第1話 追放バンザイ! 今日から森で二度寝します
「アリア・ローズベルト! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
シャンデリアの輝きが目に痛い。
王宮の大広間に、よく通る声が響き渡った。
声の主は、このルミナス王国の第一王子、ライル殿下だ。
金髪を丁寧にセットし、仕立ての良い礼服に身を包んだ彼は、壇上から私を見下ろしている。
その隣には、小柄で可愛らしい女性が一人。
男爵令嬢のミナ様だ。彼女は不安そうに眉を寄せ、ライル殿下の腕にしがみついている。
周囲を取り囲む貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
嘲笑、憐憫、あるいは好奇心。
針のむしろとはこのことだろう。
けれど、私の頭の中を占めていたのは、絶望でも悲しみでもなかった。
(……ふあ。眠い)
あくびを噛み殺すのに必死だった。
現在時刻は夜の八時を回ったところだ。
私にとって、この時間はすでに就寝準備タイムである。
本来ならパジャマに着替え、ホットミルクを飲み、ふかふかのベッドへダイブしているはずなのだ。
それなのに、重たいドレスを着て、コルセットで腹を締め上げられ、立ったまま説教を聞かされるなんて。
これは一種の拷問ではないだろうか。
「聞いておるのか、アリア!」
ライル殿下の怒鳴り声で、意識が少しだけ覚醒する。
いけない。立ったまま寝るところだった。
私は重いまぶたをなんとか持ち上げ、カーテシーの姿勢を取った。
「はい、伺っております。婚約破棄、でございますね」
「なんだその態度は! 相変わらず眠そうで、覇気がない!」
殿下が忌々しげに吐き捨てる。
覇気がないと言われても困る。
私は前世、ブラック企業の社畜として働き詰め、過労死した記憶を持っている。
だから今世の目標は「一日十時間睡眠」と心に決めているのだ。
公爵令嬢としての最低限の公務はこなしてきたつもりだ。
ただ、余計な派閥争いや、殿下の機嫌取りに参加しなかっただけで。
それを「やる気がない」と判断されたのなら、価値観の不一致としか言いようがない。
「貴様のような陰気な女は、次期王妃にふさわしくない! 見ろ、ミナを。彼女はいつも明るく、私の心に寄り添ってくれる」
殿下がミナ様の肩を抱き寄せる。
ミナ様は頬を染め、上目遣いで殿下を見つめ返した。
「アリア様……ごめんなさい。でも、私たち、真実の愛を見つけてしまったの」
潤んだ瞳が私に向けられる。
なるほど、真実の愛。
結構なことだと思う。
王妃教育の厳しさに音を上げて逃げ出した私よりも、彼女のほうがよほど根性があるかもしれない。
「それで、私はいかがすればよろしいでしょうか」
淡々と尋ねると、ライル殿下は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「国外追放だ! 二度とこの国に戻ってくるな! 貴様の顔を見るだけで、私の生気が吸い取られるような気がするのだ!」
生気を吸い取る。
失礼な言い草だが、まあ、私が近くにいると殿下がよくあくびをしていたのは事実だ。
私の眠気が伝染していたのかもしれない。
しかし、国外追放。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳内でファンファーレが鳴り響いた。
(……え? 本当に?)
国外追放ということは、公爵家の籍から外れるということだ。
つまり、毎朝六時に起きて語学の勉強をしなくていい。
ダンスのレッスンも、刺繍の時間も、堅苦しいお茶会も、すべて免除。
それはつまり。
朝まで泥のように眠れるということではないか!
頬が緩みそうになるのを、私は必死で堪えた。
ここで「やったー!」と叫んでは、公爵家の名折れになってしまう。
最後まで貴族としての矜持を保たなければ。
私はゆっくりと顔を上げ、殿下をまっすぐに見つめた。
「謹んで、その命をお受けいたします」
静まり返る会場。
誰もが、私が泣き崩れるか、縋り付くと予想していたのだろう。
殿下も拍子抜けしたような顔をしている。
「……ふん、強がりを。まあいい、今すぐ出て行け。荷物をまとめる猶予などやらんぞ」
「はい。それでは、失礼いたします」
私は完璧なカーテシーを披露し、踵を返した。
背後からざわめきが聞こえるが、振り返らない。
足取りは驚くほど軽かった。
(さようなら、過労とストレスの日々! こんにちは、自由なる睡眠ライフ!)
大広間の扉を抜けた瞬間、私は小さくガッツポーズをした。
***
王宮を追い出され、粗末な馬車に乗せられて数時間。
私が降ろされたのは、東の国境付近にある森の入り口だった。
「ここから先は『微睡みの森』だ。入ったら二度と出てこられないと言われる魔境だぞ」
御者の男性が、怯えた様子で忠告してくれた。
私は彼に礼を言い、馬車を見送った。
夜風が冷たい。
頭上には満月が浮かんでいる。
普通なら絶望的な状況だろう。
ドレス姿で、護衛もなく、魔物の森に放り出されたのだから。
だが、私にはこれがある。
腰に提げた、地味な灰色のポシェット。
一見すると安物だが、これは私が小遣いを貯めて闇市で購入した、特級の「魔法収納鞄」だ。
中には、いつか来るかもしれない脱出の日に備えて、厳選したアイテムが詰め込んである。
着替え、食料、水、そして何より重要な――寝具一式。
「さて、まずは寝床を確保しないと」
私はスカートの裾をまくり上げ、森の中へと足を踏み入れた。
鬱蒼とした木々が月光を遮り、視界は悪い。
どこからか、獣の唸り声のような音が聞こえてくる。
「グルルル……」
茂みがガサリと揺れた。
現れたのは、巨大な狼だった。
体長は優に三メートルはあるだろうか。
銀色の毛並みが月明かりに光り、鋭い牙が覗いている。
(フェンリル……?)
本で読んだことがある。
上位の魔物だ。
遭遇したら即死、熟練の騎士団ですら全滅すると言われる災害級の獣。
フェンリルは赤い瞳で私を睨みつけ、低い唸り声を上げながら、ゆっくりと距離を詰めてきた。
殺気が肌を刺す。
怖い、と思うべきなのだろう。
けれど、今の私にはそれ以上の生理的欲求があった。
(……限界だ。もう立っていられない)
緊張の糸が切れた反動か、強烈な睡魔が襲ってきたのだ。
視界がぼやけ、あくびが出る。
私は口元を手で覆い、フェンリルに向かってぼんやりと言った。
「……ごめんなさい、わんちゃん。私、もう寝る時間なの。静かにしてくれる?」
殺されるかもしれない。
そう思ったけれど、言葉は勝手に出てしまった。
その時だ。
フェンリルの動きがぴたりと止まった。
逆立っていた背中の毛が、すうっと寝ていく。
凶悪だった赤い瞳が、とろんと細められていく。
「……クゥ?」
さっきまでの威圧感はどこへやら。
フェンリルはその場にどさりと座り込むと、大きな口を開けてあくびをした。
そして、前足の上に顎を乗せ、こてんと横になってしまったのだ。
「あれ……? 寝ちゃった?」
数秒後、スースーという寝息が聞こえ始めた。
どうやら、彼(彼女?)もお疲れだったらしい。
夜行性のはずなのに、奇妙なこともあるものだ。
「まあいいわ。おやすみなさい」
私はフェンリルのことは気にせず、手近な巨木を探した。
ちょうどいい間隔で並ぶ二本の木を見つける。
ポシェットから取り出したのは、特注のハンモックだ。
丈夫な布地に、柔らかなクッション材が織り込まれている逸品。
手慣れた手つきでロープを結び、設置完了まで三分。
さらに、虫除けのアロマキャンドル(ラベンダーの香り)を焚き、遮光性の高いアイマスクを取り出す。
準備は万端だ。
私は靴を脱ぎ、ハンモックへと身を滑り込ませた。
ゆらり。
心地よい揺れが体を包み込む。
森の静寂。
草木の香り。
遠くで聞こえる、フェンリルの規則正しい寝息。
(最高……)
王宮のベッドよりも、ずっと空気が澄んでいる。
誰にも邪魔されない、私だけの時間。
これこそが、私が求めていた生活だ。
公爵令嬢アリアは死んだ。
これからは、森の住人アリアとして、思う存分寝て過ごそう。
意識が急速に闇へと沈んでいく。
幸せな微睡みの中で、私は完全に思考を手放した。
――だから、気づかなかったのだ。
ガサリ。
近くの草むらから、血走った目をした男が這い出てきたことに。




