金縛りを乗り越える
なぜか頭の中でそう冷静に思った。思った以上に自分は怯えておらず、パニックになることもなかった。ただぼんやりと、これをどうしようかなあと対応を考えている。
勝手に頭はがくりと脱力しているため、私の顔はひどく俯いていた。何とか見える視界に、自分の足が映り込む。愛用しているローヒールの黒いパンプスを履く両足首を、しっかりと握る二本の白い手が見えた。
私を離してなるものか、という意思を感じる。
その手を見た時、先ほどトイレの前で見た足を思い出す。手はどこか骨ばっていて大きくて、女性のものとは到底思えない手だ。もしや、あの足の持ち主と一緒?
連れてきてしまったのか。
声を出して竜崎さんたちを呼びたいけれどまるで無理そうだ。どうか私に気づいてほしい。こっちを向いて、振り返って。いや、人任せにするのではなくて足を動かしたい、振り払って飛ばしてやりたい。怖いけれど、やられっぱなしももう嫌だ。竜崎さんみたいに、ちょっとでも相手に抵抗する力があれば。
ぐっと体に力を入れ、腕や足を動かすために必死になる。
足、動け、動け、あの手を跳ねのけろ。この足は私の足だ。私が走るためにある。
私の足だ!
そう心で叫んだ瞬間、ふっと体が軽くなった。目がカッと開き、下に張り付いていた足は自由となり、両腕も持ち上がる。
やった、と喉から大声が漏れた。私は勝った、勝てたんだ。
そして私はそのままシートベルトを外し、シートの右側にずれると、そこにある車のドアを迷いなく開け、車から飛び出した。そうするのが正しいと信じて疑わず、開放感に満たされ満面の笑みだった。胸にあったのは幸福感だけで、なぜ自分が突然車から飛び出したのかなんて理由はわからなかった。
とにかく出たかった。
車から出て、飛び出したかった。
死んだとしても。
「花音!」
次の瞬間、腕を強く引かれ体が後ろに倒れこむ。耳をつんざくような大きなクラクションが
鳴り響き、その音ではっと自分の意識が鮮明になった。目の前を車が通過していき、私はぽかんとそれを見送った。
「……何してるんだ」
私の体を支える竜崎さんの、少し焦ったような声がした。彼からそんな声を聞くのは珍しかった。
「……え」
「車に戻って。今すぐに」
竜崎さんが厳しい声で言ったので、私はようやく自分の置かれた状況に気が付いた。突然車から降り、対向車の前に飛び出そうとしたのだ。竜崎さんが間一髪、止めてくれたというわけだ。
再びクラクションの音が響き渡る。今度は対向車のものではなく、私たちの後ろの車が鳴らしたらしかった。
「……あ……私……?」
唖然とする私を、竜崎さんが車に押し込んだ。私はされるがまま、また車の中に戻され竜崎さんも運転席に戻る。彼は無言でそのまま車を発進させた。
「……まじかよ」
祐樹さんが呆然としたように呟き、私を振り向いていた。私は血の気が引き、今更頭が真っ白になって小さく震えている。
竜崎さんはすぐ近くにあったコンビニに車を入れて駐車すると、はあっと深くため息をついて顔を顰めた。
「ご、ごめんなさ、私……」
「引っ張られやすいって聞いてたけどとんでもないな。よく今まで生きてたなって感心するわ」
祐樹さんが心底同情するような顔で私を見る。
「ラッキーだったよ。竜崎さんが後部座席にいる花音の異変に気が付いて、すぐに車を止めたんだ。後続車がいなかったのも幸いだ、じゃなきゃ追突されてたから。その瞬間花音は急に車を降りて対向車の前に突進していった。竜崎さんがすぐ止めてくれたけど、あのままだったら轢かれてたぞ」
「……私……」
「竜崎さんに感謝しろよ。異変に気づいて車を止めてくれなかったら大怪我してただろうし、轢かれてたら命はなかったかもしれないぞ」
「ご、ごめんなさい。私、金縛りにあって、声も出せなくて……なんとかしなきゃって自分で頑張ったんですけど、開放されたと思ったら飛び出してて」
竜崎さんが頭を搔く。
「花音を乗せるときは車のロックは忘れないようにする」
「ご、ごめんなさい……」
迷惑かけてばかりだ、と悲しくなり目に涙が溜まった。これで、あの駅のホームの時と自宅のベランダから飛び降りようとした時を合わせて、三回も竜崎さんに助けてもらってしまっている。
ちっとも自分でコントロールできず、しかも一歩違えば竜崎さんを巻き込んでいたかもしれない。
だが彼は、特に私を責めるようなことは言わなかった。
「別に謝らなくていい。花音が最近見えるようになったって分かってるから、その戸惑いや苦悩も理解できるんだ」
「……」
「君は特殊だ。僕たちよりさらにね。そしてそれは君のせいなんかじゃないから思いつめなくていい。こんな力は自分が望んだわけじゃない、って気持ちは、月乃庭の人間はみんな知ってるから」
竜崎さんの言葉に、ついに涙がポロリと零れてしまった。それと同時に、彼が何か大きな苦悩を持って生きてきたんだということがわかった。
竜崎さんたちは生まれつき能力を持っている、と言っていた。私みたいに大人になってから目覚めるのも大変だけれど、子供のうちから見えるのだってあまりに恐ろしい。わけもわからず周りと違うものが見えるだなんて、とっても苦労したに違いない。
竜崎さんの家庭環境が複雑、と言っていたのは、それも原因なのだろうか。
「ありがとうございます……」
「俺ももっと気を付けるわ。なんかあったら止められるようにしとかないと」
「祐樹さんもすみません……」
「んで、縛られただけ? なんか見えたりしてねーの?」
尋ねられて、あっと手のことを思い出す。
「足首を手に掴まれたんです。手しか見えなくて……ただ、どう見ても男性の手でした。私がトイレの前で見た足の持ち主と同じじゃないかな、と思うんですが。顔とかを見れてなくてすみません」
「へえ、一歩前進だ」
竜崎さんが感心したように言ったので、私は首を傾げる。
「つまり、やっぱり僕のヒトガタは優香さんの役に立ちそうにないな」
「と、いいますと?」
「だって、優香さんもしくはあの家に呪詛が掛けられているとしたら、それを花音が持ち帰るのはおかしいからだよ」
「あ……」
確かにそうだ。私はあの家を離れてたのに霊がついてきてしまった。呪詛が原因なら考えにくい。
祐樹さんが言う。
「んじゃ、呪詛って説はなしですか?」
「そうなるね。花音が見た男の霊が元凶だろう。あんな風に家を真っ黒にするなんて珍しいタイプだなあ……もう一度明日、洗い直しかな」
「まあ、竜崎さんが作ってくれたヒトガタを持ってるだけで、優香さんはきっと安心するから無駄じゃないっすよ」
「それもそうだね、気持ち的には楽になるかもしれない。花音、落ち着いた? 食事は食べられそう?」
「あっ、はい。すみませんでした」
「シートベルトしっかりして、行こうか」
私は姿勢を正して、言われた通りしっかりシートベルトをする。正直、食欲はあまりないが、食べて体力をつけるのも大事だ。食べられるものを食べよう。
ミラーで私の様子を確認した竜崎さんは、ゆっくり車を発進させる。私はなんとなく窓の方を見ていたのだが、一瞬見覚えのある姿を通り過ぎてハッとした。
振り返ってみると、小さな女の子が私たちを見送っている。六歳前後くらいの、黒髪の女の子だ。よれよれの服を着て細い手足をしている。
あれ、あの子って……。
そうだ、初めて竜崎さんに会った時も足元にいた子だ。そして、私がアパートに戻った時にもあの子はこの車の隣に立っていた。これでもう三回目の遭遇になる。思えば、場所もまるで違うのにこれほど遭遇するなんて、偶然とは思えない。
もしや、ついてきている?
「あの、竜崎さん、あの子って前もいませんでした?」
「あの子?」
「あ、後ろに立っている子です」
竜崎さんはミラーをちらりと見る。けれど、彼は首を横に振った。
「僕ははっきり見えないから、前も会ったかどうかは判別しにくいな」
「あ、そっか……」
「霊はそこらにいるし、近くにいても無視するのが基本だからいちいち気にしていない。もしかしたら、気に入ってついてきてるのかもしれないけど、悪さをしないなら放っておくのが一番だよ。花音は無視を練習しないと」
「そ、そうでしたね」
同じ子だと思って気にしてしまったが、それがよくないのだ。いくら相手が子供でも何回会ったとしても、気にせず素通りできる力を身につけなくてはならない。
私は竜崎さんに言われたことを心にとめて、もう振り返らずしっかり前を向いた。
けれど、脳裏にやけにあの子の姿が気になっていた。竜崎さんと初めて会った時から、彼と一緒にいるときに何度も見かけるあの子を。
そして同時に、『妹はもう会えないから』と言っていた竜崎さんの言葉も。




