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タオルの中


 彼が真顔で部屋中に吹きかけたそれは、爽やかな柑橘系の香りがする香水のように感じた。てっきりアルコール臭などを想像していた私は、思ったよりいい香りがしてきたので面喰らう。これ、本当に効果があるんだろうか?


 なんだか不安になった私は、隣に立っていた祐樹さんをちらりと見上げた。彼はいつものことだ、と言わんばかりの表情をしていたが、私の視線に気が付いたようでこちらを見る。そして、ああ、と小さく呟き、にこやかに笑って優香さんに説明をした。


「あー知ってます? 霊って柑橘系の香りが苦手って言われてるんですよ」


 優香さんと、それから私も知らなかったので驚いて祐樹さんを見る。彼は得意げになって続ける。


「知らなかったですかねー? さらに、これは竜崎さんが力を込めてますから効果絶大。適当なことしてるわけじゃないですよ! めっちゃ効きますから」


 そう言った時、周りにある黒いモヤがすうっと音もなく薄れていくのが目に入った。突然の変化に私は息を呑み、その効果に絶句する。まるで意思を持って逃げるように見えた。本当にあの柑橘系の香りには効果があるらしい。


「す、すごい」


 私が呟くと、優香さんも不思議そうにした。


「なんか、ぐっと部屋が明るくなった気がしますね……こう、重苦しい雰囲気がなくなったみたいな。爽やかで明るくなった感じ……」


 竜崎さんはボトルのキャップを閉め、淡々と言う。


「とりあえず部屋を綺麗にしただけです。本体を対処しないと、時間が経てばまた同じようになるでしょう。でもまあ、まずは様子見で」


 さっきはピンクのボトルに香水で一体どうしようかと思ったが、やっぱり彼の力は本物だったとわかり感激で震え上がる。私の部屋で赤ちゃんを追いはらってくれたのもあるし、竜崎さんの力は凄い。


 私がキラキラした目で彼を見ていると、隣の祐樹さんが耳打ちしてくる。


「まあ、あの香り自体は推しの美月をイメージして作られた公式グッズなんだけどな……」


「……最近のアイドルグッズって色々あるんですね……」


 祐樹さんの発言に表情が固まってしまった私だったけれど、すぐに気持ちを切り替えた。使ってるものはなんだっていいじゃないか、ちゃんと効果があるのなら。こうなったら、美月さんという子のイメージが柑橘系であった偶然に感謝しておこう。


「あの、よければお茶を淹れ変えたので」


 優香さんがそう声を掛けてくれたので、お言葉に甘えることにする。けれど私は席に着く前に、お手洗いを借りることを優香さんに伝え、一人廊下に出た。さっきからタイミングを見計らっていたのだ。


 ひんやりとした廊下に出ると、ふうと息を吐いてすぐ左手にあるトイレへ入った。廊下はリビングに比べて黒いモヤが多くいる。いい気分ではないのでなるべく早く出て、手を洗う。


「竜崎さん凄かったなあ。私もああいう力があればなあ」


 流水で手を流しつつ一人でそんなことを言った。だって、追い払う能力があれば、家の中に霊がいてもそこまで怖くないかもしれない。いや、入ってくるのを阻止することだってできる。そうしたら、もう少し生きやすくなるんじゃないか。でも竜崎さんの祓う力は生まれつきだと言っていたし、私が今から習得できる力ではないんだろうな。


 月乃庭に入居し、まともな日常生活を送れるようになったのでスタートラインには立てたけれど、まだお試し期間だし、休職中の仕事もどうしようかとか問題は山積みなのだ。


「まあ、今考えてもしょうがないけど」


 とりあえずは今、目の前にある問題と向き合わなくては。そう気合を入れたところで水を止め、隣に掛けてあったタオルで手を包み水分をふき取る。


 途端、タオルの中で皮膚の感触を覚えた。


 誰かの手がタオルの中に現れたような感覚に、びくっと体が跳ねて反射的にタオルを離した。唖然として掛けてあるタオルを眺めるも、特に異変は感じられない。タオルは静かにそこにあるだけだ。


 だが、気のせいとは思えなかった。間違いなく人の皮膚らしき感触があったのだ。自分の右手を見て、触れた手の甲を必死にさすってあの感覚を消そうとする。ぞくっと寒気を覚え、心臓がバクバクと痛む。


「も、戻ろう」


 慌てて振り返ったとき、くいっと自分の袖が後ろに引っ張られて足を止める。どこかに服をひっかけたとかではなく、誰かが引き留めるために故意に引っ張った力だ。


 でも、私の後ろには今出てきたばかりのトイレしかない。


 しばし停止し、少し経ってからまずゆっくり視線を落とした。自分の足の後ろに、もう一つ真っ白な生気のない足が立っているのがわかる。それを理解した途端、背中に生ぬるい誰かの気配を感じた。首筋に不快な息がかかる。


 すぐ後ろにいる。誰かがじっと私を引き留めている。


 息をするのも上手くできないくらい、私の全身は硬直していた。そうだ、大声で竜崎さんたちを呼べばいい。きっとすぐに助けに来てくれる、追い払ってくれる。頭ではそうわかっているのに、ちっとも体は言うことを聞いてくれず、口からは空気が漏れるだけだった。


「……あ……あ」


 引っ張られる感覚が強くなり、倒れこまないように足に力を入れる。後ろにいるのは、誰?

 一体なぜ私を引き留めているのだろう。


 すると、目の前で異変が起こり始める。足元に漂っていた黒いモヤたちが、ごそごそと活発に動き出したのだ。意思を持った彼らは瞬く間に私の足元に集まり、大きな黒い塊になっていく。そしてあっという間に、人型に変化していった。


 私より身長が高い影は、いつのまにできたのかぎょろりと目玉だけがあって私を見下ろしている。男でも女でもない黒い人影は、心底私を嫌って恨んでいるように感じた。どこかへ行け、ここに来るな、そう伝わってくる目だ。


 危機感を覚える。ただ怖いだけではない、これは私を排除しようとしているのだと。


「あ……」


 擦れた自分の声。黒い人影の血走った目は不気味に左右に動き、私を再度睨みつけた。ここには他に誰もいないぞ、どうする? と言われているようだった。


 その目の少し下が、ぱかっと開いたように動く。まるで口を開けているように見え、咄嗟に食べられる、と思った。口の中はさらに真っ黒な闇だけが見えて、おぞましい姿だった。


 黒い人がぬっと私に手を伸ばす。私の顔を覆いそうになったとき、ようやく私の口から大きな声が出て家中に響き渡った。


「い……やああああ!!」


 喉が潰れそうになるほどの声が出たそのあとすぐ、勢いよくリビングの扉が開いた。けれどその直前に黒い人も背後の人も消えてしまい、私は一人残されていただけになっていた。


「花音!」


「どした!?」


 竜崎さんと祐樹さんが驚いた顔で駆けつけてくれたのを見た時、全身の力が抜けてへなへなとその場に崩れ落ちた。すかさず竜崎さんがそれを支えるように抱きかかえてくれ、私は脱力した体で彼に必死にしがみついた。溺れそうな人間が、助けに来てくれた人にそうするように。


「何があった」


「と、トイレから出て……あ、あの、そしたら……」


「うん、落ち着いて」


「う、後ろに人と、あと目、目の前、に」


 震える声で話そうとする私に、祐樹さんが苦々しい顔で近づいてくる。


「待て待て、竜崎さんに抱き着くな。とりあえずこっちに来て一旦落ち着いた方がいいんじゃねーの。パニックになってる。温かい飲み物でも飲んだ方がいい」


 祐樹さんにそう言われて、ハッとした私は慌てて竜崎さんから離れた。無我夢中で抱き着いてしまったが、確かにあまりよろしくない状況だ。すっかり我を失っていた。


 祐樹さんの後ろから、心配そうな優香さんの顔も見える。私は頷いてまず深呼吸をした。


「すみません、そう、します。混乱してて……」


 未だ足も手も震えている。するとそんな私に、すっと二本の手が差し出された。


 顔を見上げると、竜崎さんと祐樹さんが私を見ていた。


「花音、立てる?」


「そんなとこに座ってたら冷えるぞ」


 差し出された大きな二本の手が、なんだかとても温かく感じて胸がいっぱいになった。恐ろしい体験をした後に、人に優しくされるとこんなにも染みるのか。


 私はそっとその手に支えられて立ち上がる。何とか自分の足は動いてくれたのでほっとした。二人の支えが大きいのだろう、一人ではこんなにすぐに立て直せなかったはずだ。


「ありがとうございます……」


 私は小さくお礼を言って二人から手を離した。竜崎さんは頭をぼりぼりと搔きながら少し眉尻を下げる。


「花音は一人にならない方がいいとは言ったけど……さすがにトイレまではついてこなかったからなあ」


「そ、それは当然です、ついてこられたらそれはそれで困ります!」


「まいったね、君はどうも引き寄せやすい。とりあえず落ち着いて、見たものを聞かせてもらおう」


 竜崎さんに促され、とりあえずリビングへ足を踏み入れた。先ほど黒いモヤを消し去ってくれたので、廊下と違いパッと明るい部屋に思える。そしてまだかすかに残る柑橘系の香りが、私の心をなお落ち着かせてくれた。


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