第一話
「あなたはまるで芋蟲のようね」
妻は、よく私のことを芋蟲にたとえた。
深緑色で、白い産毛の生えた、ぶよぶよと肉付いた身体で、もぞもぞと湿った地面を這う芋蟲。誰もが生理的嫌悪感を抱くであろう、華美な点など一切ない、あらゆる醜悪さを煮詰めたような芋蟲。
それが、私なのだと語った。
その声色には、全く好意的な響きは含まれていない。瞳には暗く淀んだ憎悪と、倦みつかれた諦念があり、時折、コールタールのようにてらてらと怪しく光っている。それは決して涙ではなく、抑えきれぬ情念が零れ出たものだった。
まるで、生存する見込みがほとんど消え失せた末期重篤者だな、と思った。
これから先、自分の人生には何一つ明るいものはないのだという現実をはっきり直視したものだけが持つ、真綿で首を締めるよう絶望。
当然、その絶望は私も所有していたので、妻の心情は嫌というほど理解できたが、憐れみなどは一切感じない。感じるのは、強制的に拷問の記録映像を鑑賞させられているような胸糞の悪さだけであった。
「……知っているかしら? 人類には、蟲に対する嫌悪感というものが遺伝子レベルで刻まれているらしいわよ……たしか学生時代に読んだガラクタ論文だったかと思うけど……あながち根拠薄弱とも言い切れないわね」
彼女は私を痛罵する時、決まって痙攣を起こしたような、ひきつった笑いを漏らした。
私のみならず、誰が見ても不快に感じる顔と声であったが、それでも妻の美貌が損なわれずにいるのは不思議だった。あらゆるマイナス要素で彼女の美を削ぎ落したところで、その輝きは失われることなく、一定の水準を保っていた。私とは正反対だな、と妙に感心したものだ。
「つまり……つまりよ」
妻が、何か決定的な一言を吐き出そうしているのに気付いた。
今から、それを伝えるのが楽しみで仕方がないといった様子で、その時ばかりは、いつもの血色の悪い病人顔ではなく、童女のような若々しい赤ら顔に変わっていた。
彼女は、私を攻撃することによって辛うじて生き長らえているのだ。
そうしなければ、この辛い現実に耐えることができない。いつまで経っても明かりの灯らない道に気が滅入り、自ら死を選ぶしかなくなってしまう……。
しかし、プライドの高い妻は、そんな選択肢は目にも入れないだろう。換言すれば、私が原因で死ぬことになるのだ。その屈辱に甘んじるくらいならば、否が応でも生を選び取るに決まっている。
だが……。
逆説的には、私の存在によって生を選び取らざるを得ないとも言えた。つまりは、私が生きる理由になっている。どちらを選択しようとも、私に束縛されている状況は、何一つとして変わらない。
——芋蟲に縛られた人生とは、如何様なものか。
妻は、承知しているだろう。だが、それ以上に疲れているのだ。
蟲籠の中に入れられたばかりの頃の苛烈さが、今ではすっかり鳴りを潜めてしまったのが、何よりの証拠だ。
けれど、本当は、彼女は、私を……。
「あなたは……」
濁り切った川底のような黒い瞳が、私を射抜く。逸してしまえばいいと理性では理解していたが、私はあえて無防備に、その全てを受け止めきった。
そして彼女は、主文を言い渡す裁判官の如く、厳かな雰囲気を纏い、囁くように告げる。
「あなたは一生、誰にも愛されない」
列車同士がすれ違う一時的な轟音。
その音に肩を叩かれて、私は空想の世界から抜け出した。
すでに夜を迎え入れた車窓は、高速で流れる街並みではなく、室内灯に照らされた私自身を映し出していた。
そこには、絵に描いたような醜男が立っている。
詳細は割愛するが、誰もが厭わしさを覚えるような、酸鼻を極める風貌。視界に入った瞬間、慌ててその場から逃げ出すか、もしくは即座に踏み潰してしまうような芋蟲的人間。
直視に耐えられず、思わず視線を下げた。
自分の顔を焼き切ってしまいたい、と何度思ったかわからない。かえって、原型がなくなるまでに崩してしまえば、今よりもマシになると錯覚し、震える手で熱したスプーンを持った日々を回顧する。
人類は蟲を嫌悪していると喝破した妻は正しい。
巨大な蟲へと姿を変えたグレゴール・ザムザが、家族からどのような扱いを受けたかはよく知られている。蟲という存在は、誰からも愛されることはないのだ……いや、それどころか息絶えてしまった方が、かえって周囲の人々は希望を持てたではないか……ならば……。
「……落ち着け」
誰にも聞かれないよう、口だけで呟く。
あの日の無情な宣告がフラッシュバックしたせいで、明らかに精神が不安定になっていた。
不意に、妻のことを思い出したのは何故なのか。命日が近づいているからか? 嗚呼、どうして、私は彼女の死んだ日付なんかを覚えているのだろう! 普段は、そんなこと脳裏にもよぎらないくせに……なぜ、今……。
妻との想い出には、錆びた鉄のような苦しみしかなかった。ならば、わざわざ記憶のビデオテープを引っ張り出す道理はないはず。現に、私の心にはどす黒い液体が注がれ始めており、ずしんとした重力を持ち始めていた。
精神を揺さぶる要素は、それだけではなかった。
この奴隷船の如き車両もそうだった。今日は、珍しく早い時間に退社できたというのに、人、人、人、人、人。終電間際の人気の少ない車両に慣れきっていたせいか、混雑への耐性が薄れている。快適さを捨て、ただ運搬することだけを目的とした鉄道は、私の脆弱な神経を逆撫でした。
車両の上部に備え付けられた冷房の送風は弱々しく、かえって熱気をまぜっかえす役割を果たしている。
額に、じんわりと汗が浮かぶのがわかった。ハンカチで拭いたかったが、両手はつり革と鞄で塞がっている。
私のそばに立つスーツ姿の女性が、不愉快そうにこちらを一瞥した。暗に、体に触れるなという警告か。私は無害であることを示すために、ほとんど意味のない笑みを向け、電車の振動で体勢を崩さぬよう自身の重心を意識する。
……なぜ、そのような配慮をせねばならぬのだ。
無意識にとってしまった下人のような振る舞いに気づき、怒りを覚えたものの、態度自体は変えられずにいた。威嚇のための、ハリボテの攻撃性すら垣間見せる勇気がない。そんな自分が嫌になる。見下されることに慣れてしまったのは、私の芋蟲的性質によるものなのか……。
女性のいる左側に意識を集中していたせいか、電車が急停止した時、私の体は逆方向に揺さぶられることとなった。
そこに立っていた人影に、思い切り体をゆだねてしまう。衣服越しに伝わる、その柔らかい感触にひやりと心臓が縮み上がった。
「すいません」
咄嗟に、ささやくような謝罪をする。故意ではない、やましい気持ちは何もない。そう表明せねば、私のような芋蟲的人間は、邪推される宿命にある。
そして、体を離すと同時に視線をやると、目に入るのは白を基調とした学生服。世間的に名の知れた、都内の名門女学校の制服であった。
見知ったものを目にしたせいか、するべきではないと自覚しつつも、おずおずと視線を上げてしまう。
胸元の紺色のタイから、細く伸びる白い首元へ、そして、黒々とした切れ長の瞳に辿り着いた時、私は思わず不明瞭なうめき声をあげてしまった。
そこに立っていたのは、見目麗しい女学生であった。
長く垂らした黒髪は艶々とした光沢を放ち、目、鼻、口などのパーツが如才なく配置されている。まるで、神がピンセットで精巧に位置づけたかの如く、不揃いな点がない完璧な顔立ちであった。
そして、容姿以上に異彩を放っていたのは、纏っている雰囲気だ。
こんな満員電車などではなく、高級車で送迎されている姿が似つかわしい、独特の気品と風格があった。その地点からはほど遠い一般の世界に生きる者であったとしても、一瞬で名家の生まれだと勘づくことのできる高貴な佇まい。
実際、彼女はこの車両の中ではやや浮いている存在であったようで、皆、無意識にそうしているのか、満員状態にもかかわらず、彼女の周りは少しだけ空間に余裕があった。
「——停止信号を確認したため、車両を停止いたします」
頭上から流れるアナウンスは、ほとんど耳に入らなかった。
車内の雑音は急速に遠のいていき、無音の世界の中、しばらく女学生と見つめ合っていた。
単に目鼻立ちが整っているだけの人間ならば、掃いて捨てるほどありふれているだろう。たしかに稀少ではあるが、それだけで祭り上げられることはない。
けれど、こと品格においてはそうはいかない。積み重ねた経験によって、ある程度は身につけられるかもしれないが、それ以上に血統の割合が大きいからだ。残酷なまでに生来のものであるがゆえに、多くの者の目を惹くことになり、同時に羨望の的となり得る。
「…………」
長く、交差していた視線をようやく下げる。
私は謝罪をしたことを後悔した。
取るに足らない、呼吸のような謝罪であったが、自分の肺のうちに戻してしまいたいと切に願った。
無意識に、短い舌打ちを鳴らす。
「——長らくお待たせいたしました。運転を再開いたします」
車掌の気だるげなアナウンスの後、電車は鈍く動き始める。
私はその鉄箱の中で、右側の違和感に歯ぎしりしつつ、目的地まで耐える他なかった。
最寄り駅のホームに着き、自動ドアが開くと、大量の人が雪崩れ込むように降り立っていく。その波にまで気を配っていなかったせいで、私は固いコンクリートの上に弾き出されることとなった。たたらを踏み、ようやく停止する。
チープな電子音の後、背後で車両が出発し、周囲から徐々に人が減っていく。
人気のなくなった駅のホームの中で、再度、右側に人の気配。
先ほどの女学生が、隣に立っていた。
彼女は、そのまま改札口に向かうでもなく、じっと、こちらをうかがっている。
私は気付かないフリをして、ひとり改札口に向かおうと靴先の方向を変える。
「今日は、早いのですね」
声をかけられるとは思っていなかったので、つい反射的に、もう一度、女学生の顔を見てしまう。
その顔は——異様なほど亡き妻に酷似していた。
「父さん」
感情のない無機質な声で、私を呼んだ。