第4話 人質生活始まりました
帝城に到着してから、数日が経過した。
私の生活は一変した。
一言で言えば、そこは楽園だった。
「……ふあ」
私は大きなあくびをして、寝返りを打った。
体がふわっと沈み込む。
まるで雲の上に乗っているような浮遊感。
背中を包み込む温かさは、母の腕の中のように優しい。
これが、伝説の寝具「天空の羊」の威力か。
一度横になったら最後、重力が二倍になったかのように起き上がれなくなる。
人間を駄目にする魔性のベッドだ。
「最高……」
私は枕に顔を埋め、至福の声を漏らした。
窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえる。
けれど、カーテンはしっかりと閉ざされ、部屋の中は睡眠に最適な薄暗さに保たれている。
ここでの私の仕事は一つだけ。
生きていること。
そして、たまに来客の相手をすることだ。
コンコン。
控えめなノックの音がした。
返事をするのも億劫だが、契約だから仕方ない。
「どうぞ。鍵は開いています」
「失礼する」
重厚な扉が開き、入ってきたのはこの城の主、クラウス陛下だ。
今日も黒い軍服をきっちりと着こなし、冷徹な表情を崩していない。
ただ、以前のような鬼気迫る殺気は消えている。
彼は私の姿――ベッドの上でミノムシのように布団にくるまっている状態――を見ても、眉一つ動かさない。
慣れた足取りで、窓際のソファへと向かった。
「執務の合間だ。三十分だけ頼む」
「はい、ごゆっくり」
陛下は軍服の上着を脱ぎ、長椅子に横たわった。
そして、すぐに静かな寝息を立て始めた。
これが、私たちの新しい日常だ。
陛下は不眠症のリハビリ中らしい。
私の近くにいないと深く眠れないらしく、こうして一日に数回、充電するように私の部屋へやってくる。
やることはただ寝るだけ。
手を出してくるわけでも、無駄話をするわけでもない。
(なんて手のかからない飼い猫……じゃなくて、皇帝陛下なんでしょう)
私も再び布団を被り、二度寝の体勢に入った。
部屋には二人の寝息だけが響く。
静寂が心地よい。
***
三十分後。
体内時計が正確な陛下は、ぱちりと目を覚ました。
「……行ったか」
体を起こし、軽く首を回している。
その顔色は、出会った頃の土気色が嘘のように健康的になっていた。
目の下の隈もだいぶ薄くなっている。
「よく眠れましたか?」
「ああ。お前が近くにいると、泥のように深く眠れる。不思議だ」
陛下は不思議そうに自分の手を見つめている。
私は心の中で「それは天空の羊のおかげですよ」とツッコミを入れたが、口には出さない。
高性能ベッドのプラシーボ効果だとしても、本人が満足ならそれでいい。
陛下が立ち上がり、私の方を見た。
赤い瞳が、珍しく穏やかに細められる。
「アリア。何か欲しいものはないか」
「欲しいもの、ですか?」
「ああ。食事、宝石、ドレス。何でも用意させる」
唐突な申し出だ。
私は少し考えてから答えた。
「では、安眠効果のあるアロマオイルの追加をお願いします。ラベンダーが良いです」
「……それだけでいいのか?」
「はい。今はここから一歩も動きたくないので」
陛下は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに口元を緩めた。
「欲のない女だ。わかった、最高級のものを取り寄せよう」
陛下は上着を羽織り、颯爽と部屋を出て行った。
入れ替わるようにして、ワゴンを押したメイド長が入ってくる。
「アリア様、お目覚めですか? 本日の午後のお茶をお持ちしました」
彼女は五十代くらいの、厳格そうな女性だ。
最初は「どこの馬の骨とも知れない娘」と警戒されていた気がする。
だが、今はなぜか目がきらきらと輝いている。
「ありがとうございます」
「とんでもございません! アリア様のおかげで、城内はかつてないほど平穏なのですから」
メイド長は熱っぽい口調で語り出した。
「以前の陛下は、些細なミスで雷を落とす恐ろしいお方でした。ですが最近はどうでしょう。怒鳴り声一つ聞こえません。それどころか、使用人たちに『適度に休め』と労いの言葉まで……!」
彼女は感極まったようにハンカチで目元を拭った。
「これもすべて、アリア様が陛下のお心を癒やしてくださったおかげです。あなたは我らにとって、まさに女神ですわ」
(……女神?)
私はスコーンを齧りながら首を傾げた。
買い被りすぎだ。
私はただ、陛下に寝場所を提供しているだけ。
陛下が穏やかなのは、単に睡眠不足が解消されてイライラしなくなったからだろう。
人間、寝ないと性格が悪くなるものだ。
「それに、不思議なのです」
メイド長は声を潜めた。
「アリア様のお部屋の近くにいると、長年の持病だった肩こりがすっと軽くなるのです。他の者たちも、最近体が軽いと申しておりまして」
「へえ、それは良かったですね」
この城は空気がいいのかもしれない。
私は他人事のように相槌を打った。
(きっと、みんな私が『陛下の愛人』だからお世辞を言っているのね)
権力者の寵愛を受けた女には、とりあえず媚びておくのが処世術だ。
誤解は解かずに置いておこう。
その方が、美味しいおやつにありつける。
***
夕方、宰相のセバスチャンさんが訪ねてきた。
彼は分厚い書類の束を抱えている。
「失礼します、アリア様。快適にお過ごしですか?」
「ええ、とても。ここは天国ですね」
私がベッドの上で本を読んでいると、彼は満足げに頷いた。
「それは重畳。……ところで、少し耳に入れておきたいことが」
セバスチャンさんの表情が、ふっと曇った。
彼は持っていた書類の中から、一枚の羊皮紙を取り出した。
「故郷のルミナス王国について、報告が入っております」
「故郷……ああ、あの国のことですか」
もう何年も前のことのように感じる。
実際にはまだ一週間も経っていないのだが。
私は本を閉じ、興味なさそうに尋ねた。
「何かありましたか? ライル殿下がまた新しい婚約者を見つけたとか?」
「いいえ。もっと深刻な事態です」
セバスチャンさんは低い声で告げた。
「アリア様が出国された直後から、王都周辺で魔物の活性化が確認されました。農作物の不作、原因不明の悪天候。……国全体が、急速に不安定になっているようです」
羊皮紙には、不穏な報告がびっしりと書き込まれていた。
魔獣被害の急増。
国民の不安。
「へえ」
私は他人事のような感想しか出てこなかった。
だって、もう私には関係ない。
追放したのは向こうだ。
「お前の顔を見るだけで生気を吸われる」と言ったのはライル殿下だ。
私がいなくなって清々しているはずじゃないか。
「偶然でしょう。あの国はもともと、気候が変わりやすいですし」
「……そうですな。偶然、ということにしておきましょう」
セバスチャンさんは意味ありげにモノクルを直した。
何か言いたげだったが、私の「関わりたくない」オーラを察したのか、それ以上は追求してこなかった。
「では、私はこれで。……ああ、そうそう。ライル殿下から、近々こちらへ使者を送るという情報もございます」
「使者?」
「ええ。アリア様を『不当に連れ去った』として、帝国に抗議するつもりのようです」
私は思わず笑ってしまった。
不当に連れ去る?
私が自分で望んで、このフカフカのベッドを選んだというのに。
「迷惑な話ですね。私はここから一歩も動く気はありませんよ」
「承知いたしました。陛下も、全力で阻止する構えですのでご安心を」
セバスチャンさんは一礼して退室した。
扉が閉まる。
私は再び、柔らかい枕に頭を沈めた。
遠い国のことなんて、今の私にはどうでもいい。
明日もまた、たっぷり寝て、美味しいものを食べて、陛下のお昼寝に付き合うだけだ。
そう思っていた。
けれど、窓の外の空が、いつもより少しだけ暗く見えるのは気のせいだろうか。
遠くで雷鳴が聞こえた気がして、私はブランケットを頭まで被った。
(聞こえない、聞こえない。私は寝るの)
迫りくる面倒ごとの気配から逃げるように、私は瞳を閉じた。




