第七話「主人公はむっつりさん?!」
「ふぅ〜〜〜……最高〜!」
温泉宿の柔らかい布団に身を沈めながら、五分は思わず声を漏らした。
旅の疲れもあって、今すぐにでも寝落ちしそうになる……のだが。
「うぅ……お腹減った」
すると、隣の部屋から、いや、廊下の向こう側から──
焼肉のような、胃袋をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。
「……これは食いに行くしかない……!」
五分はしばし天井を見つめていたが、何かに取り憑かれたようにむくりと起き上がり、匂いのする部屋へと足を運ぶ。
「どうしよう……こ、ここ女湯だ……」
空腹は既に限界。だが五分にも、理性と社会性くらいはある。
究極の選択を前に、喉がごくりと鳴った。
否か───!
「人生、時には決断が必要!」
下手すぎる言い訳を呟きながら、廊下をそろりそろりと進む。
目の前に揺れる“女湯”の暖簾。罪悪感と食欲がせめぎ合う。
「よし、ここまできた……へへ、“食べちゃうぜ!”」
暖簾の端がふわりと揺れた。潜ろうとした、その瞬間。
「食べちゃうって?」
「あっ……」
ドンピシャのタイミングで目の前に現れたのは、濃い赤髪の美しい女性。
濡れた髪から滴る水滴が、白いバスタオルにしっとり吸い込まれていく。
タオルで無造作に髪を拭う仕草すら、妙に艶っぽい。
視線が合う。
五分の心臓が、ひときわ強く跳ねた。
「……ふーん、」
「えっ、ええっと……」
「"食べちゃう"……そっかそっか、」
「いや、それは意味が違くて……!」
女性はクスッと笑い、潤んだ瞳を細める。
「ふーん、むっつりちゃん、かわいい」
「……!? むっ、むっつりちゃ──」
その言葉を遮るように、姫奈は五分の口元をふわりと手で塞ぐ。
ほんのり温かい掌と、近づく吐息。距離はもう、数センチ。
「私、名前、千竜姫奈。覚えといて。で、あんたは?」
「僕の名前はご──」
「五分だっけ? ふふ、私知ってるよ」
「えっ……いや、知ってるなら聞かないでよ」
艶やかな唇をほころばせながら、姫奈が五分の頬をムニムニとつねる。
近い。近すぎる。ほんのり甘い石鹸の香りが、胸を焦がした。
「へへっ、ごめんごめん。あまりにも反応が“かわいい”からさ」
「……笑い事じゃないよ?!」
しばらく黙り込むと、五分がオドオドと口を開く。
「誤解招くと思いますが、けしてやましい気持ちはないので、見逃してください、」
あわあわする五分のその言葉に、姫奈はニヤリと笑った。
次の瞬間、手をぐっと掴まれる。
勢いで姫奈を壁に押し付ける形になり、心臓が跳ね上がる。
ドン!
すぐ目の前にある、濡れたままの頬。
赤みがさしているのは湯上がりのせいか、それとも──。
「じゃあ、私と“共犯”になろっか?」
「えっ?」
吐息が触れるほどの距離で見つめられ、思考が真っ白になる。
姫奈の頬はほんのり熱を帯び、わずかに揺れる瞳がどこか甘い。
……飲み込むのに、時間がかかる。
──と、その時だった。
背後から、鋭い殺気が走る。
「……ごふん?」
振り向けば、仁王立ちのさくら。
その隣で、金属バットを構えるクリチー。
「あっ、」
一瞬で立場は最悪。
状況的に、完全にクロである。
「な“に”じでる“の”ぉ“??」
怒気と呪気を帯びたさくらの声に、五分は死を悟る。
「いや、これは……違う! 誤解! 誤解!」
しかし追い打ちをかけるように、姫奈が妖しく囁いた。
「早く襲って♡」
「終わったァァ!!」
彼が終わりを悟ったその時。
さくらの瞳が真っ赤に光り、クリチーのバットが振り上げられる。
─────その後主人公を見た者はいなかったと言う……。