二十
都子が拓巳を引っ張って来た。相変わらず寝顔は端正だ。
「知佳ちゃん、今日は日時限定で。今のと同じ日、同じ時間にこいつが何しとったか、見たって」
「はい」
知佳は高宮の記憶の前後から、時計を探して時間を確認し、それから拓巳の中へ下りた。そうして、専務室に一人で立つ拓巳を見付けた。
「共有します」
拓巳の記憶が二人に送られる。
「居たかあ。ここからは慎重に見ていこか。知佳ちゃん、入室前から行けるか?」
「はい」
拓巳は母と妹と、父親である社長と一緒に、応接室に居た。スマホで何かを見ている。チャットか、SNSか。知佳にはその違いはよく解らないが、兎に角誰かと連絡を取っていて、その遣り取りの履歴を見ている様だ。
「考えていることは読めます。アルテミスの紋、楽しみだって……えっ?」
「んん? どう云うことや」
都子はスマホの画面を凝視する。
「こいつのハンドルネームは、『うちの紅子知りませんか』だと」
蓮が下唇を噛む。
「ええと、若しかしなくても、高宮の取引相手はこいつや」
「まさか。いくら社長の息子ったって、億なんてお金――あ、待ってください」
知佳はそれだけ云うと、拓巳の心に集中した。
「矢っ張り。冷やかしですね。金額は書き込んだけど、買う気なんかないです。ただ、物自体には興味があるみたい。如何遣って見てやろうか、そして如何遣って断ろうかって悩んでますね」
「糞野郎やんけ――あっ、蓮ちゃんゴメンな」
「好いんです。その通りだし。あたし今では別に――うん、多分もう――わかんないけど」
「悩むのは後で。今はこいつの記憶を追い掛けよ。知佳ちゃん、進めて」
「はい」
拓巳は急に立ち上がり、トイレ、と云って応接室を出た。応接室のドアを後ろ手で閉めると、左右を見渡した後、トイレではなく専務室の方向へ向かった。専務室から少し離れた処で、高宮が誰かと立ち話をしていたが、視線がこちらを向いていないことを確認し、そっと専務室のドアを開けて、中へ入る。音を立てない様にそっとドアを閉めると、真っ直ぐ執務机へと向かった。抽斗から鍵を取り出すと、鍵の付いた抽斗を開錠して、開く。
――相変わらず、セキュリティ意識は低いんだなぁ。
そんなことを呟きながら、奥からイヤリングの箱を取り出し、箱を開けて中身を眺めた。暫く堪能した後に箱を閉じ、それを戻すことなく再び元通り抽斗に施錠してから部屋を出ると、今度は社長室へ入った。
「持ち出したのはこいつで確定やな。然しそうすると、何でこいつの記憶にイヤリング無かったのかな」
「見落としましたかね……」
「まあ、君らあの時大分眠たそうにしてたしなぁ。せやけどうちも見覚えないねん」
社長室も留守だった。社長は応接室で家族の相手をしているので当然である。秘書の様な者も居ない。都子云うところの小さな会社だからか。拓巳は社長の机に近付くと、専務の時と同じ様に鍵の掛かった引き出しを開け、その中へ箱を入れると、施錠して鍵を戻し、部屋を出た。
社員も役員も、皆忙しくしていて、誰も拓巳の動きに等気を留める者は無かった。社長の息子だと皆知っている様で、堂々と社長室や専務室に出入りしても、誰も咎めたりしないし、抑々気にしてもいない。拓巳は悠然とトイレへ行き、トイレの為に立ったと云う口実に裏付けを与えてから、応接間へと戻った。
「さあて、問題は今でもそこに在るんかっちゅうことと、どないして収拾付けようかってところなんやけど……んー……蓮ちゃん、在るなら持って来れるんかな」
「これ?」
蓮の手に乳白色の小さな箱が握られていた。
「それそれ。中確認してや」
蓮が開けると、一対のアルテミスの紋が輝いていた。
「おお、実物はやっぱ、迫力あるなぁ。これが数百万かぁ」
「無事に取り戻せましたね」
「そやな、これで依頼の八割方は完了や。二人ともようやってくれた。グッジョブや」
「でもどうしてタッくん……」
蓮がイヤリングを見ながら、寂しそうに呟く。
「彼の心を読む限りでは、何とか取引を中断に持ち込みたくて、紛失したことにして仕舞えば好いかって思ったみたい。でも自分が持ち去る訳には行かないし、本当に無くなっちゃったらそれはそれで問題だから、取り敢えずお父さんの抽斗に入れておけば時間が稼げるかなって。それで紛々している間に取引キャンセルすれば好いって思ったみたい」
「なんじゃそらぁ。浅知恵もえゝとこやな。御蔭でとんだ大迷惑や!」
都子が仰け反った。蓮は何だか可笑しくなって、くすくす笑っている。
「それでどうやって返します?」
知佳が訊くと、都子はずいっと身を乗り出して、「そこやねん」と云う。
「このまんま返すんは癪やんか。でな、もう一回火星の騎士様にご登場願おうかなと」
「え?」蓮がきょとんとして都子を見詰めた。
「まあまあ」そして知佳の方を向き、「ちゃんと知佳ちゃんにも科白あげるから」
「いやっ、あたしは別に……」
「そう云わんと付き合うて。あんな……」
再び都子の思い付きに、二人は巻き込まれることとなった。そこから暫し、科白の練習が続き、目途の付いたところで、都子が手をパンと打つ。
「ほな、開演!」
拓巳の周りに火星の大地の光景が広がり、激しい閃光が走って拓巳を無理矢理起こす。
「ん……なんだ? 何時だ今……」
拓巳が寝惚けながら、枕元の眼鏡を掛けて、鳥渡動きを止める。目を大きく見開き、ごくりと唾を飲み込む。
「なん……何処だここは……えっ、白馬に居る筈……」
頬を抓ったりしている。
「痛い……」
「目覚めたか、愚か者」
蓮が火星の騎士の姿となって、拓巳の眼前に顕現する。
「うわあぁ、紅子様! えっ、これは夢では」
「夢ではないぞ! お主、我の人形は無事であろうな」
「ひぃ、昼間の続きか……無事無事無事、タオルで包んで、鞄に大事に入れてあります!」
「よろしい。そんなお前に、この者から話があるぞ」
知佳の出番になり、都子のフィルターでアルテミス銀子の姿となって現れる。
「あっ……アルテミス!」
「貴様、私の紋章を如何した!」
「はぁあっ!!」
拓巳は大きく息を吸い込み、白目を剥いて失神し掛けるが、透かさず都子が蹴りを入れる。拓巳に都子の姿は見えていない。
「いてぇっ! なっ、何だ、背中が……」
「紋章を如何したかと聞いているのじゃ! 返答次第ではただじゃ置かんぞ!」
「ひいぃ! あの、ええと、ブローチのこと?」
「ブローチ?」思わず都子が繰り返すが、都子の声は拓巳に届いていない。
拓巳の知らない空間で、都子と知佳と蓮は、お互いに目を見合せた。
「ブローチではない、あれはイヤリングじゃ」
銀子の声に呆れた気持ちが乗って仕舞う。
「ええっ、イヤリング……道理でちょっと小さいと思った。二個あったし」
「そうかぁ、ブローチなぁ。そんな変な認識されとるから、うちら見逃したんか」
「――莫迦なのか」
思わず蓮が呟き、紅子の声で拓巳に届いた。
「えええ、ごめんなさい紅子様。僕ほら、あの、アクセサリーとか、よく判らないから……写真見た時勝手にブローチだと思ってました!」
「貴様、写真で見ただけでは無い筈じゃ!」
「ひええ、銀子様はお見通しで? あの、あの、確かに、実物見ましたけど……あの……」
「それを如何した?」
銀子の知佳は一歩拓巳に近付き、顔を寄せてじろりと睨み付ける。
「ちっ、ちっ、ちちのっ、父の机の抽斗に!」
「ほぉう? 何故そのような真似を」
「わわわごめんなさい、あの、あの、億とか冗談で云ったら、高宮のアホが本気で売りに来やがって、だから、その」
「冗談じゃとぉ? 私の紋章は冗談か?」
「めぇっそうも、ござんせん!」拓巳は土下座する。「然し僕、――私には過ぎた物です故に! あの、売買契約が不成立になる様に隠したので!」
「紅子が回収したぞ」
紅子の手に、イヤリングの箱が握られており、紅子の蓮はそれを開いて中身を突き付ける。
「なんでぇぇえ!?」
「今の話、正直に高宮に告げ、謝罪して返すがよい」
「はぁあっ……はっ、はいぃ!」
拓巳は平伏する。
「高価な物故、これは一旦お主の部屋に置いておくぞ」
紅子の言葉に拓巳は顔を挙げて、困惑の表情を浮かべる。
「えっ、それは鳥渡都合が……」
「何故か」
「それじゃあ僕が盗んだことになって……しま……いませんでしょうか……」
「盗んだようなものだろう」
「えーっ、そ、それは……そうかも……いやでも……」
「煮え切らぬ男よの!」
「紅子、今は手を組み、この男に罰を与えようぞ。火星の炎で焼き尽くし、月の裏側の孤独を!」
「いやっ、やめてぇ! ごめんなさいぃ! 判りました、解りましたから! 仰せの儘に! 僕の部屋で良いですぅ!」
「そうか。では机の上に……」
「抽斗の中では駄目ですかぁあ?」
「そこまでして己の物としたいか」
「はぁう! 違います! 机の上で好いです! ででーんと、どどーんと置いておいてください!」
「ではそうしよう」
紅子は箱を持った儘退場し、完全に拓巳のステージより消えてから、蓮はイヤリングの箱を拓巳の部屋の机の上に転送した。
「必ず高宮に返せ、約束を破ればただじゃ置かぬぞ!」
銀子もその科白を最後に退場した。火星のステージも掻き消え、拓巳は自分の布団の上に正座して震えていた。