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窓の外

 はあとため息をつき、私も湯舟から上がる。すぐに出ても脱衣所は狭いと思うので、先ほどはしなかったトリートメントをしようと思い立ち、一旦鏡の前に座った。顔が火照った自分が映っている。まとめた髪を一旦下ろし、置いておいた自分のトリートメントを手に取った。


 雅さんはとにかく私が竜崎さんに想いを寄せないか心配なんだな。祐樹さんもそうだけど、雅さんの場合は恋のライバルになるかもしれないってことだから、祐樹さんより強い思いなんだろう。


 そりゃあ、幼い頃からずっと憧れで一緒に暮らして仕事して、そんな中に知らない女が入ってきたら嫌だろうなあ。彼女の気持ちも理解できる。でも認めてもらわないと、ここで住みにくくなってしまう。同性だから仲良くしたんだけどな。


 ため息をつきながら、黒髪の先端にぬるっとした感覚が行きわたったのを確認して今度はお湯で流す。雅さんが出たら私も脱衣所へ行こう、と思いながらシャワーを止めると、ふと何か違和感を覚えた。


 目の前の鏡には、素顔の私とその後ろにすりガラスが映っている。すりガラスの向こうには雅さんがいるはずで、彼女の体を拭く影が映っているはずだ。


 なのに、誰もいなかった。


「あれ……雅さん、いつの間にか出て行った……?」


 だがそれはおかしいと思った。確かに私はトリートメントをしていたしシャワーも使っていたけれど、ここの洗面所の扉は静かに開閉しても結構大きな音を出すので、気づかないはずがない。それに大変失礼な言い方をするけれど、雅さんなら静かに扱うことはしない気がする。


「雅さん?」


 振り返って声を掛けてみるが返って来ない。


 だがその代わりに、低い低い声が響いてきた。


「うぅ……う」


 自然と自分の息が止まった。


 それは男性のうめき声だった。誰かが苦しみ、誰かに助けを求めるような低い唸り声。とても小さな声だが、自然とはっきり耳に届いてくる。当然ながら雅さんの声でないし、何よりその声は脱衣所ではなく、湯舟の向こう側に付けられた窓の外から聞こえてきていた。


 私はカタカタと震え出した自分の手をぎゅっと握りしめる。


 酔っ払いが近くで眠りこけているのかも。それとも、猫の鳴き声だったり。ううん、風の音がそう聞こえるのかもしれない。


 そう自分に言い聞かせてみるが、どれも違うという確信があった。これは何かの音ではなく確実に人間の声だが、生きている者ではないと。


 すぐに風呂場から出て、竜崎さんたちに伝えなくては。そう思って立ち上がりたいのに、体は全く動かない。肌は表面がひんやりと冷えはじめ、寒気を感じた。



「……いて……き……て」



 声が私を呼んでいる。



 そうだ、この家は竜崎さんの力で守られているから、霊が入ることはできない。だから姿を見せることはできず、外から呼ぶしかない。霊は必死に私を呼んでいる。


「……は、やく出よう」


 ようやく絞り出た声でそう呟くと、体が動いて立ち上がることが出来た。同時に、座っていた風呂用の椅子が動き、湿った床の上でずれて音を出す。この静かな浴室内でそれはやけに大きく響き、自分の心臓が跳ねた。


 するとその音につられたように、声がさらに大きくなった。心臓がまたさらに大きく鳴り、全身鳥肌が立って小さく震えていた。


「き……て……い……てほしい……き……」


 しかし、脱衣所へ向かおうとした私だが、ふと足が止まった。そっと浴槽の向こうにあるガラスの窓を見てみる。


 そこもすりガラスが使われているため外の様子は全くわからない。夜の暗闇が見えるだけで、誰かがいる影などはまるでわからない。普段はあまり開けたことがない窓だが、確か開けて見えるのは家を囲む塀とその周辺に置かれた植物ぐらいだったはず。


 私はゆっくり湯舟に足を入れた。冷えた足が一気に温かさに包まれる。


 掛けられていた鍵をそっと下ろし、ひんやりとした窓ガラスに手を掛けてごくりと唾を飲んで喉を鳴らした。こんなことは今すぐ止めて、ここを出て行った方がいい。そんなことはわかり切っているのにどうしても確かめたかった。もう戻れず、私は決意して思い切りガラス戸を開けた。


 ガラっと音を立てて開いたそこにあったのは、真っ赤な血で汚れた男性の顔だった。


 右側の頭部は外傷で完全に陥没して、そこからどくどくと出血が溢れている。顔全体血にまみれ、あまりの痛々しさに言葉もなかった。私は驚きのあまり大きな悲鳴を上げてしまう。


 けれど自分の悲鳴が響き渡る中、もう一人冷静な私もいた。私は血まみれの顔が私に何かを言う口元を眺め、彼が何かを言いたがっている、と理解した。真っ白な唇がわずかに動き、必死に訴えているのを。


 途端、つるりと足を滑らせ派手にそのまま湯舟の中に転んだ。倒れる際に後頭部をぶつけたようで、目の前がチカチカして一瞬意識が遠のきそうになる。さらには、混乱したためかたっぷり溜められたお湯の終わりがどこか分からず、必死に手足をばたつかせるしか出来なくなった。


 ぶつけた頭はずきずきとひどく痛んで頭はガンガン音が鳴っているし、酸素もなく苦痛ばかりの中、パニックで暴れていると、突然その手が強く引かれた。


「何やってんのよ!!」


 私の体を引いてくれたのは雅さんだった。


 彼女は白いパジャマを着て、まだ濡れたままの髪を垂らしたまま焦った顔でこちらを見下ろしていた。私は咳き込みながら呆然とする。


「死にたいのあんた!?」


「……雅、さん……」


「痛いとこない!? どっかぶったんじゃないの?」


 焦ったように言う彼女の後ろから、別の人の声がした。


「花音!?」


「どうした!?」


 廊下の方から竜崎さんたちの声が聞こえる。私はぼうっとした頭でそれを認識したが、雅さんがキッと向こうを睨みつけて叫んだ。


「男ども来ないでよ!! 中に入らずに待ってなさい!!」


 それを聞いてハッと、自分が裸であることを思い出す。ここに竜崎さんたちが飛び込んでいたら大変なことになるところだった。


「手、もう離しても大丈夫?」


「は、はい……」


 雅さんは怖い顔をしたまま一旦離れ、バスタオルを持ってきてくれた。


「立てるの?」


「た、多分……」


「とにかく出て!」


 雅さんに言われ、私はふらつきながら湯舟から出た。そのまま二人で脱衣所に行き、私は未だぼうっとしながらとりあえず受け取ったバスタオルで体を拭く。


 雅さんは仁王立ちで難しい顔をしていた。


「何事なの? ドライヤーで髪を乾かしていたら、急に叫び出すからびっくりしたんだけど。なんかでかい音もしたし」


「えっ……雅さん、一度いなくなりませんでしたか……?」


「なってない! ずっといたわよ!」


 ということは、あの時点で完全に霊に引っ張られてしまったのだろうか。


「ていうか早くパンツ履いて! ブラつけて! 服も着る!」


「は、はあ……」


「……雅、僕たちはここにいていいの?」


 扉の向こうから困ったような竜崎さんの声がしたので、一気に現実に引き戻される。なんとなく、彼らの前でパンツを履け、と言われたのが恥ずかしくなり、一気に顔が赤くなった。


「一応待ってて」


「……分かった」


 私が急いで服を着終え、ようやく扉を開けと、心配そうな竜崎さんと祐樹さんが立って私たちを見ていた。


「すっげー叫び声したけど。何があった? ゴキブリだったとか言うなよ?」


「……あの……窓の外に霊がいまして……」


 私はぽつりぽつりと今見たものを話した。雅さんがいなくなったように見え、外から声がして窓を開けたこと。血だらけの男性がこちらを見ていたこと。


 竜崎さんは眉間に皺を寄せて何かを考え込み、祐樹さんはぎょっとしたように目を丸くした。


「まじ? この家は竜崎さんが処置してくれてるから普通は何も入れないんだぞ」


 それに対し雅さんが声を上げる。


「まあ、入ってはないんじゃない? 呼んだんでしょ。それに答えたこの子が馬鹿なのよ」


「あーなるほど? でも雅がいないように見えたっていうのは、結構影響受けちゃってるじゃん」


「……まあね」


 黙っていた竜崎さんが頭を搔きながら言う。


「この家の防御はもう一度やり直してみる。少し弱まっていたのかもしれない。でも、あえて見に行かなければそこまで影響を受けなかったはずだ。わざわざ行くなんて無謀すぎるよ」


「ご、ごめんなさい……」


「とりあえず一旦リビングに戻ろう。花音は髪も乾かしてきて」


 そう言って竜崎さんがくるりと向こうを向いたので、私はその背に向かって言う。


「竜崎さん! ……どうしても、私はさっきの霊の声が聞きたかったんです……! ううん、聞くだけじゃなくて……」


 三人が私を見つめている。水滴が垂れる髪をそのままに、私はぐっと前を見て言った。


「浅山さんのこと……もう一度、考えてみませんか」






 


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