結局
「久々に凄いの触っちゃった」
「……」
「あ、ごめんね、びっくりした? もう消えたよ」
竜崎さんは軽く微笑んで私にそう言った。私はようやく意識を戻したようにハッとし、彼に駆け寄る。
「りゅ、竜崎さん、怪我を!」
少女が爪を食い込ませて作った竜崎さんの傷は消えることなくそのままだった。手の甲に何か所か傷があり、そこから血が出ている。ぽたぽたと地面に垂れていく血を見て、なかなか深い傷なのだとわかる。
私はカバンからハンドタオルを取り出して傷口に当てた。
「た、大変だ!」
「平気だよこれくらい……でもありがとう」
「お礼を言うのは私の方です! あんなのだって全然わからなくて……竜崎さんの妹さんなのかと」
とんでもない勘違いだ。怪物を、竜崎さんの妹と勘違いしたなんて。
だが彼は首を横に振った。
「僕も気づかなかったんだからしょうがないって。えげつないものだったね……でも、これで花音が引きずられやすい原因も分かったからよかった。もしかして、見える力もなくなったかもよ」
「……えっ」
「あれが君に悪さをしていたと思うんだけど」
「そんな、どうして私に……」
「うーんさすがにそこまでは分からないけど、よっぽど波長が合ったのかな? まあ、僕が消したからもう被害に遭うことはない。今までの花音に戻れてるといいけど」
竜崎さんの言葉に、バクバクと心臓が鳴った。二十五歳で急に目覚めた私の能力の原因があの少女だったら、それを退治したことで能力がまた消えた?
私は普通の生活に戻れるというの?
最高じゃないか。あんなに怖い霊を見なくて済むようになる。外出だって気軽に行ける、前のアパートに戻れる、仕事だって……前の生活が戻って来るんだ。
そう思ったのに、なぜか私の心は晴れない。
「花音?」
私の顔を覗き込んでくる竜崎さんを見て、ああ私は彼らという人間にとことんはまってしまったんだと痛感した。
あの居心地のいい家が、ツンデレな雅さんが、ちょっと口が悪い所があるけど優しい祐樹さんが、そして不思議なこの竜崎さんが。
大好きになってしまって、関係なくなってしまうのが嫌なのだ。
「……わ、私……月乃庭を出たくないです……」
震える声でぼそりと呟く。
「見えなくなったらあそこにいる資格がないって分かってるけど、もうみなさんがいない生活なんて考えられないっていうか。私、あの家と三人が大好きなんです……! 出て行くなんて、考えられない。そうだ、家事当番としておいていただけませんか?」
せっかくここまで来たのに、終わりになんてしたくない。
しばらく沈黙が流れた後、竜崎さんが困ったように頭を搔く。彼はうーんと唸り、首を傾げる。
「まあ、うちの入居条件はみえることなんだけど……」
「……で、ですよね……普通の人間がいたら迷惑ですよね……」
「ここまで過去も話しちゃったし頑張ってきたし、出て行けとは言いにくいよね」
竜崎さんの言葉にパッと顔を上げる。彼は少しだけ口角をあげていた。
「まあ、別にいいんじゃない、特例ってことで」
「……いいんですか!?」
「雅は文句言いそうだけど、まあ何とかなるでしょう」
「や、やった!」
私はわっと喜びの声を上げた。あそこから出て行かなくていい、これからも一員として過ごせることがこんなに嬉しいなんて思わなかった。
喜ぶ私を見て、竜崎さんが笑う。
「僕も、花音がいなくなったら寂しいから」
「…………」
あ、ああ。
こういうところだよ……。
私は顔を一気に赤くした。心臓が痛くてたまらず、息が上手く吸えない。さらりと出てきた竜崎さんの言葉は破壊力がすさまじく、でも彼は一切気づいていないのがまた辛い。
やっぱりこの人、凄い。人を沼らせる天才だと思う……。
そこでハッとした。いけない、雅さんがいるし私は絶対に沼ってはいけない。せっかく雅さんとも仲良くなれそうなんだから、竜崎さんに好意を持ったりしては台無しになる。祐樹さんもそういう話題に敏感だし。絶対絶対、恋は禁止だ。
私は自分に言い聞かせて冷静を努める。
「えっと……ではあの、今後もよろしくお願いします」
「うん、よろしく。あータオル汚れちゃったね、ごめん」
「全然いいんですそんなの! 私のせいで怪我を負わせちゃって……本当に助かりました、ありがとうございます。竜崎さんは黒い影しか見えないから、妹さんだと気づかないのかなって思っちゃったんです」
「ああ、それね。まだ僕は話の途中だったんだ。
妹は死んでないんだよ」
私は彼の手にタオルを当てたまま停止する。竜崎さんの綺麗な顔がすぐそこにあった。
「紛らわしい言い方をしてごめん」
「……え、あ……生きてらっしゃる……?」
「四階から落ちて、集中治療室に入るほど大変だったんだけど、それから何とか回復してるんだよ」
なんという勘違いを! 私はああっと空を仰いだ。
確かに竜崎さんは、一言も『死んだ』とは言っていなかった。『もう会えない』とかそういう発言から、勝手に亡くなったのだと思い込んでしまっていた。
竜崎さんは叔父さんの家に預けられて家族に会うことはなくなったと言っていたし、恐らく両親に妹さんとは会わせないようにされているので、もう会えないと言っていたのか。
私は全身脱力する。
「す、すみません……私一人で突っ走っちゃって!」
「いや、僕の言い方も悪かった」
「そりゃ妹さんの霊なわけないですよね。生きてらっしゃるんだから……」
はあとため息をつきながら、そっと彼の手の甲からタオルを外す。血は止まったようだが、皮膚が傷ついて痛々しいことになっている。今からちょうど薬局に行くし、手当するものを買ってこなきゃ。
「美月だよ」
「この傷、かなり深い……え? なんですか?」
「だから、妹は美月だよ」
竜崎さんが私を見てそうさらりと言った。美月……美月? それは、ルナテスラのメンバーじゃ……。
私はぽかんとして、これまでの竜崎さんの言動を頭の中で繰り返していた。
幼い頃から会えなくなった妹……意外だと思っていたドルオタ……たくさんのグッズを揃えるほどの強い美月推し……。
「……え」
「黙っててごめんね。いくら駆け出しで知名度が低いとは言っても、やっぱり芸能人と血のつながりがあるっていうことはあまり言わないようにしてて……花音を信じてなかったわけじゃないんだけど。もう正式にうちのメンバーになったから、いっかって」
「……美月さん、が、妹……?」
「名前と、それから何より昔の面影がそのまま残ってるから、見つけた時すぐに分かった。びっくりしたよ、テレビで見ちゃったんだから」
竜崎さんが笑ってそう言った。その優しい笑顔は、妹を想う兄の顔だった。
そうだったのか。竜崎さんがドルオタって、なんだか意外だなと思っていた。それは夢を追う妹を応援したかったからなのか。きっともう二度と会うことは許されない妹の姿を遠くから眺めることが出来ただけで、彼にとっては嬉しかったんだろう。
自分のせいで大怪我を負わせてしまったと思っている中、成長した妹を見られた時、彼はどれほど救われたのか……。
「そうだったんですか……! だから、竜崎さんはこんなにルナテスラを推していたんですね」
「僕にできるのは、美月を影ながら応援することぐらいだからね。あんなに小さかった美月が歌って踊って話して、それを見るだけで凄く楽しいよ。いつかもっと有名になれたらいいなと思ってる」
「……やっぱり竜崎さん、素敵なお兄さんですね」
私が心の底から言った。少し戸惑ってしまったポスターが貼ってある彼の部屋も、ピンク色の名刺入れも、柑橘系の香りも、最高のモノだと思える。両親には愛されず育ったのに、妹には惜しみなく愛情を注げるなんてすばらしい人だと思った。
心が温かくなる。やっぱりこの人に出会えてよかった。
「ああ、すっかり遅くなっちゃったね。薬局に行くだけのはずだったのに」
「そうでした。薬局で手当てする物も買いましょう」
「舐めときゃ治るよ」
「犬じゃないんですから……」
ずっと立ち止まっていた私たちはようやく歩き出した。相変わらず静かで真っ暗な住宅街。ここで恐ろしい怪物と戦ったなんて思えないほど平和な道だった。
穏やかな気持ちで歩き続けている時、ふと気になったことがあった。
それは少し先の電柱の下。街灯がひっそりと照らすことで出来た影の隙間。
「……」
「……あの」
「一個訊いてもいい?」
「はい」
「あそこに誰か立ってるの、見える?」
竜崎さんが指をさした先には、首から大量出血した男性がこちらを睨んでいた。
「…………」
「あれっ。見えてるっぽい?」
「……目が合っちゃいました」
「あらら。あの少女を消しても、開花しちゃった能力は消えなかったかあ。それとも原因はやっぱり違ったのかな? でもすぐに目を逸らせたね、引きずられる様子はないね」
「……さっきの会話は全部いらなかったですね……私、普通にまだ力残ってました……」
ちょっと感動的な会話だと思っていたのに、必要なかった。
私の視える生活は、まだまだ続くらしい。




