月乃庭
気をつけながら電車で彼の住む街へと移動した。彼に助言を貰ってから、サングラスをかけて動くようになっていた。見える数が減るわけではないのだが、多少は気がまぎれるし、目が合ってしまっても誤魔化せることが増えた気がする。彼の言葉通りにしてよかった、と思っている。
一体どんな場所に辿り着くのだろう、とドキドキしながら探していたのだが、まず見えたのは閑静な住宅街でなんだか拍子抜けした。例えば人里離れたところにある怪しい施設だとか、そういう場所だったらどうしようと思っていたのだ。
なにせ、名刺に書いてあるこの文字が気になってしかたがない。
「月乃庭、管理人って何だろう……」
頭に思い浮かぶは怪しい集団の姿ばかり。もしそういう系統のお誘いだったら、ちゃんと断って帰れるだろうか。でも、竜崎さんがあの線路で何かを感じ取ったのは本当みたいだし……。
困ったままスマホを片手に目的の場所をついに見つけ、緊張しながら近づいてみる。そこにあったのは、少し大きめの一軒家があった。
外壁はアイボリーの漆喰で、柔らかで穏やかな雰囲気を醸し出している。屋根はオレンジ色に近い茶色で、波打つようにゆるやかなカーブを描いており、これまた温かな印象だ。玄関ドアは明るい色をした木製で、訪問者を歓迎しているように感じさせる。足元には小さなプランターがあり、パンジーが咲いていた。
周りの家とは少しテイストが違う……確かこういうのって、ナチュラルフレンチっていうんだっけ。
可愛らしい外観につい見惚れてしまった。想像していたのとあまりに違う。ここにあの人がいるというのか。
表札を見てみると、竜崎と書かれていたので間違いない。
「もしかして自宅? でも月乃庭って何……?」
玄関の前でうろうろと怪しく動き回ってしまう。しかしここまで来ておいて、帰るわけにいはいかない。私は決意し、インターホンに手を伸ばした。
「あーーっ。水やり俺だったあ! 忘れてたー!」
押す直前、そんな賑やかな声がして玄関から一人の男性が飛び出してきた。びくっと反応し、伸ばしていた手を引っ込める。彼は立ち尽くしている私に驚いた顔をし、きょとんとした。
同い年くらいだろうか? 短髪で栗色の髪をした男性は、やや吊り目のすっきりした顔で、スポーツをしていそうな爽やかさがあった。私はサングラスっを取り、慌てて頭を下げる。
「きゅ、急にすみません!」
「あ、いえ……どちら様?」
「あの、竜崎さんっていう方がいらっしゃいませんか? ちょっとお会いできれば、と思って……」
私が竜崎さんの名前を出した途端、目の前の彼は一瞬で表情をこわばらせた。元々少し上がり気味な目じりをさらに吊り上げ、私を睨むように威嚇する。その表情の変化に、私はついたじろいだ。
「え、なに? 誰ですかあんた。竜崎さんに会いに来たの?」
「あ、あの、そうなんですが、アポはとってなくて……」
「あーやっぱりね。そんな暇ないんだわ、帰ってもらえる? 急に来ても迷惑だよ」
「でも……」
「竜崎さんは会わない。帰った帰った」
まるでハエを払うかのように、手をしっしっと払った彼は、私の存在を無視してパンジーに水をあげ始める。間違いなく歓迎されていないことがわかり、私は涙目になってしまった。
もう彼ぐらいしか頼れる人もいないのに……。
でもこれ以上ごねる勇気もなく、私は俯いて去ろうとする。するとその時、玄関の扉が開く音がした。
「何事?」
聞き覚えのある落ち着いた声――はっとして振り返ると、やはり竜崎さんが立っていたのだ。相変わらず無造作な髪をぼりぼりと搔いて揺らし、どこか眠そうな顔で立っていた。全身真っ黒なスウェットを着ている。
「竜崎さん!」
私がわっと笑顔になった途端、水やりをしていた男性がばっと竜崎さんを庇うようにして私の前に立ちはだかる。私はぽかんと彼を見上げた。
「竜崎さん! なんかこの女、急に竜崎さんを訪ねてきたんです! またどっかから沸いて出た女ですよきっと!」
「あ、あの……先日名刺を頂いた者です!」
私は慌ててカバンから貰った名刺を取りだし、二人に見せる。竜崎さんはじいっとそれを眺めて、何かを考えるように唸った後、ああ、と小さく声を漏らした。
「思い出した。線路に身投げしようとしてた人か」
竜崎さんのセリフに、男性はぎょっとしたように私を見た。
「身投げ!?」
「あ、あの、色々事情がありまして……竜崎さんに助けて頂いて、その時名刺を頂いたんです」
「あ……あーそういうこと!? なるほどね。だったら最初から言えよ」
「す、すみません……」
言う隙を与えてくれなかったのはそっちじゃないか、と言いたかったけれど飲み込んだ。私たちの様子を黙って見ていた竜崎さんは、一つあくびをした後、私に言う。
「入って」
「あ……は、はい!」
私は誘われるがまま、この可愛らしいお家に足を踏み入れてしまっていた。あれだけ警戒していたのに簡単に中に入ってしまったのは、よっぽど自分が切羽詰まっていたからだと思う。
中は日当たりがよく、外と同じように明るい家だった。
白っぽい木材を基調とした家具が並んでいる。大きなダイニングテーブルには椅子が六脚。茶色のソファもかなりの大きさで、この家に住んでいる人は大家族なのだろうか、と思った。少なくとも、私の実家のものよりはるかに大きい。
どれもお洒落で可愛らしく、女性が好きなデザインだと思った。
「座って」
竜崎さんに促され、私はダイニングテーブルに腰かけ、彼は正面に座った。少しして、もう一人の男性が私たちにコーヒーを持ってきてくれる。
「あ、すみません……!」
「竜崎さんさ、こういう外見だから変な女が自宅を調べて急に来たりすんの。後つけてくるとかさ。てっきり、そういう類なのかと思ったよ」
「なるほど……」
男性が困ったように言ったので納得した。竜崎さんは確かに、高身長でものすごく顔が綺麗だ。初めて会った時は他のことに気を取られていたのだが、こんなに綺麗な人と向かい合って話すのは初めてだ、と今さら思った。
私にはまるでわからない苦悩だが、ストーカーとかしつこい人とか、そういうのがいるんだろう。
「私はそういうのじゃなくて……あの、お会いした時も少し話したんですが、ここ最近突然おかしなものが見えるようになりまして。いろいろ対策をしたのですが、どうにもならず。藁にもすがる思いで、竜崎さんの元へ」
そこで、これまでの流れを全て説明した。二十五になってから突然能力が開花し、家でも職場でも心が休まらず、仕事は休職中だということ。あらゆる場所に助けを求めても解決できず、もはやお手上げだということ。竜崎さんはずっと無言で、コーヒーを啜りながら私の話を聞いてくれていた。
出されたコーヒーには手も付けず、私は一気にすべてを話した。話し終えた頃には、コーヒーはすっかり冷めてしまっていた。喉を潤すためにようやくコーヒーを頂く。すると黙っていた竜崎さんが口を開く。
「言ったけど、僕はこんな大人になってから能力が目覚める人なんて初めて会ったんだ。普通はみんな生まれつきだからね……何か原因がある可能性は高い」
「原因?」
「心当たりない? 見えるようになった日の前に、おかしなこと。心霊スポットに行ったとか、そういうことでもいい」
「全くないです、本当に。私元々怖がりなんです。怖い話も苦手だし、こっくりさんとかもやったことないし……何も思いつきません」
「うーん……」
竜崎さんは考えるように黙り込んだので沈黙が流れる。少し気まずく思った私は、話題を変えてみる。
「あの、この月乃庭っていうのは……」
答えたのは、竜崎さんの隣に座るもう一人の男性だ。
「ああ、ここの家の名前。ルームシェアしてるんだ」
「あ、それで管理人って……」
「ただし住民は普通の人間じゃないけど。あんたと同じ見える人」
「え!?」
驚きの声を上げてしまった。竜崎さんだけではなく、この人も同じ能力を持っているだなんて!
「そ、そうなんですか? 私、今まで見える人なんて会ったことなくて……」
「そらそうだろうねえ。普通、『私見えます』なんて言わないから。おかしな人間として見られるだけだからな」
「……そうですね。私も、誰にも言えていません……」
親にすらどういおうか迷っていたくらいだ。友達にだって相談できていない。それぐらい、自分の見えている世界は信じられないものなのだ。
でも、竜崎さんとこの人も見えるだなんて。それだけで、心が救われる気がする。