05. 錆犬王の左腕
戦場は、混沌を極めていた。まさに乱戦。
エヌナは自国の陣営に加わって、誰も殺さぬように細心の注意を払い、剣を振るいながら叫び続けていた。
「撤退せよ! 全軍、撤退せよ! これ以上、誰も殺してはならない!」と。ひたすらに、喉から血を吐くまでに。
十五歳の少女であるエヌナ一人の声は、瞬く間に兵たちの怒号や断末魔で掻き消される。
エヌナはどうしようもない無力感に襲われた。
やはり〈勇者〉などは名ばかりで。自分は命鉱神ヲルカヌスに選ばれたわけでもない。
己は無力で愚かな、ただの人間でしかないのだと。
「ゴヴァノンの勇者だ! 殺せぇ! 何が勇者だ、ただのガキだ!」
他の三国の兵たちがエヌナに群がり、次々と襲い掛かってくる。
エヌナは剣を放り捨てて、己を貫こうとする槍に向かって、両手を微かに広げた。
彼らの言う通りだった。エヌナは結局、何者でもない。この戦場で人知れず死にゆく、誰も何も守ることができない、ただの人間——。
ならばせめて、この地で初めて武器を捨てた、唯一の人間に成ろう。
それだけが、エヌナが錆犬王——ヲルカヌスにできる、数少ない贖罪なのではないかと、信じて。
「——!」
ふと。戦場にいる全ての人間が、天を仰いだ。
何故なら、恐ろしほどに美しい遠吠えの音が、世界に透き通るように響き渡ったから。
「あ、あれは……錆犬王だあ!」
誰かの声で、エヌナは我に返り、声が聴こえた方を振り向く。
そこには、巨大な狐のような、狼のような獣が、風の如き疾さで戦場を駆け回っていた。
間違いない。あの獣は錆犬王——命鉱神ヲルカヌス。
ヲルカヌスは、争い合う四国それぞれの陣営に飛び掛かり、各国が掲げる、ヲルカヌスがかつて授けた武器生みの神器——神剣、神槍、神弓、神矛の全てを瞬く間に錆び付かせ、破壊した。
すると、神器から生み出された各国の武器も間もなく錆と化し、戦場の武器が全て消滅する。そうして間もなく四国は「錆犬王の呪い」を恐れて、それぞれ自国に撤退し始めた。
エヌナは気が付けば、いつの間にか駆け出していて、戦場のはずれに降り立ったヲルカヌスのもとへと駆け付ける。
そしていつものような人型に戻ったヲルカヌスへと、息を切らしながら小さく問うた。
「どう、して……」
「どうしてって? そりゃまあ。必要とされたし、お願いもされたからな。君に」
ヲルカヌスはにやりと不敵な笑みを浮かべる。しかしエヌナは、不安と混乱がごちゃ混ぜになった震える声で続けた。
「でもこのままじゃ、あなただけが憎まれて……!」
「いいんだ。だって、君がいるだろ?」
ヲルカヌスが小首を傾げて見せる。
「君は、私のことが嫌いか?」
「……嫌いなわけ、ない。そんなこと、天地がひっくりかえっても、あるわけない……!」
「そうかい。それならもう、じゅうぶんだな」
きっぱりと首を横に振って見せたエヌナに、ヲルカヌスが目を細めて頷いた。
しかし、このままではヲルカヌスが「神に背く破壊者」として人間たちに追われることにもなりかねない。
エヌナはヲルカヌスの目の前にまで駆け寄ってきて、ヲルカヌスの右腕をやはり躊躇なく掴んだ。
「それなら、今こそ〈命鉱の大山脈〉を……! あなたの左腕を取り戻し、あなたこそが命鉱神ヲルカヌスなのだと明かすべきだよ」
エヌナは訴えるが、ヲルカヌスは首を横に振る。
「今の人間たちにはまだ、私の左腕が生み出す鉱物や大地の実りが必要だ。いつか私の左腕が見向きもされなくなるような……それくらいの、人間たちの文明の進歩を待つさ」
「だけど……!」
エヌナは納得できないと食い下がる。
錆犬王こそが、原始の人間を「人間」たらしめる技術を授けた恵みの神であり、神の恩恵に甘えて欲に溺れたゆえに起きた醜い戦争を終結させた、紛れもない〈英雄〉であるのにと。
こんなにも自分勝手な人間は——自分たちは、赦されないと。
それにヲルカヌスは目を伏せて、柔らかく応える。
「人間を憎く思うときは勿論ある。だけどやっぱり、それ以上に私は、人間が可愛く思えて仕方ないんだ」
ふとヲルカヌスは目を上げてエヌナを見下ろすと、お茶目に片目を瞑って見せた。
「ああでも、君は違うな? 君のことだけは可愛いなんて思わない。君は何というか……凭れかかりたくなる。こんなこと思っちまうなんて、憎たらしくて堪らないよ」
そんなことを言われてしまったら、もうエヌナは何も言えなくなる。
後悔と、罪悪感と、それ以上に堪らないほどの嬉しさと。
様々な激情が綯い交ぜになったエヌナは一度目を伏せて深く息を吐き出すと、ヲルカヌスの右腕を摩りながら再びヲルカヌスを見上げる。
「左腕は……本当に、いいの?」
「ああ、もういい。だってさ、君が私の左腕に成ってくれるんだろ?」
それは、いつかの独り言。
ヲルカヌスが「当然」とでも言いたげに、得意げな顔で小首を傾げて見せる。
「というか、もう。私の左腕は、エヌナがいいんだ」
ヲルカヌスの大きな狐耳につけられた耳飾りが、シャララと涼やかに鳴った。
「私はこれから、旅に出る——私の新たな左腕が宣った、この錆の右腕を以て。私が生み出してしまった血濡れた武器や争いを、錆び付かせたいんだ。よければ君も、一緒に旅などいかがでしょうか? 勇者姫エヌナよ」
そこでようやく、エヌナは心からの笑みを浮かべることができた。
光が迸るような、無邪気な笑みだった。
エヌナは肩を震わせて笑いながら、掴んでいたヲルカヌスの右腕を軽く叩く。
「ありがとう。うん、行く——でも、姫はやめて」
「頑固な勇者様だ」
エヌナとヲルカヌスは、隣立って共に歩き出す。
エヌナは改めて痛いほどに、思い知った。
やっぱりこのヒトは——途轍もなく、途方もなくやさしいヒトなのだと。
もう二度と、このやさしい神が傷ついてしまわないように。
どれだけ傷つけられようとも「人間が愛おしい」と言ってくれる無垢な神の愛が、傷つけられないように。
わたしが今度こそ〈勇者〉と成るのだ。
これが、わたしが選んだ道。
わたしが歩むべき、わたしだけの路。
これは、いずれ勇者と成る少女と一柱の神の、新たなる旅立ち。
「ねえ。今更だけど……わたしもあなたの名前を呼んでもいい?」
「お。いいぜ? んじゃまあ、〈麗しき錆犬の君ヲルカヌス〉って呼んでくれ」
「じゃあ、ヲルカね」
「あー、はい。さいですか」
「あとヲルカ、錆犬王のままでいいの?」
「今はもう、錆犬の方が気に入ってる。つまりエヌナは、〈錆犬王の左腕〉ってこと。勇者姫エヌナと、どっちがいい?」
「当然。〈錆犬王の左腕エヌナ〉に決まってる」
「だな。最高にイケてる。私ら」