七
帰り道、知佳と蓮は翌日の計画に思いを馳せていた。
「明日はリフトに乗りたいな」
「山頂行きたいよね!」
「えー、それはやだよ、怖いよ」
「行こうよ、知佳ぁ」
「蓮一人で行って来て」
「もぉ。付き合い悪いなぁ」
神田達に逢ったことなど、微塵も感じさせない。
「山頂迄行っちゃうと、中級コースしかないぞ。蓮ちゃん大丈夫か?」
「なんとかなるっしょ!」
三科父の心配も撥ね退けて、蓮は遣る気満々である。どうせいざとなったらテレポートする気なのではないかと、知佳は訝っている。
〈人前でテレポートとかしないでよね〉
知佳は蓮にテレパスで確認してみた。
〈あ、知佳ったらそんなこと疑ってるんだ! ひどいなぁ。ちゃんとスキーで下りて来るよ!〉
〈無茶はしないでね。ユウ君いないんだから、怪我したら大変なんだよ〉
〈大丈夫、大丈夫。まあいざとなったら……〉
〈ほら矢っ張り! 駄目だよ!〉
〈冗談だって。心配性だなぁ〉
蓮は知佳の方を向いて、ニッと笑って見せた。そして「あー、おなかすいたなぁ」と態とらしく声に出して云う。
「宿着いて暫くしたらご飯だよ。それ迄温泉でも入ってたら好い」
蓮の父が振り返って云った。
「やったあ! 温泉入る! 知佳も一緒に入ろ!」
「あ、うん」
蓮は大のお風呂好きだ。知佳は時々付いて行けないのだけど、温泉なら話は別である。とは云え蓮は放っておいたら、日に五度でも六度でも温泉に入りそうだけど、流石に知佳もそこ迄は付き合えない。然し食事前に一風呂位なら寧ろ大歓迎である。
「早く早くぅ! 温泉が待ってるよ!」
スキーブーツで歩きにくい筈の蓮は、なんだかスキップでも始めそうな位の勢いで、ペースを上げて親たちを追い抜いて、先を急がせた。
「温泉は別に蓮のことなんか待ってないよぉ。そんな早く行かないでぇ」
知佳が悲鳴を上げる。いい加減足が痛い。
「あたしは温泉を愛し、温泉に愛された女の子! 待っていない訳が無い!」
「蓮何云ってんの」
「好いから早くぅ!」
「足痛いんだよぉ」
「尚更早く温泉に入らなくちゃ!」
もう滅茶苦茶である。ヒイコラ云いながらやっとのことでペンションに辿り着き、ブーツとウェアを脱いで部屋で座布団に座り、母が淹れてくれたお茶を一口飲んで、知佳はやっと人心地着いた気がした。そこへ蓮が乱暴に引き戸を開けて乱入してくる。
「知佳! 温泉!」
単語だけ捲し立てゝ、知佳を催促する。
「もぉ、諒解ったよぉ。……お母さん、お風呂入ってくる」
「知佳浴衣着れたっけ?」
母の質問に知佳は小首を傾げた。
「帯の結び方とか、わかんない」
「まあちょうちょ結びで好いんだけどね。後でお母さん行くから、先に蓮ちゃんと入っといて。そこに浴衣とタオルとセットになって置いてあるから、持ってきなさい」
「はあい」
知佳はタオルと浴衣を持つと、蓮と一緒に大浴場へと向かった。
大浴場と云う名の割にそれ程広くはなかったが、それで却って温泉の匂いが濃く立ち込めていた。壁面には「温泉の正しい入り方」と云うプレートが打ち付けられている。
「最初に掛け湯して、汗と埃流してから、入れってさ。体洗うのは入った後だって」
「そんなの云われなくても知ってるよ! 温泉少女には常識よ!」湯船のお湯を体に浴びながら、蓮は得意気に云う。
「何よ、温泉少女って」
「先に洗うとね、体に見えない程小さな傷が沢山付くから、その状態で温泉入ると成分が必要以上に体に入って来ちゃって、湯当たりし易くなるの。だからって掛け湯しないで入ったらお湯汚れるからね。掛け流しとは謂え、マナーだから。掛け湯はちゃんとしなよ」
「なるほど、温泉少女だわ……」
知佳は蓮の指導の元、掛け湯をして湯に浸かった。
「あぁー、極楽ー」
「やめてよ蓮、どこのおっさんよ」
「おっさんじゃないよー、おんせんしょーじょだよー」
蓮は蕩け顔に蕩けた声で、ニンマリ笑いながら応える。
「もぉ、ダメな子になってるぅ」
そう云う知佳も、スキーの疲れが出たのか蕩け掛けていた。
浴場の扉が開き、人が入って来る。ひたひたと云う音を立てゝ湯船迄来て、掛け湯をする音が聞こえる。知佳はうっすらと目を開けてその人物を見定める。
「あ、なんだ、おかぁさん……」
知佳の母はそっと湯船に入ると、二人の方へと近付いて来た。
「こらぁ、二人とも寝ちゃダメよ」
「起きてるよぉ。ねぇ、蓮?」
知佳が蓮の方を振り向くと、蓮は若気顔の儘目を閉じて凝としていた。
「蓮? 寝ちゃだめだよ」
「ふぁあ? おきてるよぉおお」
「露天もあるみたいだから、二人で行って来たら?」
母の提案に蓮はぱちりと目を開けた。
「露天! 行きまふ!」
そしてザバリと湯飛沫を立てゝ立ち上がると、少し蹌踉けて知佳に掴まった。知佳は不意を突かれて湯船の中へと引き摺り込まれる。二人でバシャバシャと暴れていると、母が一人ずつ脇を抱えて立ち上がらせた。
「危ないじゃないの、もっと落ち着きなさい」
蓮も知佳もゲホゲホと噎せながら、「はぁい」「ごめんなさぁい」と悄らしくなり、そろりそろりと忍び足で露天へと向かって行った。
「もぉ。蓮の所為で怒られたぁ」
「ごめんごめん。露天て云われて舞い上がっちゃった」
「つうかあたし今、殺されかけたよね?」
「そんな莫迦な! 大好きな知佳殺す訳ないし!」
「一々大好きとか、付けなくて好いよぉ」
知佳は上せ気味の頬を更に赤く染める。蓮はそんな知佳を眺めながら、悦に入る様に笑っている。
露天へ続くドアを開けたら、冷たい風がさっと吹き、火照った体に心地好く感じた。
「ひんやりぃ!」
「目、覚めた?」
「もぉ、ぱっちりよ!」
露天風呂は大きな岩場の中にあった。蓮は足を滑らせないよう、そっと気を付けながら入ると、肩迄浸かって呻いた。
「うぁあー、いいねぇ」
知佳も続いて入りながら、「開放感、きもち好い!」と嘆息する。
そこへ母も遣って来て、苦笑しながら知佳の横に入って来る。
「蓮ちゃんはホント、温泉入るとすっかりオッサンねぇ。凛そっくり」
「お母さんに?」
凛と云うのは、蓮の死んだ母の名らしい。知佳の母は蓮の母と、子供の頃からの友達だったと聞いている。
「そうよ。懐かしいわ。蓮ちゃんはどんどん凛にそっくりになっていく。凛も天国から見て、やぁねぇとか云ってそう」
「厭ですか……」
「そうね。娘が自分にそっくりになって来るのって、なんか擽ったいって云うか。照れ臭いと云うか……」
知佳の母は、鳥渡気拙さを感じたのか、稍トーンダウンしながら言葉を継いでいった。
「そうかぁ。でもそうかも。お母さんなら、同じなんて詰まらないって云いそう」
「そうそう、凛なら云いそう」
蓮の言葉に勇気を貰って、知佳の母は少しトーンアップした。
「でもあたしはお母さんしか知らないから。真似しているつもりは無いんですけど、知らない内にお手本にしているかも」
「そうなんだ。あ、でもね、温泉入ってオッサン化するところは真似しなくていいのよ」
そして蓮と知佳の母は、コロコロと笑い合った。母の心の葛藤を覗いていた知佳は、ハラハラしながら二人の会話を見守っていたが、最終的に丸く収まった様でほっと胸を撫で下ろした。
「でも蓮ちゃんのお風呂好きは、赤ちゃんの頃からだからね。そこは真似じゃなくて、本当に遺伝なのかも」
「やだ。小母さんあたしが赤ちゃんだった時から知ってるんですか?」
「そりゃ知ってるわよ。蓮ちゃんと知佳は二箇月程度しか違わないし、凛とはよくお互いに相談し合いながら、時には愚痴も云い合いながら、二人で一緒に、蓮ちゃんと知佳の二人を育てゝ行った様なものよ。だから二人とも、あたしと凛との共同の娘みたいなものなの」
「そうなん……だ……」
「覚えてないかも知れないけど、二人とも赤ちゃんの頃から一緒に遊んでたのよ。幼稚園も一緒だったし」
「え」
「あらやだ、蓮ちゃん、幼稚園のことも忘れちゃった?」
「うーん……余り覚えてない」
「写真も動画も一杯残ってるから。後で見せてあげるよ」
蓮は複雑な顔をしている。知佳はその理由を識っている。蓮が未だ能力に目覚める前、知佳には蓮の心の中が見えていたので、蓮に幼稚園の時の記憶が無いことを知っているのだ。正確には、幼稚園の頃の知佳との記憶だけが欠落している。知佳は蓮と幼稚園で、よく一緒に遊んでいた記憶があるのだけど、蓮は知佳とは小学校で出逢ったと思っているのだ。何故記憶していないのかは判らない。蓮の幼稚園時代の記憶の中に知佳は確実に登場しているのに、蓮はそれを知佳だと認めていない。知佳はそのことを知った時、非常に悲しい思いをしたが、蓮にそのことを追及することはしなかった。記憶を訂正しようともしなかった。その頃は未だ心が読めることは誰にも云っていなかったし、記憶の食い違いに自ら触れる勇気もなかった。――勇気は今もない。だからこの件はずっと未解決の儘、知佳の中で燻っている。
今、蓮は異能力に目覚め、それと引き換えに知佳には蓮の心が読めなくなった。異能者は知佳のテレパス能力のお裾分けを貰える代わりに、知佳の読心の対象からは除外されて仕舞う。異能者が意図して送る思念しか、知佳に届かなくなるのだ。だから今でも忘れた儘であるか如何かは確認出来ない。出来ないが、蓮の困惑した表情を見れば大体察しは付く。
「あの頃の蓮ちゃんは人見知りも激しかったしなぁ。友達と遊んだ記憶自体が薄いのかもねぇ」
蓮が黙って仕舞った為、この話題はこゝ迄となった。その後三人は屋内へ戻り、体を洗って軽く湯に浸かり直し、上がり湯をして出て来た。二人の浴衣の帯は母が結んでくれた。
「小母さん」蓮が帯を結んで貰いながら、知佳の母を見上げた。
「なあに?」母は忙しく手を動かしながら応える。
「あたしたちが小母さんとお母さんの共同の娘なんだったら、小母さんはあたしと知佳の共同のお母さんってことですか?」
母は帯をキュッと結ぶと、「うん、そうね。そう思って」と云って微笑んで見せた。
蓮はいきなり知佳の母に抱き付くと、「お母さんの昔の話、一杯教えて」と云った。
「そうね。いつでもしてあげる」
母は指先で目頭の涙を払った。知佳も何だか涙が出て来て、それを隠す様に、蓮と並んで母に抱き付いた。
「あたしも聞く。蓮のお母さんだって、あたしたちの共同のお母さんでしょ」
声が震えているのを隠す様に、母の背中に顔を埋めた儘云う。蓮が知佳の方を見て、ニコリと笑い掛けたが、蓮が顔を押し付けていた辺り、母の浴衣が二か所だけ、少し濡れていた。