03. 錆犬王の為人
それからまた、何日もエヌナは錆犬王のもとへと通った。錆犬王は相変わらず自分の事は話してくれなかったが、エヌナが落とし穴に嵌められる回数は減っている気がした。
そして、とある日。錆犬王が「私がカミだった頃は……」などと、どう考えても聞き逃せないことをぽろっと零したので、エヌナはその発言についてしつこく問い詰めた。
するとエヌナの鬼気迫る尋問にとうとう観念したのか、錆犬王がようやく苦々しい顔をして己の事を語り始めたのだった。
「あー、はいはい。そうだよ。……私はかつて、神だった。人間たちの誰もが私を褒め称えてくれる、誰もが私に助けを求めてくれる、そんな神だった」
錆犬王が琥珀色の双眸を細めて、どこか遠くを見ながら小さく吐息を漏らす。
「だが、今の私には左腕がない。あの左腕は、私の魂の半身。神格そのもの」
目を伏せて、錆犬王が短く途切れた己の左腕を、あらゆるものを錆び付かせる右手で摩る。
「左腕がなければ、私は人間たちを助けてやれない。守ってやれない。何の役にも立てない。左腕のない私なんて、ずる賢いただの狐狼も同然。神じゃない」
淡々と語る錆犬王は何処か寂し気な、昏い顔をしていた。こんな錆犬王の顔を目の当たりにするのは、エヌナは初めてだった。
「じゃあ……その左腕は、どうして失くしてしまったの?」
「人間たちに奪われた」
「え……?」
錆犬王の衝撃的な答えにエヌナは間の抜けた声を漏らして、ゆっくりと瞠目する。
一方、錆犬王はどこか困ったように眦を下げて、小さく苦笑した。
「ほんと、人間って私の想像を遥かに上回ることをいつもしでかしてくれるよな。君もそうだ」
「こんなことを誰かに喋ったの、初めてだし」と錆犬王がまた噴き出すように笑う。
しかし、エヌナは笑っている場合ではない心境であった。
何故なら錆犬王は、人間のせいで魂の半身、神格ともいえる左腕を失くしてしまい、挙句の果てには人間たちに「怪物」と勝手に恐れられて、罵られているのだ。
そんなこと——エヌナだったら、耐えられない。
エヌナは一人分の空間を空けて隣に座る錆犬王へと顔を向け、微かに身を乗り出す。
「人間に奪われたって……そんなの、いけない。許されないことだ! 取り返そうとはしなかったの? 何なら、わたしがあなたの左腕を取り返して……」
「ああ、いいんだ」
錆犬王が錆の右腕を軽く掲げて、ひらりと手を振って見せる。
「人間たちには、私の左腕が必要だ。千年もの間、私の左腕を必要としてくれている。そんなの、取り上げちまうなんてできないだろ」
どうってことないとでも言いたいような、けろっとした表情だった。
そんな錆犬王の様子に驚愕したまま、エヌナは信じられないと叫びたいような声色を滲ませて、首をゆるゆると横に振る。
「あなた……そんなに、酷いことをされて……怒っていないの? 憎んでもおかしくない仕打ちだよ、そんなの」
「私が人間を怒る? 憎む? ふはは。そんなこと思うわけないだろ」
錆犬王は目を細めて、無邪気に笑った。
「だって人間ってのは、いつの時代も可愛くてしょうがないからな」
ようやくエヌナは、錆犬王の——かつて神だったというこの男の、為人を心底痛いほどに理解した。
エヌナは唇を嚙みしめながら錆犬のすぐ隣に膝を抱いて座り込んで、小さく、しかし心から深く謝罪の言葉を口にする。
「今まで、失礼なことばかり言ってごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
「何だよ、いきなり。気持ち悪いな」
「だってあなた、良い狼……とても良い、狐の神様だよ。わたし、あなたのこと何も知らなくて……最悪だった」
己の愚かさを省みて酷く落ち込んでいるエヌナの様子に、錆犬王が噴き出すように小さく苦笑して、揶揄うような声色をエヌナに向ける。
「そんな顔するな。らしくないぜ、勇者姫。それに君は、私を知ろうとしたし、たった今いくらか知ってくれたじゃないか。謝ることはない」
やはり、錆犬王は——恐ろしいほど、やさしい神なのだ。こちらが泣きたくなるほど、やさしい男なのだ。
それをまた、まざまざと痛感したエヌナは、隣に座る錆犬王の失われた左腕をぼうっと見つめて、小さく零す。
「わたしが────たら、いいのに」
ほんの小さい、独り言のつもりだった。
しかし、狐の大きな耳で、虫の鳴き声のようなエヌナの声は拾われてしまったらしい。
錆犬王が心底驚いたように目を見開いて、エヌナを覗き込んできた。
「……君が?」
人間のエヌナが、そんなことを思うなど。身勝手極まりない、自惚れも甚だしいものだという自覚があって、エヌナは思いがけず立ち上がると錆犬王に背を向けた。
「いや……わたしなんかじゃ、不相応過ぎるか——ごめんなさい。今のは気にしないで。わたし、もう帰らないと。それじゃ、また明日」
「おい」と呼び止められる声を背に、エヌナは洞窟の外に駆け出した。
何が〈勇者〉。何が命鉱神ヲルカヌスの申し子、だ。
どうしてわたしは——あんなにもやさしいヒトを、「怪物」だなんて、決めつけていたのだろう。