プロローグ
これは2023年の8月に経験した自分の夏の記憶である。全てをはっきりと覚えているわけではないが、濃密だったとは言えるだろう。忘れる前に書き記しておくことにする。
記憶が確かであれば、大学のテストが終わった日だったと思う。その日、自分は大学構内で先輩たちと麻雀を打っていた。麻雀といっても賭博は行っていない。スコアは記録しているが、目的は楽しむためであった。
先輩と言っても学年が上ということである。僕は大学1年生であるが、1浪しているので、年齢という目線で見れば必ずしも先輩とは言えないかもしれない。先輩からは色々な話が聞ける。たわいもない雑談をしながら麻雀を打っていると、気付いたら20時になっていた。麻雀はそのまま解散となり、自分は家まで戻っているところだった。
真夏だったので非常に暑かった。夜にもかかわらず、汗を大量にかいていたのを覚えている。家まではせいぜい数百メートルだが、それでも汗をかくほど僕は夏に弱い。
そして、はっきりとは覚えていないのだが、家まで残り100メートルくらいといったところだろうかのところで、暗い道で足元の段差に気づかず転んでしまった。自分はバランスを取ろうとするが、労力虚しく目の前が暗くなっていくのがわかった。まるで毎年夏恒例の貧血/立ちくらみの症状が重なっているようだった。しかし、視界が明るくなることはなかった。
体が浮くような感覚が身を襲う。浮いたままどこかに流されるような感覚だ。もちろん比喩的なものであり物理的に浮いているわけではない。しかし、自分はなぜか戻れないのではないかという恐怖を抱いていた。ただ、なぜか痛みは感じていなかった。
どれほどの時間が立ったか分からないが、自分は目が開かないことに気がついた。ただ立っている感覚はある。目が開かないが、それを怖いとも感じていない。金縛りのような感覚だったと思う。
どこからともなく声が聞こえるような気がするがはっきりとは聞こえない。耳に水が詰まったような感覚だった。その後明瞭に声が聞こえてきたが、知らない言葉だった。
数分後、目が開くようになると、自分は知らない部屋にいることに気がついた。そこそこ広い部屋だった。
「ん……? ここはどこなんだ?」
目を覚ますと、僕は知らない場所にいることに気が付いた。学校の教室ほどの広さの部屋であり、窓はないがドアがある。ドアを開けてようとしてみたが鍵がかかっていて開かなかった。部屋には何も置いてないが、壁や天井・床は存在し、蛍光灯が6本設置されている。どういうわけか、閉塞感といった不安や拘束感といった感情は湧き上がってこなかった。
自分がどうしてここにいるのかについての記憶は一切ない。何もできずに立ち止まっていると、どこからともなく声のようなものが聞こえてきた。優しそうな女性の声だった。
「ここから、あなたには次の世界で生きのびてもらいます。指示されることを完遂してください」
僕は彼女(?)が何を言っているのか、一瞬分からなかった。数秒後に意味は理解したが、僕は不思議な感覚に包まれた。「悲劇」「未練」という、喜怒哀楽の「哀」に相当する部分の感情を、「狼狽」という2文字が上書きしたかのような感覚だ。そんな状況の中、謎の声はまた話し始めた。
僕の頭は「?」という想いで埋め尽くされた。しかし、この部屋の中では何故か、「反抗しても無駄だ」という謎の理性だけが働いた。元の世界に戻れるのならば、多少困難な指示でも受け入れる・やりとげるという決意が、僕の中では確立していた。
「30秒後、あなたは別の世界に移動します」
明らかに異様な状況にもかかわらず、反抗はできなかった。しても意味ないと思っていたのかもしれない。少なくとも、僕の中では、「おかしなことが起こっている」ということは頭ではわかっていたが、それに対する不安や嫌悪感・恐怖といった感情はどういうわけか存在していなかった。
「それでは、無責任ですが頑張ってください」
ここでするべきだったことは、「誰ですか?」と聞くことだろう。ようやくその思考を取り戻した僕は、女性に対して、あなたは誰なのですか、と聞いてみた。しかし、返事はなかった。
数秒後、再び立ち眩みのような感覚が僕を襲い、僕はその場に倒れ込んでしまった。