駅のホーム
まばらに人がいる駅のホームに、電車が来る知らせの音楽が流れる。平日の昼間は穏やかな時間が流れており、みんなそれぞれスマホを覗き込んで電車を待っていた。
そんな中、私はつま先を白線のギリギリに置き、ぼんやりとしていた。
アナウンスの声が響いているが、どこか遠くに聞こえるような感じがした。耳には入っているけれど脳には入ってきていない、そんな感覚だ。誰かがそっと耳を抑えているようにも思える。
私の目の前には、女性が一人横たわっていた。
彼女は線路の真ん中に、両手足とも体の横にピタッとくっつけた状態で、綺麗な姿勢で寝ている。線路と平行になるように横たわっており、この寒さの中、半そでのワンピースを着ていた。年は二十代後半ぐらいだろうか? ごく普通のミディアムボブの髪をしている。
彼女は無表情で、空を眺めている。真っ黒な瞳孔に、果たして青空は映っているのだろうか? 何を考えているのだろう。
電車が近づいてくる音がする。するとそのとき、彼女がすっと右手を持ち上げ、人差し指を出し、まっすぐ私に向けてくる。他は何も動かさないまま、私を指さしているのだ。
ああ、呼ばれているから、行かないと。
漠然とそう思った私は、足を一歩踏み出した。
途端、お腹に強い圧迫感を感じてハッとする。そして身体全体をぐいっと後ろに引かれ、線路に向かって出しかかっていた足はホームの方へ戻っていった。ほんの数秒後、目の前に電車が通過していく。ごおっと風が強く吹き、私の長い黒髪を揺らした。
呆然と電車を見つめ、自分が今何をしようとしたか思い出して青ざめた。
「あ……油断した……」
引きずられるところだった。完全に飲み込まれて、自分を失っていたのだ。あと少しで、私はあの電車に轢かれていただろう。
もちろん、電車の下にはあの女性はいない。正確に言えばいるだろうが、実態がないので電車と接触しても何も起こらない。さっきのあの人は……。
「人身事故はいろんな方面に迷惑かかるから、やめたほうがいい」
耳元でそんな声がして、驚きで変な声を上げてしまった。だがすぐに、そういえばさっきは誰かに引っ張られて無事だったのだと思い出す。現に、私の腹部には知らない人の手がまだ置かれたままだった。
慌てて振り返ると、背の高い男性がこちらを見下ろしていた。
「あ、あの……!」
「死ぬなら人の迷惑にならないところでね」
彼はそう言って私から手を離した。改めてその顔を正面から見ると、やけに生気がないけれど整った綺麗な顔立ちをした男性で、二十代後半ぐらいの人だった。目鼻立ちがすっきりしていて、モデルでも通用しそうな人だ。
だがそんな彼の整った顔より、もっと衝撃的な物が目に入る。
彼の足に、小さな女の子がしがみついていたからだ。
もちろん生きている子ではない。年は六歳前後だろうか。長い黒髪で顔は覆われており、表情はまるで見えない。肌は青白く、よれよれのサイズが合っていない洋服を着ていた。だがその子に気が付いた途端、彼女はすうっと音もなく消えてしまう。ほんの一瞬の出来事だった。
唖然としていると、男性はくるりと私に背を向ける。
「それとも、線路に変な物でも見えたのかな」
ポツリと彼が独り言のようにそう言ったのを、聞き逃さなかった。私は息を呑んで彼の顔を見るが、向こうはこちらをちらりとも見ず、反対側のホームへ歩いて行ってしまった。一瞬迷ったものの、私はすぐさま彼の背中を追いかける。
「あ、あの! 助けて頂きありがとうございました……!」
「うん」
「あと一歩で、線路に落ちてしまうところでした」
「ん」
「……変なこと聞いてもいいですか? もしかして、何か見えましたか……? 私、ああいうのがよく見えて……」
男性は白線の内側でぴたりと足を止め、まっすぐ前を向いたまま動かなかった。私は彼からの返事を待ちつつ、改めてその姿をじっくり見る。
やっぱりとても整った横顔だ。少し長めの黒髪は無造作に広がっているけれど、不潔感はない。紺色のコートのポケットに両手をつっこみ、少し寒そうに肩を丸くしていた。ふと、彼が手を入れているポケットから何かが少し出ているのを見つける。
ピンク色の……何だろう? ストラップ?
「君さあ」
「え、あ、はい!?」
「もっと気をつけないと。あんなしょぼいのにつれていかれそうになるなんて、今まで何を学んできたの」
「何を、と言いますと……? というか、しょぼいのって」
「何がいたのか僕には見えないけど、何かがいたのは感じてる。さほど強くないでしょ、あれ。うっかり目でも合わせたのかな? たまたま僕がいたからよかったけど、あのままだったら体バラバラだったね」
いろいろ聞きたいことが多すぎる発言だった。だが私が何より食いついたのは、彼があの線路にいた者を感じ取っていた、という点だ。私と同じものが見えているのだと驚いた。
「やっぱりあなたも見えるんですか!」
「見えない、っていったはずだけど。感じるだけ」
「す、すごい、こんな人に会えるなんて……! あの、少し質問してもいいですか? なんかああいうのによく遭うんですけど、無視していればいいんでしょうか? 対応がよくわからなくて……」
私が縋るようにそういうと、彼は初めてこちらを見て目を見開いた。
「え? 何をいまさら……どうやって生きてきたの君」
「どうやって、って……ああいうのが見れるようになったのは最近なので……」
「最近?」
男性はひどく驚いているようだったけれど、私はなぜそんなにも驚くのか理由もわからず、きょとんとしてしまった。彼は一人納得したように頷き、頭を搔く。
「あーそれでかあ……なるほどねえ。どおりであんなのに引きずり込まれそうになってたわけだ。君、いくつ?」
「えっ。二十五歳です」
「珍しいね。非常に珍しい。ああいうのを見る能力はほとんど生まれつきで、途中から見えるようになることはめったにない。あったとしても、成人するまでだ。まあ波長が合ってたまたま見えるとか、相手が強力で見えちゃうとかは別だけど、そうじゃなくてずっと見えるんでしょ? 二十五にもなって能力が開花する人間なんて、僕は初めて会ったよ」
「そ、そうなんですか?」
なるほど、彼が言っていた発言の意味がよくやく分かってきた。『何を学んできたの』というのは、私が昔から見えること前提で話していたのだろう。だが、私は特例で、変な物が見えるようになったのはごく最近なのだ。
私は彼に頭を下げてお願いする。
「これって治りませんか? 元の生活に戻りたいんです……! お寺とかいろいろ行ったけど、どこも駄目で!」
「んーそうだろうね。何かきっかけはあったと思うけど、それを探って対処できるような人はあんまりいないと思う」
「そんな……」
そこまで話したところで、電車が来るアナウンスが流れだした。遠くから電車の音が聞こえてくる。男性はそっちの方を見ながら、私に早口で告げる。
「とりあえず君は、安全を確保するところから始めた方がいい。いい? ああいうやつらは目を合わせないのが一番だ。どれだけ縋りつかれても怒鳴られてもとにかく無視。そうじゃないとああやって道ずれにしようとしてくる。死ぬよ」
「そんな……!」
言われなくても、私だって目を合わしたくて合わせているわけじゃない。なるべく見たくないから視線を逸らすけれど、突然目の前に顔を寄せてきたり、大声を上げたり、そんなことをされたら反射的に見てしまうのだ。
さっき線路に落ちそうになったのもそうだけれど、これまでも自分の体が操られるようになる感覚を味わってきた。何とか無事だけれど、今後のことが心配でならない。
「私も関わろうと思ってるわけじゃないんです。でも、つい反応してしまって」
「あーまあねー。普通は子供の頃から見えてるから、時間をかけて慣れていくからね。大人になってから見えちゃったら、確かに苦労するかも」
彼は考えるようにそう言うと、ポケットに入れていた手を出した。そこに握られていたのはピンク色の名刺入れだ……どうでもいいけれど、凄いセンスの名刺入れだな。
彼がそのうち一枚を私に差し出した時、電車が到着して扉が開いた。私はそっと名刺を手にする。
『竜崎奏多』
名前と、下には住所が記されている。私が住んでいる隣の街だった。そして、『月乃庭 管理人』とも書かれている。
「これ……」
「どうしても困ったら来てみるといい。話を聞くぐらいならする」
電車のドアが閉まるチャイム音が鳴り、男性……竜崎さんは中へ入って行ってしまう。最後にこちらを振り向き、思い出したように自分の目を指さした。
「サングラス、かけてみな」
ちょうどドアが閉まってしまい、彼を乗せた電車がすぐに出発してしまう。私はぼんやりとそれを見ながら、電車が見えなくなるまで見送っていた。
静かになり、握る名刺をもう一度見つめる。
「竜崎さん……」
やっと出会えた、私と同じものが見える人。絶望しかない中で、この名刺はとても輝いて見えた。