番の見どころです」
セバスチャンさんは口角を吊り上げた。
「殿下は当初、『魔物の活性化は一時的なものだ』と楽観視されておりました。しかし、頼みの綱である新聖女ミナ様の祈りが全く効果を発揮せず……今では顔面蒼白で、城の奥に引きこもっておられるとか」
想像してしまった。
あの自信満々だったライル殿下が、青い顔で震えている姿を。
「アリアのせいだ!」「なんで上手くいかないんだ!」と叫んでいる姿が目に浮かぶようだ。
(……自業自得、という言葉しか出てこないわね)
私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
殿下は私を「生気を吸う女」と罵った。
ならば、生気を吸わないミナ様と幸せになればいい。
魔物の対処くらい、自分たちでなんとかするべきだ。国を背負う王族なのだから。
「それで、こちらが本題です」
セバスチャンさんが、さらに一通の手紙を差し出した。
封蝋には、見覚えのある薔薇の紋章。
私の実家、ローズベルト公爵家のものだ。
「お父様からですか」
「はい。『至急、本人に渡せ』と。かなり急いで書かれたようで、字が乱れております」
私はため息をつきながら、ペーパーナイフで封を切った。
中に入っていたのは、丁寧な時候の挨拶――などではなく、書き殴られた命令文だった。
『アリアへ。
今すぐ戻ってこい。
お前がいなくなってから、屋敷の結界が消えた。
魔物が領地を荒らしている。
これはお前の責任だ。
追放処分は取り消してやるから、ミナ様の補佐役として結界を張り直せ。
公爵家の娘としての義務を果たせ』
読み終えた瞬間、乾いた笑いが出た。
「……すごい」
「いかがなさいました?」
「ここまで都合が良いと、逆に清々しいですね」
謝罪の言葉は一つもない。
あるのは責任転嫁と、上からの命令だけ。
「追放を取り消してやる」?
まるでそれが恩情であるかのような書き方だ。
彼らは何もわかっていない。
私がどれだけ、あの家で孤独だったか。
「やる気がない」「陰気だ」と蔑まれながら、それでも夜遅くまで公務をこなし、ひっそりと結界(当時はただの眠気だと思っていたけれど)を維持していたか。
もう、頑張らなくていいんだ。
そう思った瞬間、肩の荷が完全に下りた気がした。
「セバスチャンさん。暖炉の火、少し弱くないですか?」
「おや、そうでございますね」
私は立ち上がり、暖炉の前へ歩み寄った。
そして、父からの手紙を、燃え盛る薪の中へと放り込んだ。
チリチリと紙が焦げる音がする。
身勝手な命令文は、あっという間に黒い灰へと変わった。
「燃料投下、完了です」
「ふふっ。良い燃えっぷりでしたな」
セバスチャンさんは満足げに目を細めた。
彼も、最初からこうなることを予期していたのだろう。
その時、部屋の扉が開いた。
ノックもなしに入ってくる人物は一人しかいない。
「……何をしている」
クラウス陛下だ。
いつもの休憩時間らしい。
上着を脱ぎながら、暖炉の前に立つ私を不思議そうに見ている。
「いえ、少しゴミ焼却を」
「ゴミ?」
「はい。過去の遺物です」
私は微笑んで答えた。
陛下は暖炉の中の灰を一瞥し、何かを察したように鼻を鳴らした。
「そうか。ならいい」
彼は深く追求せず、いつもの長椅子へと向かった。
そして、当然のように横になり、私の方へ視線を向ける。
「ここに来い」という無言の合図だ。
私はセバスチャンさんに目配せをした。
彼は恭しく一礼し、音もなく退室していく。
後に残されたのは、私と陛下、そしてパチパチと爆ぜる暖炉の音だけ。
私は陛下の足元にあるオットマンに腰を下ろした。
陛下が安心したように息を吐き、目を閉じる。
「……アリア」
「はい」
「王国が騒がしいらしいな」
陛下は目を閉じたまま、ぽつりと溢した。
情報は彼の耳にも入っているらしい。
「戻りたいか?」
低い声。
試すような響きはない。
ただ、純粋な問いかけだった。
私は陛下の寝顔を見下ろした。
以前のような隈はなく、穏やかな表情だ。
この人は、不器用だけど、私を必要としてくれる。
「公爵令嬢」としての私ではなく、「よく眠れる枕」としての私かもしれないけれど、それでも今の私には心地よかった。
「いいえ。私はここが良いです」
私ははっきりと答えた。
「ここのベッドは最高ですし、おやつも美味しいですから」
「……そうか」
陛下は微かに口角を上げた。
「なら、ずっとここにいろ。誰にも渡さん」
それは独占欲というよりは、子供がお気に入りの毛布を離さないような執着に聞こえた。
けれど、その言葉は私の胸に温かく響いた。
「はい。おやすみなさいませ、陛下」
私は膝掛けを陛下の肩にかけてあげた。
数秒後には、静かな寝息が聞こえ始める。
窓の外では、遠くの空に暗雲が立ち込めているかもしれない。
元婚約者がパニックになり、実家が没落の危機に瀕しているかもしれない。
でも、知ったことではない。
私の世界は今、この部屋の温もりだけで完結している。
私は読みかけの本を手に取った。
ページをめくる音だけが、平和な午後に響いた。
――ただ、私はまだ知らなかった。
追い詰められた人間が、どれほど愚かな行動に出るかということを。
灰になったはずの火種は、まだ完全には消えていなかったのだ。




