激変した日常
二十五歳の誕生日を迎えた日、私の人生は終わった。
安藤花音、どこにでもいる女、職業OL……だった。
現在、年は二十五歳と三ヵ月。趣味、お酒を嗜むこと。外見普通、体系普通、彼氏はずっと募集中。性格はまあまあ明るい、と自分では思っている。
これまで平穏そのものの生活を送ってきた。母曰く幼い頃病気で死にかけたらしいが、奇跡的に回復しその後は健康そのもの。友達もいるし就職先もそこそこいい場所に入り、充実した日々を送っていた。
それが三ヵ月前、私が誕生日を迎えた日のこと。この生活は一変してしまう。
日付が変わり、友達から『誕生日おめでとう』の連絡が来て、顔を綻ばせながら返信した。誕生日は嬉しかったが、祖母が亡くなって葬儀が終わったばかりだったので、大きく祝うことはしなかった。おめでとうと言ってくれる友人がいるだけで十分幸せなのだ、と思って。
返信した直後、酷い頭痛に襲われた。つい顔をしかめ、唸り声が自然と漏れてしまうほどの強い頭痛だった。せっかくの誕生日に体調不良なんてついてない。
置いてあった鎮痛剤を飲み、さっさと寝よう、とベッドに入る。部屋の電気を消し、横たわろうとした時だ。
部屋の隅に、誰かが立っていた。
言っておくが私は一人暮らしだ。就職を機に実家を出て、小さなアパートでつつましく暮らしている。ペットも飼っていないし、完全に一人の生活。
ベッドの上から見える『それ』は、ベッドの足元にあるクローゼットの隣に立っていた。電気を消してしまった暗闇の中で、ぼんやりと佇んでいる。見えるのはシルエットで、男か女かはわからなかった。ただ、間違いなく人間の姿をしていた。
人間、そんなことが突然起こると、叫ぶよりも一時停止するのだと学んだ。私はまず、変質者が入り込んだのだとばかり思ったのだ。警察を呼ぼうか、でも呼ぶ間に襲われるんじゃないかと必死に考える。
だがふと、急に現れたその姿に疑問を覚えた。私の部屋はたいして広くもないので、人が隠れられる場所など皆無だ。たった今さっきまで電気が煌々とついていた部屋で、なぜ突然人影は現れたのだ。
もしどこかに変質者が隠れていたとしたら、私がベッドに横になり、寝息を立ててから現れるのが普通だろう。
それに、あの影。
息をしているのかさえ心配になりそうなほど、まったく動かない。
しばらく混乱で動けなくなってから、自分は覚悟を決めて部屋の電気を再び付けた。すると、その人影は一瞬で消えてしまった。何かの見間違いなどではない、本当に忽然と消滅したのだ。
再度電気を消す勇気はなかった。私は明るい部屋の中で、眠れぬ夜を明かすこととなった。
だが、これは始まりにしか過ぎなかった。
翌朝、出社しようと部屋から出て駅へ向かうと、視界によく分からない物が映り込んだ。まっすぐ前を向いて歩いているとき、目の端に自然と入り込む場所に、緑色の肌をした人間が立っていた。背は子供ぐらいで小さく、手足が異様に細かった。ぎょろりとした目が印象に残っている。
驚いて足を止め、そちらを見てみる。その生き物は消えていた。
何かの見間違いかと思い、再度歩き出した。しばらくして駅にたどり着き、ホームへ出て列に並んでいると、電車が到着するアナウンスが流れる。すると、電車がやってくるのと同時に、すぐ前に並んでいたサラリーマンの男性が線路に飛び込んだ。
一瞬の出来事だった。男性の血飛沫を顔面に浴びた瞬間、喉から叫び声が漏れる。目の前で体が切断される光景を見て、叫ぶなという方が無理なのである。
だが私を待っていたのは、不思議そうにこちらを見てくる周りの人々の冷たい視線だった。なんだなんだとばかりに私の顔を覗き込み、怪しい人間を見るかのような表情がいくつも並んでいた。
私の顔面は血に汚れてなどいなかった。それどころか、轢かれたはずのサラリーマンの姿はすっかり消えてしまっていたのである。
一人で突然叫びだしたヤバイ人間になってしまっていた自分は、慌てて駅から出た。今自分が見たものが何なのか、なぜあんなものを見たのか説明がつかない。
出社出来そうになかったので、仕事を休み、その足で病院へ行った。精神的に疲れているのかと思ったのだ。
医者は私の話を真摯に聞いてくれる優しいおじいちゃんだった。疲れているんだろう、とのことで薬を処方してもらった。病院から出た瞬間すがるように飲んだ。実はその間も、そばに存在するはずのない生き物の姿を見ていたからだ。
だが何日経っても、変な物を見る力は消えなかった。むしろ、どんどん酷くなっているようだった。
道端を歩いていても、他の人間とは絶対に違う何かはよく立っていた。人の形をしていればまだいい方だった。あの電車の時のように、見たとたん叫びたくなるような姿をしていると、頭がおかしくなりそうだった。また、明らかに人間だとは思えない不思議な生き物たちも多く見える。
必死に出社しても、会社内にもそういうやつらがいる。一番辛かったのは自分のアパートの中にも入ってくることだ。休めるはずの場所が、そうではなくなってしまった。風呂もトイレも、いつ誰がやってくるか分からない。
ようやくお札だの盛り塩だの、そういう方向に変えて試してはみたものの、全て効果はなかった。私は自分が自分でなくなる一歩手前まで追い詰められていた。
誕生日から三ヵ月が過ぎた頃、全く働けなくなってしまっていた自分は休職していた。こうなればアパートを引き払い、実家に帰るしかないとぼんやり考えていた。
でも、一体親になんて説明すればいいんだろう? 明らかに人間じゃない物が急に見えるようになりました、って? 病院に行っても、お寺に行ってもよくなりません、って?
いくら親でも信じてくれるんだろうか。
誰にも言えず、一人悩み続けていた。夜も中々眠れず、安らぐ隙もない。これからの人生への不安でいっぱいになりながら日々を過ごしている。
今日はネットで調べたお寺に相談しに行った帰りだ。電車は怖い思いをしたこともあるので避けたかったが、これからのことを考えると収入に不安もあり、タクシーを使うほどお金に余裕がないのだ。そしてお祓いをしてもらった帰り、すぐにあんな女と出会って引きずり込まれてしまいそうになったので、あのお寺にいった効果は何もなかったのだと思い知る。
普通に電車を待っていただけなのに、気がついたら線路に女が横たわっていて目が合っていた。そして引きずり込まれるところだった……というわけだ。
私はこの後、周りを見ないようにしながらそそくさと家に帰り、何度も竜崎さんの名刺を眺めた。電話番号などは書かれていなかったので、この住所に足を運ぶしかコンタクトの取りようがないらしい。直接訪問しなくてはならない、という点は少し困ってしまった。初対面の男性と室内へ入るほど、警戒心が軽薄なわけではない。
とりあえず名刺を置いたまま、他のお寺や神社に相談に行ってみた。でもどこへ行っても結果は同じで、私のこの能力が変わることはなかったのだ。そして一週間が過ぎた頃、私はついに意を決して竜崎さんに会いに行った。




