宇宙の人とキーマカレーを
金曜日はカレーを作ると決めている。
冷蔵庫の中には玉ねぎと人参、しめじが入っている。冷凍庫には随分前に買った豚ひき肉が眠っているはずだ。我が家のカレーは、玉ねぎと人参とひき肉をベースに使い切りたい食材を全て入れる。
「在庫一掃カレー」で空っぽになった冷蔵庫を埋めるべく、週末はスーパーへ出かける。これが我が家、もとい私のルーティンである。
定時を告げるチャイムが鳴り、キリの良いところでパソコンを閉じる。これから歩いて15分の家に帰る。帰り着いたら、炊飯器をセットし、カレーを煮込みながら洗濯機を回す。
今年買い替えたドラム式洗濯機は、本当にいい仕事をしてくれる。少しの洗濯物なら洗濯から乾燥までほんの数時間で済んでしまう。その手軽さと、とは言え家事を一つやり終えたという達成感から、ほぼ毎日洗濯機を回してしまう。夫と二人で暮らす我が家では、そう洗濯の必要もないのだけれど。
職場を出ると12月とは思えない程、ぬるい風が吹いていた。重たいコートと厚手のニットを着ているが、「12月」という目印がなければ袖を通していないだろう。頑張れば半袖でもいけると過信してしまうのは、20代の余韻で生きている30代前半の悲しい性なのかもしれない。
夫とは4年前に出会い、2年の交際を経て結婚した。
夫と初めて会話をした時、さらりとした肌触りの話し方をする人だと感じた。その湿り気のなさに、ああ、この人は一人で立てる人なのだと思った。
依存し合うことで人と繋がってきた自分からは、まるで違う星の生き物のように見えた。
しばらくの間同じ人間だとは思えず、遠い星からやって来た「宇宙の人」と影で名付けて呼んでいた。
職場と家のちょうど間あたりに、小さい八百屋さんがある。そこはこのご時世でも新鮮な野菜が手頃な値段で手に入るため、閉店間際でも絶え間なくお客さんが出入りしている。私もその一人だ。
家にカレーの材料は最低限揃っているため、カゴを持たずに店内をウロウロする。一番奥のカートの中、158円のトマトが目に入る。大きな2玉が白いトレーの上に載せられ、ラップにぴっちり包まれている。カレーに入れようかな。特に大きなものを選びレジに並ぶ。
財布から160円を出しお釣りをもらう。いつものレジの女性にお礼を言い、トマトだけ入ったビニール袋を片手に店を後にする。
毎日この店の前を通り、時に今日のようにふらりと寄って買い物をする。当たり前に立ち寄る店があることは、私を何となく温かい気持ちにさせてくれる。
結婚してもうすぐ2年経つ。それを聞いた多くの人は「お子さんは?」と口にする。皆が皆そう言うので、そう聞くことが一種の礼儀なのではないかと錯覚する。ほとんど慣例としてそう聞いていると分かっていても、私の心には「まだ子どもがいない」ということに対する後ろめたさと、早く子どもを設けなればという焦燥が去来する。それと同時に、子どもが欲しいなんて物じゃあるまいし、私は夫と二人で十分幸せに暮らしているのに、とも思う。
本当に心からそう思っているのに、誰かに対して言い訳しているような気がする。そこまでがワンセットで「ああ、何だか煩わしいなあ」と思ってしまう。
家に帰り着き、照明をつける。
夫の帰りは私より遅いことが多い。今日もきっとそうだろう。
洗面所で手を洗い、リビングでホットカーペットの電源を入れる。暖房は乾燥するので極力つけないようにしている。
買ってきたトマトを袋から取り出す。指先からラップ越しに程よい固さが伝わる。微塵切りにしたいという意欲がむくむく湧いてきたため、トマトを手にそのまま台所へ向かう。
毎週金曜日にカレーを作るのはカレーが食べたいからではなく、思う存分微塵切りがしたいからと言っても過言ではない。玉ねぎ、にんじん、しめじ、今日はトマトも微塵切りにする。全ての野菜に、縦と横に刃を入れて、さらに左手を包丁の背に添えて、縦横無尽に刃を動かす。
この時、私の肩書は全て消えてしまう。
妻でも、社員でも、そして女でも、ましては人でもなくなってしまい、ただそこで刃を動かすだけの生き物になる。私にとって、この瞬間がたまらなく気持ちよい。
夫も、会社の人間も、友人も、誰もいないこの場所で、ただただ野菜を刻む。
私は自由だと心から実感できる。
自由を幸福と感じる人間は、親になっても良いのだろうか。
微塵切りした野菜を炒めながら、何度目かわからない問いを自分に投げかける。母になれば、母でない私になる瞬間など、一秒たりとも訪れないのではないだろうか。
その問いに言葉ほどの重みはない。
子どもがいる未来を想像しながら、母という肩書きを脱げない自分を思う。前者はあくまでも想像であるし、後者も絶望ではなくただの思考だ。
それでも「思う」からには、単なる思い以上の何かが私の中にあるのかもしれない。
考え事をしながら家事をすると、すぐに次の工程に進むことができる。ある程度材料を炒めたら鍋へ水を流し込み、コンソメキューブを一つ入れ蓋をする。
しばらく煮込んでカレールーを入れれば我が家の、もとい私のカレーの完成である。
夫、もとい宇宙の人には、全くと言っていいほどこだわりがない。そのため、料理を含む家事全般に関する私のルールはそのまま我が家のルールになった。
そして宇宙の人は自由をこよなく愛する人でもある。ここで言う自由を愛するとは、無遠慮な奔放さを指すのではなく、ありのままの自分でいることを愛し、また近しい人にもありのままでいて欲しいと願うことを指す。
交際中も結婚してからも、彼から女性としてや妻としての振る舞いを求められたことはないように思う。言葉にされたことがないことはもちろん、そういった空気を出されたことも一度もない。
稀有な人なのだろうなと思う。それでいて、人の気持ちに寄り添うという情緒的な関わりも人並みにできるところが不思議でならない。
彼を見ていると、人間らしさとはその人の少し歪んだ部分に滲み出る物ではないかと思う。
理解し難い程の偏った考え方や、笑ってしまうくらいのバランスの悪さが「人間だな〜」と思わせる肝であり、そういった意味で彼はちっとも人間らしくないのだった。
今年、妊娠していた時期があった。今は妊娠しておらず、出産をしたわけでもない。
産婦人科でお腹の中に赤ちゃんがいることが分かったのは、妊娠6週目のことだった。そしてその2週間後に診てもらった時、我が子の成長はぴたりと止まっていた。翌週もう一度診てもらったが、やはり1mmも大きくなってはいなかった。
稽留流産。そう診断され、医者の前でポロポロと涙がこぼれた。
ああ、悲しいこともあるものだな、と思った。
クリニックの方針で手術は行わず、自然に外へ出てくるのを待つことになった。
その日はたまたま休みだった。
朝から耐え難い腹痛に苛まれ、きっかり半日ベッドの中で悶え苦しんだ。やっと痛みが和らいできた頃にトイレで下着を下ろすと、股の間からずるりと柔らかな塊が出てきた。
我が子であろうそれは、生き物になろうとしていた名残を感じる何ともグロテスクな姿をしていた。どうにか元気な姿で産んであげたかったと思った。ごめんね、とも思った。何が原因か分からなかったが、何かが違えば異なる結果に辿り着いたような気がしてならなかった。しばらくの間、考えてもどうしようもないことがぐるぐると頭を巡った。
流産と診断された日も沢山泣いたが、我が子が出てきたその日も沢山、沢山泣いた。
しばらくは周囲から妊娠の報告を聞くと辛くて仕方なかった。自分のこととは切り離して考えようと努めても、やはり胸は痛むのだと思った。その度に少しだけ、どうしても涙がこぼれた。
鍋の中からくつくつと煮込まれる音がする。
暖かな照明の下で、焦げ付かないよう時折鍋をかき混ぜる。
何の肩書きにも囚われない時間を幸福と感じる私と、産めなかった我が子を思い涙を流す私は、どちらも紛れもなく私だ。
ひとりの時間を求める私と、子どもを授かり母になりたいと思う私は、同じ一人の人間なのだ。
ぐるぐる、ぐるぐると考えを巡らせる時、私は夫が宇宙の人でよかったと安堵する。
同じ理の中で生きている人間であれば、きっと私は彼を責めてしまうだろう。
葛藤も焦燥も落胆も矛盾も痛みも諦めも願いも祈りも、全てが私だけに押し寄せ、渦を巻いていることに、私はきっと不満をもらすだろう。
なぜ、私の中にだけ嵐が吹き荒れるのかと。
なぜ、あなたの心は凪いだままなのかと。
私たちは同じ理の中の人間なのに。
なぜ、あなたは「子どもが欲しい」と思うだけで親になれるのか、と。
宇宙の人は、人間である私とは少し違う。
だから、私の中にある葛藤と焦燥と落胆と矛盾と痛みと諦めと願いと祈りの、そのどれとも近しい感情を持ち合わせておらず、きっとこの気持ちを理解することは難しいだろう。
でも、宇宙の人は、私の中に葛藤と焦燥と落胆と矛盾と痛みと諦めと願いと祈りが存在することを、そのどれもが確かにそこにあることを認めてくれる。
そして、それがこんなにも胸の内にあるということはきっと大変なことなのだろうと、思いを馳せてくれる。
宇宙の人とは、夫とは、そういう生き物なのである。
微塵切りをしていると、私の肩書きは消えるのだ。
そう夫に話したら「ちょっと説明がほしいな」と笑いながら、最後まで話を聞いてくれるだろう。
私は人間なので、自分でもよく分からない感情の渦にのまれながら、それでも宇宙の人と子を成したいと思うのだろう。
そして、宇宙の人と子どもと3人で歩く未来を想像するのだろう。
ピーっと炊飯器が鳴る。お米が炊けた。
カレーもあと少し煮込めば完成だ。
もうすぐ宇宙の人が帰ってくる。




