3. 氷のような男
シャルロッテは嫌々ながらも、男に従わざるを得なかった。
どんなに自分が聖女ではないと言葉を尽くしても、男は頑なに聞き入れてくれない。
これ以上逆らえば、再び自分に剣を向けてくるかもしれない。
シャルロッテは恐怖に怯えながら、ちらりと馬を走らせている男を見た。
王都を離れて国境近くへ向かう為には必要だと言って、男は馬を用意していた。その馬にシャルロッテと同乗して、男は周囲を窺いながら手綱を操っていた。
「どうしてわざわざ国境へ行くの? 王都の近くからではだめなの?」
国を癒すのであれば近場から始めてはどうなのかと尋ねるシャルロッテに、男は無言で視線を落とした。
前日に処刑された王族の首は城壁の上に晒されていた。
城の近くへ行けば、どうしてもそれはシャルロッテの目に入ってしまうだろう。
男は伝える必要のないことをわざわざ言うつもりは無かった。
「……城にはヴュルテン国王がいる。近くで聖女が現れたと知ったら、すぐに兵を差し向けてくるだろう。国中を癒し終えるまでは捕まる訳にはいかない。なるべく遠くから始めて、身を隠しつつ少しずつ癒していった方がいい」
「そんなっ、……逃げながら癒すなんて無理よ。わたしには出来ないわ」
「それでもやれ。何の為に妹がお前の身代わりになったと思っている。妹の死を無駄にするつもりか」
睨みつける男のその目の冷たさに、シャルロッテは背筋が凍る思いがして目を逸らした。
どうしよう。そんな大それたこと自分に出来るはずがない。でも逆らえば殺される。どうしたらこの恐ろしい男から逃げられるのか、揺れる馬上でシャルロッテは必死に考えを巡らせた。
妹と体を入れ替えたなんて言っているけど、そんなこと信じられない。そんなことが出来るわけがない。わたしが元王女だと知っているのは、この男だけ。この男から逃げられさえすれば、後はきっと何とかなる。
シャルロッテは気力を奮い立たせながら地面を見た。馬上から飛び降りるつもりだった。
どうにか息を整えて、よしっとばかりに飛び降りようとしたその時、男の腕がぎゅっとシャルロッテの腹回りを掴んで抱き寄せた。
身を乗り出しかけていたシャルロッテは、呆気に取られて男の顔を見上げた。
男は彼女に一瞥もくれずに、まっすぐに前方を見ながら馬を走らせていた。
シャルロッテの心は男に見透かされて、その行動は読まれていた。
……逃げられない。不安と悔しさで唇を噛みながら、彼女は男に抱き留められている体を小さくした。
その後も男は無言のまま、手綱を操り馬を走らせ続けていた。
男の腕に強く体を抱き留められているシャルロッテは、そこから逃げることが出来ずにいた。シャルロッテは氷のように冷たい男の視線を避けるように顔を逸らして、ふと目に入った光景に言葉を失った。
シャルロッテは病弱で、城から外に出ることはほとんどなかった。
侍女達から時折、民のことを伝え聞くことはあっても、すべてが満ち足りた城の中しか知らないシャルロッテには、民の生活は想像し難かった。
そんな彼女は、初めて見るかつて父が治めていた国の有様に馬上で声を失っていた。
長い間、雨が降らずに日照りが続いていた大地はひび割れて、作物は枯れ、森の木々も立ち枯れていた。馬が走る後には乾いた土埃が舞う。
時折行き違う民は、誰も彼もが粗末な薄汚れた衣服を着て、手足の骨が浮き出ていた。
自分は何も知らなかった。何もしてやれなかった。
シャルロッテは瞬きをすることも忘れて、遠くまで広がる乾いた土地を眺めて涙を流し続けた。
男は国境を目指してひたすら馬を走らせていた。
乗り慣れない馬の背で揺られ続けたシャルロッテの体は限界に近づきつつあり、それを見留めた男が手綱を引いて馬を止めた。
「今日はここで休む」
先に馬から降りた男はシャルロッテを降ろすと、近くにあった木に馬を繋いだ。
長い時間を馬に揺られ続けたシャルロッテは、久しぶりに足裏に感じる地面の感覚に戸惑いながら立っていたが、やがてへなへなぺたんとその場に座り込んだ。
そんなシャルロッテを横目に、男は手際よく枯れ枝を集めて火を起こし、一晩をそこで過ごす準備を整えていた。
一日中馬上で揺られ続けたうえに、果てしなく広がる茶色い光景に涙を流し続けたシャルロッテは、疲れ切っていた。地面に座り込んだまま、そこから立ち上がる気力もなく、虚ろな目で向こうに見える湖を見ていた。
それは元々は大きな湖であったのが、日照りが続いて干上がり小さくなったらしく、シャルロッテと男がいる所よりもだいぶ向こうの方に水際が見えた。
子供が声をあげて遊んでいるのが遠くに見える。
ぼんやりとその様子を見ているシャルロッテに、男が火で軽く炙った干し肉とパンを手渡した。
「……あなたは?」
「俺はもう済ませた」
素っ気なく返す男に、手渡された干し肉とパンを見ながらシャルロッテが尋ねる。
「よくこんな食べ物が手に入ったわね。それに馬も」
これほどまでに飢えに苦しむこの国でよく手に入れられたものだと驚く彼女を、男は大したことでは無いとちらりと見た。
「この国には無くても隣国にはある。金さえ出せば、手に入らない物は無い」
自分が手に持っている食料が隣国ヴュルテンの兵士から手に入れたものだと悟ったシャルロッテは、すでに国が滅びたとはいえ王女である自分が、飢えた民を差し置いてそれを食べることに後ろめたさを感じた。
干し肉とパンを手に持ったまま躊躇うシャルロッテに、男が木の根元に腰かけながら声をかけた。
「民を思うなら、まずお前が食べろ。癒しが終われば、民が飢えることは無くなる」
そう言われても聖女でもない自分がこれを食べることは出来ないと、なおも躊躇うシャルロッテをまるで威圧するかのように男が睨む。
「忘れたのか。元々のお前の体は脆くて聖女の力を発揮出来なかった。食べなければ同じことの繰り返しだ」
男の迫力に怯えたシャルロッテは、慌てて手に持っていた干し肉に噛り付いた。
自分が食べるのを見届けるかのような男の鋭い視線に手が震え、干し肉もパンも味を感じられず、つっかえてばかりでなかなか喉を通らない。
それでも食べなければどんな目に遭わされるか分からない。
シャルロッテは男の様子を窺いながら、震えて噛み合わない歯で必死に肉を噛んでいた。
男は木にもたれながら、シャルロッテが食事をするのを黙って見ていた。