彼女が僕を捨てたワケ!?
日常を舞台にしたショートショートです。
それは彼女の一目惚れだったようだ。
春の夕暮れ時、都内のとある百貨店内にあるテナントショップでの出来事だ。
彼女は大きめの瞳を輝かせながら、脇目も触れずに僕に向かって真っすぐに近づいてきた。
仕事帰りなのだろうか、白いブラウスとグレーのタイトスカートというOL風の服装に身を包み、黒く長い髪をたなびかせながら僕の前で立ち止まった。そして間髪入れずに僕に顔を近づけてくると、突然僕の耳元でこのように囁いた。
「今日から一緒住んでくれないかしら」と。
僕は意味が分からずにキョトンとしていたが、彼女の顔は真剣そのものだった。
僕は彼女の顔を改めてマジマジと見た。とても可愛い。正直に言って僕のタイプだ。でも何故僕に声をかけたのか頭の中は疑問だらけだ。僕は即答できずに沈黙していると、彼女は続けてこう言った。
「三食、お昼寝つきよ。それにね、一日中、あなたの好きに過ごしていいのよ」
その後僕は、半場強制的に彼女の家に連れて行かれた。
逆ナンもここまで強引だと何も言えなくなる。
しかし僕には断る理由がなかった。恥ずかしながら僕は生まれてこのかた仕事などしたことがなく、無職だ。そんな僕を彼女は、3食昼寝付きの待遇で家に住まわせてくれるというのだ。こんなに嬉しいことはない。
彼女の家は、百貨店からほど近い都内のマンションの一室だった。玄関を入ると右手にトイレとバスルームが並び、左手に簡易的なキッチンが備え付けてある。その奥に6畳程度のフローリングの部屋があった。標準的なワンルームタイプだ。
彼女は部屋に入ると「少し待っていてね」と言い、僕を部屋の片隅に案内するとテレビをつけた。
部屋にはピンク基調の掛布団と枕が印象的なシングルベッドが1台、そして中央に小さな丸テーブルが置いてある。白い壁には、今ちょうどテレビで歌っている男性アイドルユニットのポスターが数枚貼り付けられていた。
僕は初めて入る女性部屋をキョロキョロと見まわす。嬉しさの反面、やはりちょっと落ち着かない気分だ。しかし、そんな僕とは裏腹に、彼女はベッド脇にあるクローゼットを開け、ブラウスのボタンに手をかけると、何の躊躇も恥じらいもなく外しはじめた。
思わず顔を背ける僕。
そんな僕をよそ眼に彼女はスカートを下ろし下着姿になると、ベッドの上に畳んであった淡いレモン色のスウェットに手を伸ばし、手際よく着替え終えた。可愛らしい見かけによらず、堂々とした性格らしい。
部屋着に着替え終えた彼女は、その場で立ったままフーと一息つく。一日の疲れが、まるでその吐き出した息に集約されているようだった。
そして続けざまに僕の方に近寄ると、「お待たせっ!」と僕を抱きかかえた。
香水の香りだろうか、はたまた彼女の匂いなのだろうか。今まで僕がいた場所には決してなかった良いにおいがする。まるで香りに抱かれているみたいだ。
そんな夢見心地な僕に、彼女は頬ずりしてきた。「えっ!」と思うのも束の間、嫌な気はしない。
僕は彼女のなすがままにされるだけだった。
次の日、ピピピッと鳴る目覚まし音と共に目を覚ました彼女は、僕に朝の挨拶をすると、直ぐに飲み物と食事を用意してくれた。
彼女自身も身支度をしながら、片手間に朝食の食パンを頬張っている。そして化粧を済ますと、僕をベランダに連れ出し、こう言った。
「今日は小春日和なんだって。天気がいいからベランダで日向ぼっこしながら過ごしてみたら?」
確かに外は暖かなそよ風が吹く、この春一番の過ごしやすそうな気候だった。
僕をベランダに連れ出すと、彼女は「いけない、遅刻しちゃう。悪いけど、夕方帰るまでテキトーに過ごしてね。ご飯は用意しといたから」と言って、足早に家を出て行ってしまった。
なんと慌ただしい人なのだろう。もう少し余裕をもって起きればいいのに……。
5階に住む彼女のベランダから見える景色は、正直に言って殺風景だった。見渡す限りコンクリートのビルばかり。遠くにとてつもなく高い、塔のようなものも見えるが、この時期に開花し始める花どころか、木の一本も見当たらない。
空を見上げるとハトもスズメも飛んでいない。たまにカラスの黒い影が青空を素通りするくらいだった。
そのような無着色の景色を見ていたら、ついウトウトと瞼が重くなり、僕はいつの間にか眠り込んでしまった。
気が付くと太陽は限りなく西に傾き、空には一番星が微かに輝き始めていた。
思えば今日一日、彼女が用意してくれたご飯を食べた以外に何もしていない。何をしているのだろうと自己嫌悪する僕。そう反省している僕の耳に、ガチャッとカギが回る音が飛び込んできた。
彼女が帰ってきたのだ。
彼女は扉を開けると、玄関先に荷物をまき散らし、一目散に僕のいるベランダに駆け寄り、「寂しかった、ごめんね」と抱き着いてきた。
その後、彼女は昨日のように室内着に着替え終えると、コンビニで買ってきた弁当とカクテルサワーを丸テーブルに広げ、その日の勤務中にあった出来事を僕に話し始めた。
彼女の話からすると、彼女は大手企業の総務部で働いているようだ。仕事は定時に終わるので不満はないようだが、男性上司の下品な下ネタと、古株女性社員の社則にないしきたりについていけずストレスならしい。
しかし、会社勤めなどしたことがない僕には、何もできないどころか、アドバイスさえできない。彼女の愚痴を黙って聞いているだけだ。でも彼女が僕に求めるのは何もなく、聞いてくれさえいれば良いというのだ。
まぁ、彼女がそれで良いというのなら良いのだが、ちょっと歯がゆいものがあるのは否めない。このような日々がほぼ毎日続いた。
そうそう、ここで一つ訂正がある。先ほど彼女が僕に求めるのは何もないと言ったが、実は一つだけ彼女が僕に願うものがあるらしい。それは「歌」だ。
僕にうまく歌を歌って欲しいというのだが、僕は歌がそれほど上手くない。
しかし彼女が僕に求める唯一のモノだけに、僕もその願いに応えようと必死だ。今はあまり上手く歌えないが、来年までには上達できるように僕は日々ベランダで練習するのだった。
ある日、いつものようにお留守番がてらベランダで歌っていると、ニャーという声が聞こえてきた。ふっと、声の方に目をやると、隣のベランダの防火扉の隙間から白黒模様の小さな猫がこちらのベランダをのぞき込んでいる。どうやら、隣人が飼っている猫のようだ。
子猫は必死にこちらのベランダに来ようと小さな手だけを伸ばしているが、なにぶんにも隙間が狭くて通れないでいるようだ。
その様子を見て、僕はホッとした。実は僕は猫が苦手なのだ。
鳴き声が聞こえ、隙間から手が伸びるたびに僕は「こちらに来ませんように」と祈る。その甲斐あってか、子猫は一度もこちらに来ることはなかった。
このような彼女と僕の平穏な日々がしばらく続いていたが、穏やかな後には波風がつきものである。そしてその日はついに僕の真後ろまで近づいていたのだった。
清々しい初秋のそよ風が漂う日曜日の午後、彼女の友人らしき女性が部屋を訪ねてきた。どうやら彼女が招いたらしい。友人さんは丸テーブルの脇に座ると、お土産のお菓子を広げながら僕の方をチラッと見た。
「この子があなたの新しい彼氏ね」
「やだ、彼氏だなんて。同居人よ、ただの同居人」
友人さんのストレートな物言いに彼女ははにかみながら答えた。
「じゃあ、私がもらっちゃおうかなぁ」
「それは駄目! 絶対、あげないから」
茶目っ気ある友人さんのからかい言葉に、彼女も応戦する。何気ない流れから話のネタになっていた僕は、恥ずかしさのあまり身を丸めた。
その後は話題が変わり、僕の存在などないかのような他愛のない女子トークが延々と続いた。
夕方が近づくと、彼女は女子トークの隙間を狙って友人さんに「お願いがあるの」と切り出した。というのも、どうやら彼女が友人さんを招いたのは、そのお願い事をするためだったらしい。
「実はね、明日出張頼まれちゃってさ、1日だけ彼、預かってくれないかな? 独り暮らしの友人って、あなたしかいなくてさ」
この話に一番驚いたのは僕だった。もちろん明日から出張に行くという点ではない。こともあろうに独り暮らしの女性に僕を頼むって言うことの方だ。友人さんだって初対面の僕を家に招き入れるなんて、あり得ないだろう。ところが友人さんから返された言葉は、僕の予想を超えていた。
「いいよ。私も最近彼氏と別れたばかりで、家の中寂しかったんだよね。ってか、一日と言わず、ずっと引き取ってもいいけど」
「だから、それはNGだって!」
その後、僕は強制的に友人さんに連行されてしまった。
友人さんの家は電車で二駅足らずの近さだった。僕と友人さんは道中全く無言だったが、家の中に 入り一息つくと友人さんは、突然僕を抱きしめ「本当にかわいい!」と頬ずりし始めた。
未だに事の顛末が分からない僕。『何故、僕は友人さん宅にいるのだろう』『彼女は僕のことをどう思っているのだろう』と、いろいろ疑問が脳内を駆け巡るものの、結局答えは分からず、僕は友人さん宅で一夜を明かした。
翌々日の夜、出張帰りの彼女が友人さん宅を訪ねてきた。友人さんは僕と別れたくないと駄々を捏ねたが、彼女は「これ、お礼ね」とお土産を差し出すと、友人さんはあっさりと僕を彼女に引き渡した。
女性免疫の少ない僕には、女性の心がさらに理解できなくなっていく衝撃的な一日だった。
それから一年余りが過ぎ、僕と彼女の2度目の秋が訪れる頃、僕にとって最大の試練が突然やってきた。なんと彼女が男性を連れて来たのだ。
スラっと高い身長、スーツ姿がビシッと決まったいかにも好青年タイプの男性だ。年も彼女と近くみえる。勤務帰りに直接来たということは、きっと会社の同僚なのだろう。
青年は初めて入る彼女の部屋を見回す。まぁ、僕も初めて来たときは同じ行動をとったものだが、その時とは状況が違うと思う。なぜなら『僕』という存在がこの部屋にあるからだ。もちろんその青年も見まわしている途中に僕と目が合った。しかし、ニコッと笑みを浮かべるだけで、まるで僕を無視するかのように丸テーブルの横に座り込んだ。
あの笑みは何なのだろう。敵対心はなさそうだ。どちらかというと暖かな眼差しに見えなくもない。
憐み? 僕に憐れんでいるのか! まぁ、それもそうかもしれない。
なぜなら僕と青年では比べ物にならないいからだ。何せ僕は無職の居候。対して青年は見るからに仕事ができそうな若者。それは何気ない動作からも感じ取れるほどだった。
気が気でない僕に構うことなく、お茶を差し出す彼女。青年はそのお茶に口をつけると、彼女に問いかけた。
「名前はなんていうの?」
青年は僕の方をチラッと見る。しかし、何故だか直ぐに僕を紹介しない彼女。
躊躇する彼女に青年は続けざまに言った。
「ちょっと、挨拶したくてさ。君の彼氏として」
その後のことはあまりよく覚えていない。まぁ、部屋に連れて来た時から、分かってはいたことだが、やはり言葉にされると衝撃的で強烈な一言だった。
たぶん僕は心の底で彼女の大切な何かだと思っていたのかもしれない。でもそれは思い上がりだった。彼女にとって大切な何かは今目の前にあるのだ。
青年は彼女の手料理を食べ終えると「明日は早いからまた来るよ」と言って、早々に帰って行った。
青年が帰った後の部屋の中は普段にないくらい静かで、食べ終えた食器を洗う彼女の水作業の音だけが響いていた。
洗い物を終えると彼女は僕に僕に近づき、耳元で囁いた。
「突然彼を連れてきて不機嫌になっちゃったかな? お詫びに明日、あなたにも新しい彼女連れてきてあげるから許して」
彼女が何を言っているのか理解ではない僕。
彼女って、以前僕を取り合った友人さんのことだろうか。僕はこれから友人さん宅に引っ越すのだろうか。居候の身としては拒否できる身分でないことは確かだった。僕は彼女に捨てられたのだ。
しかし、次の日曜日、彼女は本当にその言葉を実行した。朝早く出て行ったかと思うと、僕と彼女が初めて出会った百貨店の手提げ袋を携えて帰宅した。紙袋の中身を取り出しつつ、彼女は満面の笑みを浮かべて話しかけてきた。
「ピーちゃん、どう可愛いでしょ。あなたと同じ、真っ白い羽の文鳥の女の子よ。これから二人で仲良くしてね」