アイテムボックス
昔々、ある異世界に、日本から転生してきた男がいました。
生まれ変わりのとき、女神様から無敵の力を1つだけ貰えることになりました。
女神様はお薦めの能力についてあれこれ説明しようとしましたが、男は長い話が嫌いだったので、女神様の話を早々《そうそう》に遮って、
「アイテムボックスが良いです!」
と叫びました。
アイテムボックスというのは、男が慣れ親しんでいたインターネット小説によく出てくる言葉で、男は「チート」な「魔法」や「スキル」の中ではこれが「最強」だと思っていました。
とはいえ、広辞苑に載っているような一般的な日本語ではありません。当然、誰かがきちんと定義した言葉ではありません。
女神様は男に、
「アイテムボックスと言われても意味が定かではありませんから、あなたなりに定義してください」
とおっしゃいました。
そこで、男は言いました。
「アイテムボックスというのは、無限に物を収納できて、その中では時間が止まっている異空間のことです」
女神様は少し待ってから、
「『無限に物を収納できて、その中では時間が止まっている異空間』ですか。私が与えられる無敵の力はたった1つだけですが、本当にそんなもので良いのですか?」
と確認しました。
男は自分の説明は過不足のないものだと思っていたので、「はい、お願いします!」と答えました。
こうして、男はアイテムボックスを手に入れて、異世界に生まれ変わることになりました。
はっと気が付くと、男は17歳の、細身ながら筋肉質な青年の体で、日本で亡くなったときに着ていたカジュアルな私服を着て、中世ヨーロッパ風の畑が広がる田舎の道の上に立っていました。
「おっ、本当に異世界に来たみたいだぞ!」
男は無邪気に喜びました。
胸ポケットに重い感触があったので、中の物を取り出してみると、巾着袋でした。
その中身を手の上に広げてみると、手から零れそうな数の貨幣が、ジャラジャラと出てきました。
数えてみると、金貨が2枚、銀貨が5枚、銅貨が15枚でした。
この貨幣は、この異世界の住民が女神様の神殿にお賽銭として奉納したものを、女神様が男に持たせてくれたのでした。
男は女神様と会ったときは半信半疑でしたが、どうやら本当に異世界に転生したようだと確信して、大いに喜びました。
女神様との話し合いが本当だったということは、自分はアイテムボックスを手に入れたはずだ。
男はそう思って、試しに15枚の銅貨をアイテムボックスに「収納」してみることにしました。
すると、男が念じただけで、15枚の銅貨がパッと消えました。
男は再び念じて、銅貨を取り出そうとしました。
しかし、なかなか銅貨が現れません。
何分もうんうん唸りましたが、何も起きないので、男は何かおかしいと認めざるを得なくなりました。
よく考えてみると、男はアイテムボックスのことを「無限に物を収納できて、その中では時間が止まっている異空間」と定義しました。
そうです、収納できるものだとだけ定義して、「いつでも好きな時に取り出せる」ものとは定義しなかったのです。
15枚の銅貨はどうやら、時間が止まった異空間に、永遠に消え去ってしまったようです。
「使えねぇ能力だなぁ!! ていうか、あの女神が使えねぇよ!!」
と、男は声高に悪態を吐きました。
しかし、男がイメージしたインターネット小説のアイテムボックスの仕組みがそもそも破綻している上に、男の定義が不充分だっただけで、女神様は何も間違っていません。
21世紀の物理学に照らし合わせたとき、「無限に物を収納できて、その中では時間が止まっている異空間」に最も近いのは、一般的にブラックホール、ないし特異点と呼ばれるものです。
ブラックホール、ないし特異点は、強すぎる重力のせいで「時間が凍る」ほど時空間の歪みが大きい場であり、そこに「収納」した物を再び取り出すということは、普通想定されないのでした。
15枚の銅貨は消えてしまいましたが、男にはまだ金貨2枚と銀貨5枚が残っています。
男は気を取り直し、金貨と銀貨を巾着袋に入れて、遠くの方に見える村に歩いていきました。
村に行くと、薪を売り歩いているらしい老人とすれ違いましたが、男は老人の言葉を聞いて驚きました。
理解できないのです。
日本語ではなく、男が全く知らない言語を話しています。男の耳には、奇声を上げているようにしか聞こえません。
「そうか、言語理解のスキルは貰っていないから……」
男は力なく呟きましたが、悔やんだところで後の祭り。
男はこれから異世界の言語をイチから学んでいかなければならないことを悟って、憂鬱になりました。
でも、金はあるんだ。
相場は分からないけれど、金貨と銀貨があるのだから、それなりの買い物ができるはずだ。
そう思いながら歩いていくと、露店が並んでいる商店街のような場所を見つけました。
汚らしい物乞いがすがりついてくるのを冷たく振り払って、男はパン屋の露店に行きました。
パン屋は男を見て何か捲し立てましたが、やはり男にはさっぱり分かりません。
そのため、男は日本のアンパンに似た形のパンを指差し、巾着袋を振ってみせました。
パン屋が手を出したので、男はひとまず銀貨を1枚乗せました。
すると、パン屋は銀貨をポケットにしまい、もう一度手を出しました。
「え、足りないの?」
思わず男は呟きました。
パン屋が異世界の言葉で、何か答えました。
言葉の調子が強いように感じたこともあり、男はパン屋の手にさらに銀貨を乗せました。
すると、パン屋は再びその銀貨をポケットにしまい、もう一度手を出しました。
なるほど、この世界の銀貨は100円玉くらいの価値しかなくて、このパンは1つ200円以上するのだろうな。
と男は思いました。
値段が分からないパンを買うのは、何だかぼったくられている気分でしたが、異世界に放り出された今、どこかで食べ物を買わないわけにもいきません。
そこで男は、巾着袋の中身を全部手の上に出して、パン屋に差し出して言いました。
「ほら、必要なだけ取ればいいさ」
男が言い終わらない内に、パン屋は男の手からお金を全部、奪うようにして取り上げ、自分のポケットに入れました。
それから、何事もなかったかのように、男に向かって三度手を出しました。
「おい、どういうことだ!」
男はぼったくられていることを確信して抗議しました。
ですが、パン屋はしかめっ面をして、男よりもずっと大きな声で何か喚き始めました。
もしかして、自分がそう思い込んでいただけで、銀貨だけでなく金貨もそんなに価値のあるものではなかったのだろうか、と男は心配になりました。
銅貨、銀貨、金貨があるのに、金貨1枚で1つのパンも買えないのは変な話に思えますが、飢饉か何かの事情でパンが値上がりしているのかもしれません。
あるいは、男の巾着袋に入っていた金貨に価値がないだけで、この国ではもっと大きくて純度の高い金貨の方が一般的なのかもしれません。
男は仕方なく、抗議を引っ込めることにしました。
男のお金はすでにパン屋のポケットですから、パンの1つくらいは貰ってもいいだろうと思い、男はアンパンに似たパンを手に取りましたが、パン屋は大声を出し、先ほど以上の勢いで手を出します。
「何だよ、そんな高いパン買えねぇよ! パン売らないなら金返せよ!」
男は叫びましたが、当然、異世界人に通じるはずもありません。
パン屋はさらに吠えます。
商店街の他の人々が寄ってきますが、みんなパン屋の言葉を鵜呑みにするようで、男への攻撃に加わります。
異世界の言葉で怒鳴られ、唾を飛ばされ、何人もの男たちに取り囲まれて、パンを掴んでもすぐに奪い取られ、どさくさに紛れて服まで盗られそうになって、転生者の男はすっかり嫌になりました。
ついに、パンを1つも手に入れられないまま、パン屋を後にしました。
するとその直後、パン屋とその周りの人間たちが、勝ち誇ったような笑顔になって、晴れやかな声を出しました。
男は腹が立って腹が立って仕方がありません。
憎たらしいパン屋のパンをすべてアイテムボックスに「収納」してやろうかと思いました。
いや、ただパンを「収納」するだけじゃつまらない。あいつら自身を異空間に「収納」してやったらどうだろうか。
もちろん、取り出し方が分からない異空間に人間を「収納」するのはその人を殺すのに等しいこと、そして、いくらぼったくられたからと言って相手を殺すのはやりすぎだということは、男にも分かっていました。
ですが、パン屋と商店街の人々が上げる歓声が1秒ごとに耳を打つのが、男には苦痛でなりませんでした。
土の道を歩いていた男がふと顔を上げると、さっきまで商店街があり、悪徳パン屋と村人たちが群がっていた場所には、ただただ広い空き地が広がっていました。
パン屋も、商店街の人々も、パンも、商品棚も、露店も、何もかもが消え去り、人々が往来した足跡だけが残されていました。
男は怖くなって、走り出しました。
とにかく人がいない所へ、人が住んでいそうにない所へ、人と出会いそうにない所へ……。
男の異世界生活は、まだ始まったばかりでした。
<アイテムボックス、完>