警告の色
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
赤、黄色、黒……と並べると、警告色の代表的なものだと、ぴんと来る人は多いだろう。
これらの色は毒とか腐敗とかのイメージを際立たせ、接触することで命をおびやかす恐れがあると、遺伝子の経験値がつちかったもの。
こいつは人間同士でも利用されており、踏切の遮断機や立ち入り禁止のロープなどで見かけることが多いだろう。
しかし、これは人をはじめとする、ある程度の生き物にとっての話だ。
中には、これらの色の常識が通用しないばかりか、特に意識していなかったとしても、無用のトラブルを呼び込んでしまう可能性を帯びている。
私たちも、望まない災いに出くわさないよう、備えは持っておくべきかもしれない。
たとえそれが万に一つの可能性であり、場合によっては生涯お世話になることがなかったとしてもだ。
私のむかしの思い出話なんだが、聞いてみないか?
まだ幼稚園に通っていた時分だったな。
通園日でない日。私はよく祖父に連れられて、散歩に出かけていた。
祖父の老後の趣味のひとつらしくて、一度外へ出ると、数時間は戻ってこないのが当たり前。
今日はどこどこまで歩いた、とボケ防止のためなのか、私たちに逐一教えてくる。
実際、亡くなる直前まで健脚も健脚で、ついぞ杖のお世話になることがなかったのを覚えているよ。
その祖父も、孫の私がかわいかったのだろうか。
都合がつけば、私を連れて外へ出る。私も素直にそれへ従った。
当時はまだ、祖父に対しての好き嫌いの情も、そこまで意識していなかったと思う。
ただ、言われたからついていく。
人間界に生まれた命のひとつとして、その世界のルールを学ぶ段階。そこに善悪の別はなく、幅広い吸収力を発揮する。
ゆえに、私にとって祖父へついていくのは、学び途中のルールのひとつ。
二人して東西南北、乗り物に頼らなくて済む程度の距離を練り歩いた。
散歩そのものは、それこそ数え切れないほど重ねたよ。
だがそのうちの何度かは、少し不思議な体験をしたことを覚えている。
特に最初が印象的だったんで、今から話すのはそれだな。
これまで行ったことのない道を行こう、ということで、私が生まれてからほどなく、新しく開通したという道路沿いに、私たちは歩いていた。
交差する、元来のバス通りを越えて、なおも真っすぐに進む。
祖父の話では、この道が貫くまではバス通りづたいで、車でも十数分単位の遠回りを強いられていたというから、交通の便への影響はかなり大きかったんじゃないかと思う。
平日の午前中ということもあって、車の数はそこそこ見受けられるが、歩道は私たちをのぞき、近くを歩いている者はいない。
祖父も私も、無口というほどじゃないが、途切れないほどのおしゃべりというわけでもなく。
ときおり、思いついたことを口にしては二、三しゃべって黙り込む。
そのような感じで、いよいよ、よその学区の中学校が見えてくる……という場所まで来て。
む、と先に行く祖父が確かにうなり、足を止めた。
私も続いてストップする。
車道では、ちょうど車通りがはけたなか、ただ一台。黄色をベースとした車体に、紅白色のバンパーをそなえた、荷台つきのトラック。
道路維持作業車のたぐいと分かったのは、あとでの話。このときの私の知識では、「なんか、やたら目立つ色した車だなあ」程度の印象だった。
しかし、祖父はとたんに険しい表情になって、私に忠告してくる。
「今からずっと、道路を見てな。『赤い車』が通ったら、じいじに言え。わしも見るが、お前も見えてこそ意味がある」
そのようなことをいわれて、まだまだ素直な私は、穴が空くほど熱心に車道を見張り出した。
ただ歩くだけで終わらないこの見張りが、純粋に楽しかったのもあるかもしれない。
変わらず、往来の絶えている車道。やがてそこを、私たちの背後から走ってきた車が闊歩する。
今度は私の知識でも、すぐに判断がついた。
長いはしごを背負った、はしご車だったがサイレンは鳴らしていない。特に火事が起きているわけじゃないのだろうか。
そうのんきに考えていると、隣でパンパンと何かをはたくような音がする。
見ると祖父が、大きいコンパクトを取り出し、これまた手のひらが隠れてしまいそうなパフをつけて、顔におしろいを塗りつけているところだった。
「じっとしてろ」と私に指示するや、同じように私の顔をおしろいで、真っ白に塗りつぶしていく。手足など、外へじかにさらしている肌の部分も、同様だ。
「もうじき、『白い車』が来る」
祖父がみずからも真っ白な姿になると、おしろい一式をしまいながら、つぶやいた。
「やつらのお仲間であると、分かってもらわねばならんでな。車が通り過ぎるまで、そのおしろいを落とすなよ。さもないと……」
その言葉の途中で。
前二台とは違い、エンジン音もないまま突然に、私たちを追い越す形で車道に車が現れた。
頭に警告灯らしきものを乗せているところを鑑みれば、パトカーに似た形状だった。
ただ違うのが、それらが色を塗る前の粘土であるかのように、全身が真っ白であること。
その窓、タイヤ、サイレンの形に至るまでもが、だ。
まったく透けてはいない。塗り固められていて、窓から車内の様子はいっさいうかがい知ることができなかった。
あのような車があるのか……と、目をぱちくりさせる私と、変わらずに険しい表情で見送る祖父。
なぜこうも祖父が車をにらむのか。その理由はほどなく分かった。
私たちより数十メートルほど先。
ちょうどブロック塀が立ち、見通しのききづらい角から、茶色い毛並みの猫が飛び出してきたんだ。
猫などは走る車を見ると、ときどきその前を横断したがる癖があるのは、知っていた。
単純に勝負したがっているのか、本能からの逃避行動か。
いずれにせよ、轢かれることによる悲惨な結果など、いっさい気にかけないという思いきりぶり。今回もまた、そのような血気のあらわれかと思ったんだ。
が、通り過ぎるには、そのタイミングがやや遅い。
どん、とひとつ音が鳴る。
猫が車の側面にぶつかる音だった。それだけなら、まだ分からなくもない。
けれど、頭を混乱させるのが、それきり猫の姿が見えなくなってしまったこと。
ぶつかって弾かれたわけでも、その場に落ちてタイヤに巻き込まれたわけでもない。
車と触れ合った猫は、そのまま車体へ突き抜けるように入っていってしまい、どんどんと車が小さくなっていく間、いっさい顔を見せなかったんだ。
「あれがあるから、怖い」
祖父は一部始終を見やって、言葉を継ぐ。
ああして、お仲間の色を持たないヤツを、かの白い車は運んでいってしまう。
それは車自身が好かないのかもしれないし、もっと他の意味があるのかもしれない。
ただ、ああして道路維持作業の黄色い車と、消防車のような赤い車が立て続けに通るのは、多少なりとも利口な奴らへ伝える合図。
ゆえに、白い車に目をつけられないよう、祖父はおしろいを持ち歩いているのだとか。