十五
蓮の心を見るのは初めてではない。知佳がこの能力に目覚めてから、蓮が能力に目覚める前迄の間、小学四年生の初冬頃から五年生の初秋頃迄の一年弱の間、知佳は幾度となく蓮の心を覗き見ている。然しここ迄本格的に心の奥まで下りて行くのは、流石に初めてのことだった。
蓮の心には三つの柱がある。亡くなった母親と、遺された家族である父親と、そして知佳だ。そのこと自体は知佳も随分前から認識していた。然しずっと記憶を遡って行くと、知佳が柱として確立される前に、知佳とは別の何か弱い、柱になりかけた筋の様な物がちらちらと見えて来る。その正体は今迄もずっと判らなかったし、今回もよく見えない。ただ、それを追及することは今回の目的ではない。今見付けなければならないのは、仁美との関係性と、仁美の兄である拓巳との関係性。拓巳の部屋に二人きりで居た経緯。フィギュアを巡る一件の、蓮から見た真実、認識。
知佳にとっての蓮は、幼稚園時代、仁美を介した友人の一人でしかなかった。母に依れば仁美を交えるもっと昔から、二人は家族の様にして育って来たらしいのだが、流石にそこまで古い記憶は知佳にもない。幼稚園より昔のこと等、殆ど何も覚えていない。でも幼稚園では確かに、蓮とは友達だった。そんなことを思いながら辿って行くと、小学一年生の頃から育ってきた知佳の柱が、幼稚園の卒園より前にも、か細くも判然とした筋として存在している。詰まり知佳は、蓮の中で卒園辺りを境に一旦途切れ、小学校に上がって数か月ぐらいで急激に復活、増大していることになる。この途切れた部分が、蓮の失われた記憶なんだろうと思う。――然しそれも、今回の目的ではない。非常に気になるところではあるのだが。
さて、先ずは仁美から辿ってみる。これに就いては知佳の認識と、そう大きな違いはない。幼稚園のPTAで母親同士が仲良くなり、その為子供同士も一緒に過ごす時間が多くなり、自然と親交を深めていったのだ。元々知佳の母と蓮の母は友人同士だった訳で、PTAでも大抵二人は一緒に行動していた為、友人を作る際にも二人同時に仲良くなっていったと云うだけのことである。特に仲良くなったのが、仁美の母と、弘子の母で、その為子供達もいつも四人で遊んでいた。仁美と弘子は余り人見知りをせず、社交的だった為、蓮や知佳とも直ぐに仲良くなったのだが、蓮と知佳はそれぞれに人見知り気味の性格だった所為で、お互いの交流は殆ど生まれなかった。その為幼稚園時代には微かにしかお互いを意識していなかった、と云うのが知佳の認識である。蓮の方は如何なのかと掘り返してみると、これが意外にも、幼稚園時代から可成強く知佳のことを意識している。――また脱線した。今はそこではなく、仁美のルートを探るのだ。
どうしても蓮の記憶の欠落が気になってしまう。然し今はそれどころではない。蓮にも、仁美の兄との確執を探るとしか伝えていない。記憶の欠落を解き明かす等とは云っていないのだから、それを勝手に調べるのは信頼を裏切る行為だ。知佳は臍の辺りにぐっと力を込めて、余計な考えを振り払った。
仁美と蓮。二人には二人なりの親交があった。蓮は偶に、仁美の家に呼ばれて遊んでいた。知佳も呼ばれたことがある気がするが、あまり良く覚えていない。回数が少なかったのか、楽しくなかったのか。何れにしても蓮は、知佳と一緒に呼ばれたこともあるが、一人で呼ばれる方が遥かに多かったようだ。その理由はなんとなく解る。呼ばれた蓮は仁美と一緒に、丸で着せ替え人形の様に色々な服を着せられて、その内の何着かを毎回持ち帰らされていた。主に仁美の母が、そして仁美自身も一緒になって、綺麗な顔立ちの蓮を好き勝手に着飾って楽しんでいたのだ。蓮は何をされているのか余り理解していなかった様だが、仁美と一緒にお着替えしたり、毎回お土産を貰えたりするのが何となく楽しかったので、厭な顔もせずに付き合っていた様である。
その記憶の道筋に、稍黒ずんだスポットがある。これは恐らく本人が封印した記憶の一つだろう。それほど強い封印ではなく、知佳が近付くとあっさり開封された。蓮が仁美の部屋へ行こうとして、何故か兄の部屋へ入って行くところだった。
仁美の部屋は何度も行っているのに何故間違えたのかはわからない。その時何かの都合で、仁美もその母も家に居らず、蓮は一人ぼっちで留守番していた。他人の家で独り留守番しているのも、その他人の家で勝手に彷徨いているのも、何れも変な状況ではあるのだが、当人は余り気にしている様子もなく、躊躇いなく二階へ上がり、真っ直ぐに拓巳の部屋へ入って行った。入って暫く、呆然と立ち尽くしていたが、軈てキョロキョロと室内を見渡し始め、本棚の一角に飾られたフィギュア群に目を留めると、その方へと近付いて行った。
――わあ、かぐや、みずき、こがね、べにこ……
そこには月の紋章に出てくるヒロイン達が全て揃っている。月の使者、水星の伝令、金星の王女、火星の騎士、木星の判官、土星の覇王、天王星の……
――あれえ、みどりが居ない
地球の聖母、鎧亜みどり。確かにそこだけ欠けている。そのキャラクター自体、登場して間もない為に、コレクションが追い付いていないのだろう。抑々最初は月の使者、月読かぐやだけで始まったのだが、半年位で水星、金星、火星が加わり、二年目に木星、土星、その半年後に天王星、海王星が登場して、三年目に当たるこの年の秋に、地球が初登場した。この記憶はそれから数箇月後、春休み直前のものである。蓮はどこかにみどりがいるのではと思って、あちこち覗いたり、移動させたりしていると、部屋のドアが開いて、悲鳴のような叫びが聞こえた。
――わあっ! 何してんだ! 触るな!
蓮はビクリと振り向くと、拓巳の顔を穴の開く程見詰めて、次の瞬間火薬が爆ぜる様にパッと走り出すと、拓巳の脇を器用に擦り抜けて、ドタドタと一階へ駆け下りていった。
一階には仁美とその母が居た。
――蓮どうしたの? 間違えてお兄ちゃんのお部屋に入っちゃったの?
――独りにしちゃってゴメンね。お兄ちゃん大袈裟なんだから。
会話を要約すると、拓巳は学校の体育で足を捻ったとかで、迎えに来て欲しいと学校から連絡があり、母が迎えに行っていたのだという。仁美は別に家を空けていた訳ではなくて、自分の部屋に衣装を取りに行っていただけだった様だ。その仁美を追い駆けて、蓮は間違えて拓巳の部屋に入って仕舞ったのだろう。
然し知佳は微妙な違和感を感じていた。蓮は拓巳に、何か変な反応を示している。知佳にはそこが好く判らない。ここ迄の顛末を都子に報告して、解釈を仰ぐべきなのかも知れないが、なんとなくそれは蓮の為に、憚られることの様な気がする。若しかしたら蓮は気にしないかも知れないが、この先にも何が待っているか判らないし……知佳は熟考の末、一旦蓮の心から抜け出し、都子を振り向いた。
「都子さん、あの……」
「長かったな。何か判ったんか」
「それが、ちょっと解らなくて……あ、あの、蓮の心共有して良いものか如何か」
「それはしんくてえゝよ。いや、この兄貴の心明け透けに曝けさせといて今更なんやけど、蓮ちゃんは身内やし、今後も長い付き合いになるやろうし、そもそも君の大事な親友やろ。口で要点だけ説明してくれたらえゝで。晒すことは無いやろ」
「はい。ありがとうございます」
知佳は少し、心が軽くなった。
「あの、それで……」
知佳はざっくりと、今見たものを説明した。母親が出掛けて、仁美が自室にいる時に、蓮が仁美の部屋へ行こうとして兄の部屋に入り、フィギュアのコレクションに目を奪われた。地球の聖母のフィギュアが無かったので探している所へ、兄が帰ってきて咎められたので、慌てゝ出て行った。
「それで、――なんか上手く云えないんですけど、なんか変なんです」
「変て? 誰が? どこが?」
「うーん……」知佳は暫し黙考して、「仁美の部屋初めて行くわけでもないのに、なんだか真っ直ぐお兄さんの部屋に行ってるし、それに、蓮のこの人を見る目が……なんだろう……」
それ迄ずっと知佳の手を握っていた蓮が、すっと手を離した。蓮を見ると目を逸らす。
「蓮? 何か思い当たることが――」
「知佳ちゃん」
「はい?」
「そやな……今は鳥渡、それは置いとこか。先進も」
「えっ、でも」
「ええねん。若しかしたら何れは明かされなかんことなんかも知らんけど、今慌てて引ん剥くことないて」
「ひんむくって……」
「蓮ちゃん、一旦そこは触らんとくけど、この先避けられないかも判らん。覚悟しときってのも変な云い方やけど、出来れば自分で説明出来る様に、整理しておいて貰えるとありがたいねんけど」
蓮は暫く固まっていたが、軈て緩と首肯いた。
「ほんま、ごめんやで……ほなら知佳ちゃん、先行こか」
「……はい」
知佳は好く判らない儘、再度蓮の中へと下りて行った。
先程の黒ずみに続く様にして、小さな黒ずみが在ったので、それを覗こうとしたが、小さい割にこの黒ずみは固く封印されている。色々試してみたが時間が掛かりそうなので、一旦保留として先へ進む。
先程とは別の日、矢張り仁美の家で、仁美と母親と蓮とがきゃいきゃい燥ぎながらファッションショーを繰り広げている。
――仁美の服可愛い!
――蓮のそれ、カッコよすぎ!
――蓮ちゃん幼稚園児の着こなしじゃないわ。うちの娘が滅茶苦茶幼く見えちゃう!
――お母さん! 仁美、幼稚園だよ! 幼いの当たり前じゃん!
――口答えも可愛い!
仁美の母が一番燥いでいる様だ。確かに、仁美はキラキラする程可愛いし、蓮は映画スターの様に矢鱈大人びて見えて格好良い。なんだか見ていて知佳も楽しい気分になって来る。同時に、自分はこの場にはそぐわないなと、卑屈ではなく素直に諦めの気持ちになって仕舞う。それは自分の領分ではない、と云う気持ちだけであって、特に羨ましいとも妬ましいとも思わない。逆に、可愛いものや美しいものが見られて幸せ、と云う気持ちになっている。これは仁美の母の気持ちに近いのではないかなと思う。
そしてこの直後から、黒ずみだ。知佳はそっと封印を解き、中へと踏み込む。この封印も軽いものだった。
ガラス張りの居間のドア越しに、拓巳がいた。凝と三人の方を見ているのに気付いた蓮は、急に動きが奇怪しくなる。口数が減り、稍俯きがちになるのだが、仁美母娘はその変化に気付いていない。蓮に気付かれたと悟ったのか如何か判らないが、その後直ぐに拓巳は立ち去り、蓮はほっと小さな溜息を吐いた。
また黒ずみ。今度は鳥渡手強い。意識を集中して開封すると、蓮はまた仁美の家で独りになっていた。直ぐに立ち上がって、幼稚園鞄を肩から下げた儘二階に上がり、真っ直ぐ拓巳の部屋へ行く。部屋には拓巳がいて、蓮が部屋に入ると立ち上がって迎える様にした。
――何で呼ばれたか判ってるよな。
蓮はふるふると首を横に振る。
――お前この前この部屋にいただろ。その時に盗ったんだろ?
蓮はきょとんとした顔をしている。
――しらばっくれるなよ、火星の騎士! 阿連須紅子だよ! 盗ったんだろ!? 返せ!
最初ぽかんと無表情だった蓮だが、少しずつ目が大きく見開かれていき、半歩後退って、
――知らない! あたしじゃない!
と叫んだ。
――お前しかいないんだよ! ふっざけんな! 返せよ! お前だろ! 見てたんだぞ!
――ほんとに知らない! あたしじゃない! 知らないよ!
蓮はぐしゃぐしゃに泣いていた。あの日本棚で見た紅子のフィギュアを思い起こし、そして何故か、知佳を思い浮かべていた。
「えっ?」
知佳は思わず小さく叫んだ。どう云うことだ。私が犯人? いやまさか。心当たりなんかないし、そもそも仁美の兄の部屋なんか行ったことも無いし、そんなフィギュアなんか……
「あっ……あれっ?」
「どないしたん」
「いや……ちょっと……ええっ? ……ああっ、誰かあたしの心を読んで!」
「いやいや、落ち着きなはれや。なにやねん。どないしたん」
蓮が心配そうに知佳を見上げていた。
「知佳……あたしなんとなく……思い出し掛けてるかも……」
「そうね、あたしが結構蓮の心引っ掻き回したからね! でも……ええっ、どう云うことだろう……」
「あのフィギュア……」
「そう、あのフィギュア!」
「あたし、知佳に謝らなくちゃ……」
「なにそれどういうこと? あのフィギュア、何であたし、知ってるの? 同じものだよ、まさにそのフィギュア、見たことある。手に取ったことある。……え、待って、もしかして……」
知佳は目を瞑って頭を抱えた。
「あたしが知佳の幼稚園鞄に入れたんだ」
「ああっ! そう! そうだよ! ――蓮、あたしの部屋の机の引き出し判る? 三段になってる一番上、多分奥の方」
蓮が目を閉じて数秒、再び開けた時には瞳が真っ赤に染まり、手には、火星の騎士のフィギュアが握られていた。
「おっけー、君たち、説明よろしく」
都子が仁王立ちして、二人を見据えていた。
「あぁ、都子さん、これは……」
「あたしが説明するよ。このフィギュア、仁美の家の居間で拾ったんです。あたし――これがタッくんのものだって知ってて……」
「たっくん?」
蓮は稍自嘲気味に笑った。
「そう、勝手に呼んでた。あたし多分あの頃、仁美のお兄ちゃんが一寸だけ好きだったんだと思う。今迄すっかり忘れてたけど」
「ええっ、嘘でしょ!?」
「嘘ではないやろ。知佳ちゃんが感じとった違和感や」
「……えぇ? いやでも……蓮昨日、物凄く気持ち悪がってたじゃん」
「そうだね……不思議なことに、今はそれほど厭じゃない。思い出したからかな」
「フロイトやな。抑圧からの反転。好きや好きやって気持ち抑え込んで、抑え込み過ぎてそれを否定する為に真反対の感情を作り出して仕舞う。嫌いって思い込むことで好きを忘れようとする心の動きや。――ゆうて心理学は一般教養で、適当に聞き流していたから多少間違いがあるかも判らんけど」
「ミヤちゃんて、女神田っち」
「やめてや!」
蓮は少し笑った。知佳はそれを見て、少しだけ安堵した。知佳の前に蓮の心の柱になりかけていた筋の正体も分かった。それが「タッくん」だ。
「知佳勘違いしないでね。昨日程厭ではないってだけで、今は別に好きでも何でもないから。――そう、思い出したよ。あの日、タッくんに捻じ伏せられて、それで一回、あたしの世界全滅したんだ。タッくんも、知佳も、あの時あたしの中から消えた」
「何であたし迄」
「申し訳なくて」
「どういうこと?」
「あのフィギュア、偶々拾って、後で仁美かタッくんに渡そうと思っていたんだけど、その儘忘れて、幼稚園鞄に入れた儘帰っちゃって……で、次の日幼稚園でそれに気付いて、急に怖くなって、何でか知佳の鞄に……」
「何よそれぇ。あたし吃驚したんだよ、或る日急に、鞄の中に火星の騎士がいるんだもん。火星からあたしを護りに来てくれたのかと思って」
「なにそれ」蓮は可愛く笑った後、「ごめんなさい」と謝った。
「いや、今更好いんだけど。それでなんであたしごと忘れちゃうかなぁ」
「罪悪感の塊やったんやろな。自分の心護る為に、知佳ちゃんの存在ごと心の中から消してもうたんかな。知らんけど」
「なんか悲しい」
「ほんとにゴメン」
蓮はそうして殊勝気に何度も謝るのだけど、その表情も、声音も、迚も晴れ晴れとしていて、それが知佳は唯々嬉しかった。
「蓮、あたしとの幼稚園時代、思い出せたんだね」
蓮はこくりと首肯く。そして知佳にしがみ付いた。
「ありがとう。ごめんね」
知佳もそっと抱き締め返した。
「尊いやんけ」
横で都子が小さく呟いた。




