第二話
別々の道で帰れば良かったと気付いたのは、前を歩く九十九の後ろ姿が、亡き妻の姿と重なり、あの背筋に走る忌まわしい感覚を再び思い出した時であった。
あの細い背中、風に揺れる黒髪、そのすべてが私の内奥に沈殿する澱を掻き乱し、忘れようと努めてきた暗い感情を蘇らせる。
彼女が一歩を踏み出すたびに、その振動が波紋のように伝わり、暗く濁った思念が押し寄せてくる。やがてその濁流が堤を越え、私自身を押し流してしまうのではないかと恐れすら覚えた。
無理にでも別の道を選ぶべきだった。駅前で「少し用事がある」などと口実を作り、九十九と離れるべきだったと後悔する。
だが、果たして、今の状況を共に帰宅しているといえるのだろうか。
私と九十九の間には、五メートル近い距離が横たわっていた。もし彼女が角を曲がれば、しばらく視界から消え去ってしまうであろう、他人と呼んでも差し支えないほどの、無機質で冷たい距離感。
この距離を保っているのは私の意思か、あるいは九十九の意思か。少なくとも、私は彼女と肩を並べて歩きたいなど微塵も思っていない。それどころか、この間隔を維持することこそが暗黙の約束であり、相互の了解なのだと信じてさえいる。まるで反抗期の子供が親を疎んじるかのように……何て馬鹿げた考えなのだろう!
自らの子を拒絶し、影のように距離を置く親の姿が、どれほど惨めで、いかに醜い構図なのか。この内面の腐臭をまき散らす自分に、人としての価値があるのだろうか? 否、一銭の価値もない。だからこそ私は、人間ではなく、芋蟲として生きているのだ。
確かに、私は這いずり回るだけの惨めな存在なのかもしれない。しかし、弱者であることから逃れる術がないとしても、可能な限りその弱さを捨て去り、毅然とした態度で生きていくべきではないだろうか。たとえ、石を投げつけられる存在であったとしても、投擲者をじっと見つめ、悠然と耐え忍ぶ精神を持っていれば、誰もがある種の敬意を払わざるを得ないはずだ。
しかし、私はどうだ? 石が飛んでくれば、芋蟲のように地面を這いずり逃げ出すだろう。いや、投擲者に対して、媚びへつらう笑みすら浮かべるかもしれない。しまいには、堪忍してください、堪忍してくださいと、額を地面に擦り付けるのだ。
なんて恥ずべき姿なのだろう、なんて情けない姿なのだろう、なんて惰弱なのだろう! 嗚呼、私は弱い、弱い……。
自身への失望と嫌悪に足をからめとられていく私には気付かないで、九十九は淡々とした足取りをもって前へと進んでいく。その背中には、私の存在など欠片も感じられないかのような冷たさが漂っている。
徐々に彼女の歩みが速くなって、その距離がさらに広がっている気がした。まるで私を置き去りにするかのようなその歩みには、意図的に距離を取っているのではないかとの邪推が湧く。
それは単なる偶然に過ぎないのかもしれないが、いずれにせよ、私から距離を詰めることは難しかった。若い頃、事故によって脚に負った傷が、今なお尾を引いているからだ。
昔に比べればずいぶんとマシになったとはいえ、この片脚を引きずるような不格好な歩き方は、嫌でも周囲の視線を集めていた。靴底の消耗も早いので、地面との接触が近しくなっていくのがわかると、自らの無様さを痛感させられた。妻からは「芋蟲のような歩き方ね」と、何度も揶揄されてきたが、その言葉は、今もなお心に深く刺さっていた。
街灯の光量が乏しい、まばらに植えられた低い街路樹が並ぶ遊歩道を、重い足取りで進んでいく。
夜風が微かに揺らす枝葉の音が、静寂を破る数少ない音となり、彼らが地面に落とす淡い影は、私の存在を暗示するかのように、ゆらゆらと不安定に揺れている。その影の動きは、まるで私の不規則な歩みを嘲笑うかのようで、夜の冷えと共にじわりと肌に染み込み、心の奥に冷たく響いてくる。
この辺りは地価が安いためか、治安があまり良くない。成人男性である私でさえ、向かいから誰かが近づいてくると、つい身構えてしまうほどだ。
辺りには無言のプレッシャーが漂い、暗闇の奥から不意に、何かしらの悪意が現れるかもしれないという漠然とした緊張感があった。道行く者たちもどことなく、目を凝らして警戒し、互いに距離を保っているように見える。
しかし、九十九はそんな緊張感を一切意に介さず、何の迷いもなく進んでいる。
真っ直ぐに背筋を伸ばし、一定のリズムを刻む彼女の歩調は、揺るぎなく堂々としていて、まるで夜の危うさを切り裂くかのような威風を放っている。この暗闇の中でも、彼女の存在感は際立ち、周囲の空気を一変させていた。
向かいから歩いてきた大学生風の男も、スマートフォンをいじる手を止めて、思わず振り返っていた。九十九の顔をもう一度視界に収めたかったのか、踵を返しかけていたが、あまりに不自然な行動であると気付いたのか、名残惜しそうに歩みを再開させた。
彼もきっと、九十九の美しさに囚われたのだろう。通り過ぎる人々が一瞬立ち止まり、目を奪われる光景を見ていると、まるで彼女が夜の舞台を舞う蝶であり、私がその周囲でひっそりと這いずり回る芋蟲に思えてくる。
だが、九十九はただの蝶ではない。
彼女の持つ美は、人によっては虫ピンを突き刺して手元に残しておきたい──そういった剣呑な欲望を抱かせるものであった。
美は人を狂わせる。
妻も、その美しさゆえに、不幸を招き寄せた過去があるらしかった。
「それでも、あなたのように醜く生まれるよりマシだったけれどね」
と、私への侮蔑は忘れなかったが、その時ばかりは妙な歯切れの悪さが目立っていた。彼女もまた、その美しさの代償に苦しんでいたのだろうか。
醜く生まれる辛さもあれば、美しく生まれる辛さもあるという。
綺麗は汚い、汚いは綺麗──かの有名なマクベスの台詞ではないが、たしかに、全ての事象は逆説的なものを孕んでいるのかもしれない。
しかし、私は持つ者の苦しみなど理解できないし、したくもないのだ。
仮に、金持ちには金持ちの苦しみがあると言われたところで、貧困者にはどう響くというのか? 金持ちの苦しみだって? ぜひ、味わいたものだ! 今すぐ変わっておくれ! と哄笑するに違いない。
私とて同じだ。
他者からの視線に晒され続ける痛ましさ、誰からも顧みられることのない孤独、それに似つかわしくない愛情への飢え。それらを誰かに与え、また与えられることすら許されず、最終的には誰の記憶にも留まらないまま、静かに閉じていくだけの人生……それこそが『苦しみ』なのだ。
美に懊悩するものは、その事実を強く自覚すべきだ。醜く這いずる芋蟲としてではなく、美しい蝶として空を舞えるなら、それ以上に幸せなことはないのだから。
ふと、視界の隅に、電柱にもたれかかっている黄色い看板が目に入った。そこには『痴漢に注意!』と、ゴシック体の黒い文字で大きく書かれていた。
──私は今、周囲からどう見られているのだろう?
その問いが頭の中で繰り返され、無意識のうちに周囲を見回してしまう。しかし、目に映るのは、前方の見慣れた人影だけで、他には何もない。静かな通りには、薄明かりの他、足音以外の物音もなく、ただ風の音だけが聞こえてくる。
……もし第三者が、今の私を見たとしたならば、一体どのような印象を抱くだろうか。見目麗しい女学生の後をつける怪しい中年男性……そう思われるのではないか?
その姿は、何かしらの疑念を呼び起こすのに十分だ。もし、通りがかりの警察官にでも声をかけられたら、私はこの状況をうまく説明できるだろうか。言葉に詰まり、口ごもることだけは容易に想像できる。九十九は、おそらく助けてくれないだろう。警察官に詰問され、狼狽する私の姿を遠目に眺めた後、平然と自宅へと向かっていくに違いない。なんて、冷たい女なのだろう!
いや、待てよ……。
ふと昔のことが思い出される。
九十九が幼い頃、まだ小学生になる前だったろうか。あの時も、似たような場面がなかったか。
そうだ。
たまには父親らしく遊びに連れていってやるべきだと柄にもないことを考え、隣町の寂れた遊園地に行くために、二人で最寄り駅まで歩いていた時だ。若い警察官に声をかけられたのだ。
何も後ろめたいことはないはずなのに、私はひどく動揺してしまった。突然の質問に心臓が強く脈打ち、理由もなく視線はあちこちを彷徨い、口からは何の言葉も出ない。冷や汗が頬を伝うばかりで、そんな様子を見た警察官が怪しむのも無理はなかっただろう。彼の目には、子攫いにでも映ったのかもしれない。
警察官にいくつかの質問をぶつけられ、返答に窮している父親の姿を、九十九は静かに見つめていた。彼女の幼い瞳には、一体どんな風に映っていたのだろう。その答えは今となってもわからないが、九十九は事態を見守るだけでは終わらせなかった。
彼女はそっと私の手を取ると「父です」と冷静に一言告げた。拙い言葉遣いの中には、確かな落ち着きと力強さがあり、幼いながらも娘は状況を淡々と説明して、場を収めてくれた。
その間、私は沈黙し、ひたすら羞恥に耐えていた。まだ年端もいかない娘に助けられる父親! ああ、滑稽!
以上のことを踏まえれば、もし何かあったとしても、おそらく九十九は私を助けてくれるのだろう。この人は不審者ではなく、父親なのだと警察官に説明してくれるはず。だが、その言葉は真実性を持ちうるのだろうか?
私と彼女が並んでいる姿は、どう見たって親子に見えない。明らかに別種の生き物だからである。九十九がいくら父親だと説明したところで、脅迫されて、無理強いされているのではないかと疑われるに決まっている。いや、それでも、九十九ならうまく切り抜けてくれるのだろう……その間、私はどうしているのか? 黙って羞恥に耐えているというわけか! ああ、滑稽! 滑稽!
九十九が私を助けるのは、決して親愛からではない。これがまだ自分には必要だから助けるのだ。
いずれ彼女が成長し、ひとりで生きていくに足る年齢に達し、自立のための諸能力を手に入れてしまえば、こんな薄汚れた軛など破壊して、すぐに飛び立ってしまうに違いない。かつては頼っていたことすら、何の痕跡も残さずに消えてしまうのだろう。
そう想像しただけで、胸の奥から奇妙な吐き気がこみ上げ、こらえようのない苛立ちが私を襲った。まるで毒を飲み込んだように、思考がぐるぐると渦を巻き、いつしか心は自らの幻影に絡み取られてゆく。
九十九が冷ややかに私を見つめるさまを思い描くたび、理不尽な怒りが膨れ上がる。まるで自家中毒に陥ったかのように、意識が次第に濁っていく。
ふと、我に返ると、私はいつの間にか足を止めていた。
九十九はとうに先に進み、私の前から姿を消しているはずだと思ったが、遠く離れた街灯の下で、じっとこちらの様子を窺っていた。
街灯の冷たい光が彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていて、その姿はまるで一枚の絵画のように際立っていた。静謐な光に包まれた九十九の姿は、この世のものとは思えず、まるで異次元の境界から私を見下ろしているかのようにすら感じられた。
どうして彼女は足を止め、こちらを見つめているのだろう。決して私を心配しているからではない。では、監視しているのか? もしそうなら、何のために?
彼女の冷たい視線の意味を私は理解できず、全身に薄寒い感覚が走った。
嗚呼、それにしても、あの瞳……妻にそっくりの切れ長の瞳。なんて攻撃的な瞳なのだろう……あれはきっと、私を苦しませるためだけに産み落とされた武器なのだ……。
私は九十九の姿を視界から外すようにして歩き出した。芋蟲のような、もぞもぞとした奇妙な歩き方で。
その間も、前方からの冷たい視線が私を射抜き続け、決して途切れることはなかった。