十四
「わあっ!」
「みっ、都子さん!?」
「ゴメンやで。一寸、時間止めとぉから、付き合うてや」
「えっ? えっ?」
「山頂がぁー」
「また後で滑らしたるやん。なんなら、止まった時間ン中でようさん滑って貰っといてもええで」
「ええーっ!?」
「はい、一歩前へ」
蓮と知佳は云われる儘に一歩進んだ。足にはスキーもスキーブーツも履いていない。靴下一枚の状態だが、寒さや違和感は特に感じない。
「八方尾根へようこそ!」
「は、はっぽうおねって」
「仁美の?」
「そやで。他に何の用でうちが来る思っとんねん」
「いや――ええっ」
「展開に付いて行けません!」
堪らず蓮が叫んだ。
「今から説明すんねん。ちょっと急を要してな。取り敢えずこれ見て」
白い世界に人が出現した。そしてその周りの景色も再現される。
「あ、仁美のお兄ちゃん」
仁美の兄は、頭から雪に突っ込む瞬間で止まっていた。足にはスノーボードを付けている。
「ちょっと小マシに見えるのは……一割増だからか」
知佳の呟きに都子は怪訝な顔をする。蓮は仁美兄を凝視している。
「なんやそれ。ゲレンデ一割増説か。――そんなんもワヤにする程の大失態や。下手糞が、超上級コースなんかで熱るからやで。こいつこの儘では相当酷いことんなるから。――今調査対象でもあることやし、面倒なんは厭やねん。何とかしたって」
「なんとかって」
「蓮ちゃんならでけるやろ」
「神田っちは?」
「神田っちあかん。こんな肝心な時に、何や別件調査とかでどっか行ってもた」
「えーっ……」
それ迄仁美兄を凝視した儘だった蓮が、戸惑った表情で都子を見上げて、「でもこれ、如何すれば」と訊く。
「上でも下でも、連れてったってや。家族と別行動しとるから、余り他人目は気にしんくてえゝよ。――ああ、もう少し地形とか要るやんな。待っとき」
仁美の兄がグーッと小さくなって行き、周囲の景色が次々と飛び込んで来た。ミニチュアの人を配したジオラマか何かでも見ている様な感じである。
「こっちか、こっちやな」
都子は、コースの開始地点で人気の無い処と、コースの終了地点で人気の無い処を指した。
「うーん……じゃあ……」
蓮の目が赤く光り、仁美の兄のミニチュアが消え――そして次の瞬間、目の前に出現した。頭を上にして中空に現れた彼は、落下して思い切り尻餅を突く。
「いてえっ!」
都子も知佳も、大きく目を見開いて息を呑んだ。
蓮は真っ蒼になって固まっている。
「いや……連れてきたらあかん……」
「そんなつもりじゃ……どうしよう……ごめんなさい」
仁美の兄はきょろきょろと辺りを見渡して、「なっ、なに? え、俺死んだ?」等と云っている。何れ三人の存在に気付き、蓮と目が合った瞬間、
「火星の騎士!」
と叫んだ。それを聞いた蓮の瞳孔が開く。
「や……違う……違うよ、いやだ!!」
仁美の兄は消え、ジオラマのコース終了地点に現れて、雪の中に頭から埋まった。蓮は蹲った儘、青い顔でガタガタ震えている。
「都子さん……これ……」
「うーん、なんか地雷踏んだっぽいわ。何の地雷か解らんけど」
都子は雪に埋まった仁美の兄を改めて原寸大で捉え直し、
「時間止まっとっても見えるかな。こいつン中、何あるか判らんか。今回の件とは関係ないかもやけど、蓮ちゃんに関した何かが」
「……はい」
知佳は余り気乗りしなかったが、蓮の為と思い、彼の中へと下りて行った。
火星の騎士と云えば、「月の紋章」に出てくるヒロインの一人、阿連須紅子だ。長いサーベルを持っていて、短髪赤毛でくるくる癖っ毛の……
「全然蓮と似てないのに」
「何が?」
「あっ、いや、蓮と火星の騎士」
「そうやなぁ、まったく共通点無いわ」
心の中へと下りてゆくと、程なく蓮のイメージに行き当たった。先刻見たからだろうか、非常に鮮明な現在の蓮だ。そしてその隣に、明らかに幼い蓮がいる。これは幼稚園の頃か……その蓮が何か持っていて、背後が白い靄に包まれている。
「都子さん、これ!」
知佳は都子に見たものを共有した。
「昨夜の不可視領域か。蓮ちゃん関係やったか……厭やなぁ、けど見なしゃあないか……」
都子はそっと、蹲った儘の蓮の方を気遣った。
「その、蓮ちゃんが持っとるもん、なんやろ」
「なんでしょうね……」
知佳は意識を集中させて、解像度を上げていく。
「フィギュアかな……これは、火星の騎士か……あの一瞬で何を思い出したんや、こいつは」
「開けてみますね」
「頼むわ」
更に知佳が意識を集中すると、白い靄が少しずつ薄くなっていく。
「さぁて、鬼が出るか、蛇が出るか……」
靄の中から微かな光が漏れて来て、旧い記憶が展開されていく。
――返せよ! お前だろ! 見てたんだぞ!
――知らない! あたし知らない!
知佳と都子は顔を見合せた。ランドセルを足元に転がした仁美の兄と、幼稚園鞄を袈裟に掛けた儘の蓮だ。仁美の兄は蓮の腕を捕まえた格好で、何か物凄く云い争っている。仁美の兄は悪鬼の如き憤怒の形相で、対して蓮は顔中ぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている。
――ふざけんなよ、この、泥棒!
仁美の兄は蓮の腕を捩じ上げて、床に組み伏せた。どこかの部屋の様だ。二人の他には誰も居ない様である。
――痛い! やだ! あたし知らない!
蓮はびいびい泣き叫んでいる。見ていて辛い。
部屋の外でどたどたと音がして、突然ドアがバンと勢い良く開いた。
――拓巳! お前何遣ってんだ!
入って来たのは父親で、六郷商事の社長だ。
――幼い子相手に、恥を知れ!
父の鉄拳が炸裂し、兄は吹っ飛んだ。
――なんでだよ、俺悪くないよ! こいつが、こいつが!
兄はぎゃんぎゃん泣きながら抗議している。
――黙れ、一家の面汚しめ! 如何な理由があろうと、非力なる相手を力で捻じ伏せる等、人の所業ではない!
そして蓮の方を向き、
――申し訳なかったね。下に仁美と、おばちゃん居るから、とにかく降りなさい。
蓮は云われる儘、部屋から走って出て行った。
――ちくしょおぉ、俺の騎士があぁぁぁ!
――訳解らないこと云ってるんじゃない! 好い加減その気色の悪いアニメ趣味、なんとかせんか!
「ええと……つまり?」
一通り見終わって都子が呟いた。
「真偽の程は判らへんけど、こいつは蓮ちゃんが、火星の騎士のフィギュアを盗んだぁと思っとって、蓮ちゃんがそれを否定しよるもんやから盛大に拗れていたと」
「そんな。何で蓮が」
「蓮ちゃんの中身と答え合わせせんと、何が如何なっとんのかさっぱりやなぁ……」
二人は蹲って震えた儘の蓮に視線を遣った。
「あ、隙間」
知佳は蓮に近付いて、脇に蹲みこむと背中に手を置いた。
「蓮、大丈夫?」
蓮はちらりと知佳を見て、相変わらず震えた儘、ぎこちなく首を縦に振った。
「全然大丈夫じゃないね。――あのね、仁美のお兄ちゃんの心読んだの。蓮が小さい頃、暴力振るわれていたんだね」
蓮はまた、目だけ動かして知佳を見たが、今度は何も応えなかった。
「もし蓮の心もちゃんと調べることが出来たら、何があったか精確に判るし、如何すれば好いかの方針も立てられると思うの……」
知佳は蓮の背中を寛悠と撫でながら、優しい口調で続ける。
「今ね、蓮の心、隙間が出来てる。あたし入れそうなんだけど……入っても好いかな」
蓮は知佳を見た後、一旦眼を瞑り、その儘暫く凝としていたが、軈て眼を開けると、知佳の方も見ずに手を弱く握り、小さく首肯いた。
「じゃあ、入るね」
そして知佳は、一瞬ぐっと顎を引いて何かを決意すると、蓮の心の隙間からそうっと中へと下りて行った。