三
「栂池に入っちゃう前に何処かでお昼にしませんか?」
塩尻を過ぎた辺りで、三科家の母が後部座席に向かって声を掛けた。
「そうですね。ちょっと時間が早い気もしますが、山に入っちゃうと食べるところも少ないかもしれませんし。現地に着いてからだと相場も上がりそうですし……」
柏崎の父は、寝ている子供達越しに三科母に応える。
「お父さん、安曇野出口の直前にサービスエリアあるから、そこ入っちゃって」
「なんてとこ?」
「ええとね……梓川」
「りょーかいっ」
車が梓川サービスエリアに着いた時、蓮と知佳はお互いに凭れ合いながら、完太はシートベルトを目一杯伸ばした状態で姉の太腿を枕にして、寝ていた。
「お父さん、お父さん、見てこれ、かわいい! 仲良し三人!」
三科母はスマホで何枚か写真を撮った。
「柏崎さん、ほら!」
スマホの画面を見せられた柏崎父は、思わず頬が綻んだ。蓮の寝顔が天使の様だ。然し、子供達が下りてくれないと、三列目シートからは出ることが出来ない。好く寝ているところ悪いのだけど、起こさない訳にはいかない。
「起こしちゃいますね……おーい、蓮! 起きてくれないと、お父さん出られないよ」
父親の言葉に蓮はうっすらと目を開けて、少し呻くと、寝返りを打とうとして知佳に頭突きをして仕舞った。
「いたっ!」
「いったーい、何!?」
二人ともすっかり目を覚まして、お互いおでことこめかみを押さえながら、体を離した。
「お昼にするから。降りて降りて」
蓮の父が二人の降車を促すと、蓮がスライドドアを開けて外に出た。
「んーっ! 空気が冷たい!」
外に降り立って伸びをしている蓮に続いて、知佳も降りようとしたが、そこで初めて腿の上の弟に気付いた。
「えー、完太! 起きてぇ!」
知佳が脚を揺すると、完太は「わぁ」と云って落ちそうになったので、咄嗟に知佳が両手で抱える。
「もぉ、寝坊助完太! 起きなさぁい!」
「おきたよぉ、おはよぉ」
「おはよぉじゃない、お昼食べに行くから、降りて!」
完太はシートベルトを外すと、右側のスライドドアを開けて、ぴょんと車から降りた。知佳も後に続いて車を降りると、ようやく蓮の父が後部座席から降りてきた。
建物内に入るなり、完太が「ソフトクリーム!」と叫んだ。
「ちょっと、お昼食べに来たんだよ、いきなり何云ってんの」
知佳が窘めるが、完太は構わずソフトクリームのショウケースに向かって真一文字に飛んでいった。
「こら完太! それはご飯の後で!」
「あっ、お父さん変な約束しないで」
三科の母は困った顔をした。
「あたしラーメン!」
フードコートのメニューを見ていた蓮が、マイペースに主張をする。
「フードコートで好い? あっちにレストランもあるけど……」
「そんなこと云ったって、完ちゃんそこから動かないし」
柏崎父娘の遣り取りを聞いていた三科父は、「レストラン高そうだし、その辺幾らでも席空いてるんで、好いんじゃないですか?」と云って、近くの席に荷物を置くと、給茶機の方へと向かって行った。柏崎父も慌てゝその後を追う。
「じゃあ知佳もメニュー選んで来て。蓮ちゃんはどのラーメン?」
「えーと……あづみ野ラーメンで」
知佳はメニューを眺めて、「とろろそばにしようかな」と云った。
「完太はうどんで好い?」
「ソフトクリーム!」
「きのこうどんね!」
三科母は稍イライラしながら一方的に決めると、食券機へと向かった。父親達はお茶を人数分持って戻って来ると、それをテーブルに置きながら、
「では我々も食券買いに行きますか」
「蓮はどのラーメン?」
「あづみ野ラーメン。小母さんが買いに行ったよ」
「えっ」
柏崎父が食券機の方に目を遣ると、三科母が食券を四枚持って戻って来るところだった。
「すみません、幾らでしたか?」
「あー……面倒なので後で良いですよ。取り敢えず自分の分買って来て」
「じゃあ後で。すみません」
柏崎父はペコペコしながら食券機へと向かった。
三科の父はソースかつ丼、母はわさびそば、柏崎父はハルピンラーメンをそれぞれ購入した。
「お父さんなにそれ、辛そう」
「ん? そんな辛くないぞ。蓮も食べてみるか?」
「じゃあちょっとだけ……辛!」
「うそぉ」
蓮がヒイヒイ云いながら水を飲んでいる間、完太と母が揉めていた。
「うどんいらない!」
「今更何云ってるの、食べなさい!」
「いや! キノコいや! ソフトクリーム!」
「完太! うどん食べない子はソフトクリームもありません!」
「いやだぁー!」
「そうかぁ、完太はソフトクリームなしかぁ。じゃあ父ちゃん一人で食べよっと」
三科父がそう追い打ちを掛けると、完太は父親を凝と睨んで、「父ちゃん買ってくれるって云った!」と不貞腐れた。そんな様子を見ていた知佳が、何か思い付いた様に薄く笑った。
〈僕ソフトクリーム。早くうどん食べて、僕に逢いに来て!〉
知佳が弟にテレパシーを送ると、完太は一瞬きょとんとした顔になって、きょろきょろと辺りを見回した。知佳は吹き出しそうになるのを堪えながら、更にテレパシーを送る。
〈早く早くぅ、うどんときのこ食べちゃってさぁ、僕のところにおいでよー〉
完太はソフトクリームのショウケースに視線を定めると、暫く凝と睨んでから、徐にうどんを食べ始める。両親は若干呆気に取られた様子だったが、直ぐに気を取り直して、「そうそう、どんどん食べて」「ソフトクリームが待ってるぞー」と完太を励ます。
知佳がにやにやした表情でその様を見ているのに蓮が気付き、
「知佳、なんかしたでしょ」
と訊いて来たが、知佳は「んー? 何のことかなぁ」と惚けて、尚も微笑みながら弟を見守っていた。
そんな家族の団欒をしていると、予想外の方向からいきなり声を掛けられた。
「あれ、蓮と知佳? 奇遇!」
知佳と蓮が顔を上げると、テーブルの脇を通り過ぎて行く親子連れの中から、見覚えのある少女が手を振っていた。蓮が吃驚して声を挙げる。
「仁美!? えー、何で? どこ行くの? お兄さんは?」
「白馬に、スキー! 蓮たちは? あ、お兄ちゃんはね、一人で売店に行っちゃったみたい」仁美は伸び上がって売店の方に目を遣った。
「あたし達は栂池、商店街の籤で一等だよ!」
「なにそれ、すごーい!」
子ども達の会話を聞いている大人達は、微妙な笑みを貼り付かせていた。籤の景品の栂池と、恐らく自費の白馬とでは、天地の開きがある。仁美の両親は幾分余裕の表情だが、それが却って三科家と柏崎家の大人達の笑顔を卑屈にさせる。
「蓮……籤の景品とか、云わなくて好いんだぞ」
蓮の父がそっと耳打ちするが、蓮は不思議そうに、
「えー、何で? 一等だよ、凄くない?」
と、普通のトーンで返すので、父の苦笑はますます微妙な感じになる。知佳は暫く大人達の顔を見比べていたが、すぐに後悔するような顔をして俯いて仕舞った。
知佳は他人の心を読むことが出来る。その異能力を使って大人達の心なんか読んで仕舞ったが為に、今激しい後悔をする羽目になっている。栂池の何が恥ずかしいのか。景品のスキーの何が悪いのか。白馬に気後れする意味も解らない。確かに仁美の家は、自家や蓮の家に較べれば金持ちの部類だと思う。でも、だから何なの。関係ないじゃない。
「一等凄いよねぇ、蓮ちゃん。おばちゃんは一等なんか当てたことないよ」
仁美の母は、比較的蓮や知佳と感覚が近いと思う。別に白馬を鼻に掛けている様なことも莫いし、本心から「一等凄い」と思っている。知佳の母だって仁美の母とは、知佳達が幼稚園の頃から仲の良い友達関係だった筈で、それが如何してこんなにも卑屈になっているのか、理解できないし、恥ずかしいし、情けない。
「知佳ちゃんも栂池?」
仁美の母が訊いて来たので知佳は説明する。
「本当は蓮の福引券で当てたんですけど、蓮のところ二人家族で、賞品四人分だからってんで、差額出して一緒に行かせて貰えることになったんです」
「なにそれ、仲良しエピソードじゃない! 素敵ね!」
「蓮と知佳大親友だもんね! 羨ましいなぁ」
仁美も本気で羨ましがっている。
「知佳、ちょっと違う。籤回したの知佳だから、権利半々だったんだよ。だから皆で行くことになったの」
蓮が横から補足すると、仁美の母親は目を細めて益々嬉しそうに笑った。
「そうなんだ、いずれにしても尊いわ! ねぇ麻由さん!」
麻由は、知佳の母の名だ。
「そうなの、お蔭でスキーに連れてって貰えるので、有り難いわ」
母よ、そう云うことではない。知佳は矢っ張り恥ずかしかった。でもこの場合の母の言葉は、どうも謙遜と云うか、照れ隠しらしい。それにしたって云い方と云うものがあるだろうに。
「さあ、皆食べ終わったことだし、そろそろ出発しないと」
知佳の父が立ち上がりながらそんなことを云う。この場から早く逃げたいって思っている。何で。
知佳はもう、親達の心を読むのは止めにした。読めば読むほど情けなくなるばかりである。そんな娘の気も知らず、父はそゝくさと食器を返却して、荷物を担いだ。
「ソフトクリーム!」
車へと行き掛けた父の裾を掴んで、完太がそんなことを叫ぶものだから、知佳は思わず吹き出して仕舞った。完太、ナイスだ。
「ああー、もう、しょうがないなぁ。どれだ? 安曇野りんごソフト?」
「ミルク!」
「どこでも売ってるやつ! まじかお前」
「ミルクが好き!」
「知ってるさ!」
そんな遣り取りを聞いて、蓮も仁美もけらけら笑っている。母も恥ずかしそうにしながら笑っていた。
「ママ、あたしもソフトクリーム欲しい!」
完太に触発されたのか、仁美がお強請りを始めた。
「あー、じゃあママも。どれにするの? ミルク?」
「違うよ! りんご!」
ここでまた笑いが起きる。
「あたしも欲しいぃ」
蓮迄強請り始めた。ここは乗らない手はないだろう。
「じゃああたしも。安曇野りんごとミルクのミックス!」
結局大人も含めて、皆でソフトクリームを食べることになった。
知佳の父と母は、安曇野りんごとアップルマンゴーを買って、半分ずつ食べ合っている。蓮とその父親も、蓮のりんごと父親のアップルマンゴーを一口ずつ分け合っていた。知佳は母親からアップルマンゴーを一口貰った。普通にりんごが好きだなと、知佳は思った。仁美母娘も同様に分け合っていて、ここ迄存在感の薄かった仁美父は、ソフトクリームは食べずにホットコーヒーを買って飲んでいた。マイペースを崩さない辺り、完太と気が合うのではないだろうか。そんなことを思いながらソフトクリームを完食すると、体が芯から冷えて仕舞った様な気がした。
「寒ぅ、お茶飲も!」
蓮が自分の紙コップを持って給茶機に走るので、知佳も後を追った。
「あたしも! 体冷えちゃったよ」
「なんだよ、それなら最初から、ソフトクリームなんか食べなきゃよかったのに」
父が口を尖らせて抗議するのが面白くて、知佳はくふふと笑った。
「寒い! おしっこ!」
完太などは食べ掛けのソフトクリームを父に押し付けて、何か云う隙も与えず、トイレへと走り去って仕舞う。父はそのソフトクリームを母に渡すと、完太の後を追い駆ける。
「知佳の家って楽しいね」
仁美がそんなことを云うので、知佳は何だか恥ずかしくなって、赤面した。
「もぉ、完太ってば!」
トイレの方向に向かって、届く筈のない文句を投げ付ける。
「おおい、いつ出るの?」
遠くの方から水を差す様に、誰かが大声で問い掛けて来た。
「あ、お兄ちゃん」
如何やら仁美の兄らしい。知佳も蓮も、仁美に兄がいることは知っているが、余り逢ったことが無いので、興味津々で自然とそちらに目が行った。確か高校生だった筈だ。
「あ、ごめーん、もう行くよ」
仁美の母が同じ位の声量で応える。遠くで銀縁眼鏡をかけた冴えない青年が手を振っている。仁美はクラスで一番と云って好い程可愛いのに、兄はなんだかなぁ、と知佳は思った。蓮も微妙な顔をしている。
「じゃあ行こうか」
仁美の父が家族を促す。
「はぁい。じゃあね、蓮、知佳。スキー楽しんで!」
「うん、仁美もね!」
「また学校で! バイバイ!」
二人で仁美一家を見送ると、知佳の父が完太を連れて戻って来た。
「じゃあ、うちらも行きましょうか」
知佳の母の号令で、一行は動き出す。
「ソフトクリームどうするんだよ」
「もういいや、お父さんあげる」
「えー……いらねぇ……母さんどうぞ」
「はいはい。そう云うの全部あたし。そうやって太らせるんだから」
文句を云いながらも、三科の母はソフトクリームを凡て完食し、紙塵を捨てゝから車へと戻った。全員が乗り込むと、車は静かにサービスエリアを出て、安曇野の出口へ向けて走り出した。