後
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「お? おお……」と顔を赤らめると、マサオくんはあたしが半分口をつけたプリンに自分のスプーンを突っ込んだ。
間接キスだとか思ってるんだろうか。意外にくだらない人だな。
やっぱり男の子だから、頭の中は嫌らしいことでいっぱいなんだろうか。
でも彼はあたしに必要だった。
「その……」
俯いてプリンを食べながら、マサオくんが言った。
「足、繋がれてたら、飛んで行けないんじゃない?」
「これ、取ろうと思ったら、取れる?」
あたしは自分を繋ぐ足枷を目で指しながら、聞いた。
「あ、うん。鍵がつけられてるわけじゃないから、工具さえあれば取れるよ」
「どんな工具がいるの?」
「スパナ……っていうかモンキーレンチがあれば簡単に取れそう」
「ありがとう」
「取るつもりなの?」
「まだわかんない」
あたしの竜人病はゆっくりと、しかし確実に進行していた。ウロコはもう顎の下まで迫っていて、下を向くと痛い。
早く顎もウロコに覆われてしまえばいいのに。そうしたらきっと痛みを感じることもなくなる。
目を覚ますといつの間にか朝になっていて、あたしはいつものように窓を開ける。
なんにもない空を見つめていると心が落ち着く。遠くの山が雪をかぶっている。あそこまで飛んで行って、雪の上を竜の体で転げ回ってみたいな。
それとも、もっと遠くの空まで――
マサオくんが来なかった。
毎日来てたのに、今日は来なかった。ケーキでも持って来てくれるのを期待してたのに。ま、いいけど。
マサオくんが来なくなった。
毎日来てくれてたのに、どういうことだろう。珍しい病気の女の子を見つけて面白がっていただけだったのだろうか。まぁ、それならそれで、別にいい。あたしには関係がない。
マサオくんが今日も来なかった。
もうずっと来ないのだろうか。それは困る。あたしが飛ぶ時に、足枷を外してくれる人がいないのは困る。売店に行くとか言えば看護師さんが外してくれるから、その時にこっそりモンキーなんとかをどこかから拝借して来ることは出来ないでもないだろうけど、そんなことじゃない。彼がいてくれないと、困る。うまく言えないけど、この足枷を外してくれるのは、彼じゃないと駄目なのだ。
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彼女の病室を訪れるのが久し振りになってしまった。
いつものように扉が開いていて、中を覗くと彼女は向こうを向いて眠っているようだった。
開いているドアを僕がノックしても反応がない。仕方なくそのまま手に持ったケーキを揺らさないようにしながら入って行った。
「なんで……来なかったの」
向こうを向いたまま、ハルカが言った。拗ねたような声だった。
「爺ちゃんが……死んじゃったんだ」
僕は答えた。
「この病院からいなくなっちゃったから……」
「なるほど」
ハルカは声の調子を変えずに言った。
「あたしに会いに来てくれてたわけじゃなかったんだ」
「爺ちゃんが死んだんだぞ」
僕は少しむっとしてしまった。
「ちょっとは同情してくれたっていいんじゃない……」
すると彼女がゆっくりとこちらを向いた。
その目は爬虫類のように金色で、アーモンドのような瞳孔が微妙に膨縮を繰り返していた。小さく開いた口から鋭い牙が覗き、その隙間から細長い舌が、炎のように、見えたり消えたりしている。
「寒いよ」
僕は彼女の顔をしばらくまっすぐ見つめると、ようやく歩き出した。
「窓、閉めるね?」
後ろでハルカのくぐもった声がした。
「お爺さん、死んじゃったんだね」
「うん」
「悲しい?」
「当たり前だろ!」
「どうして?」
「どうして……って……」
「好きだったから?」
「そうだよ」
「ふうん……」
それきりハルカは何も言わなくなった。
「病気……調子はどう?」
「見ての通りだよ?」
「ケーキ持って来たんだ」
「この口で食べられると思う?」
僕が椅子に座り、何を言おうか、ご両親のことなど聞いてもいいものだろうか、と考えを巡らしていると、ハルカが言った。
「連絡先、教えてよ」
ハルカから初めての連絡があったのは、すぐその夜のことだった。夕方から天気は荒れ、窓が突風によってガタガタと揺れている。雪が、横殴りに吹き付けていた。とても寒い日だった。
上も下も右も左も分からない暗闇の中、僕は身体を起こして枕元のスマホを取り上げた。電源を点けると、ロック画面にメールの通知が一件あった。ハルカからだった。
『まさおくんおきてるおきてたらきて』
僕は跳び起きた。パジャマの上にカーディガンだけ羽織り、スマホと財布をポケットに押し込んで家を飛び出した。通学に利用しているスクーターに跨ってハンドルを大きく捻る。冷たさで手先が悴み始める。吐きだした息は凍り、霧散する。
強風が全身を強く叩く。何度もハンドルを取られ、何度も転倒しそうになった。それでもスピードは緩めずにハルカのいる病院を目指した。
駐輪場にスクーターを投げ出し、急患用に開かれている小さな扉から気配を殺して病院内に入った。僕の存在がバレないように気をつけながら、ハルカの病室を一直線に目指す。辺りは耳が痛くなるほどの静寂が満ちていた。僕の足音だけが響いている。
やっとの思いで病室の扉の前に辿り着いた。荒れる息を何とかして落ち着かせようとしながら、ドアノブに手を掛けた。
そして、開く。
薄暗い室内で、ハルカはいつものようにベッドの上にいた。もうウロコは彼女の全身をくまなく覆っている。そんな彼女はカーテンの開かれた窓の外を眺めていた。今日は雲が立ち込めていて月明かりも弱く、外は殆ど真っ暗だ。雪が暴れている。
「ハルカ……」
僕は声を出した。震えていた。みっともなく、震えていた。
ハルカはゆっくりと緩慢な動作で僕の方を振り向くと、僅かな笑みを浮かべた。ウロコが邪魔でほとんど顔の筋肉が動かせないのだ。小さく開いた口から鋭い牙が覗いている。
「マ、サオくん」
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「あたま、が、ぼうっと、する」
その時が来たのだと思った。落ち着き始めていた呼吸が再び乱れ始める。
竜人病は決して宿主の身体を死に至らしめるものじゃない。ただ、理性を失わせ、人間を人間ではなくさせるだけだ。
でも、それは死と同義じゃないのか。身体が変形し、脳が壊されたうえで生き続けるというのは実質的な死ではないのか。
僕はハルカの方へと近づいていく。
「メールなんかじゃなくて電話してくれればもう少し早く来れたのに」
「ごめん、ね。よる、おそいから、わるい、とおもって」
ハルカは僕の方へ手を差し出した。ウロコに包まれた竜の手を取ると、とても冷たくて硬かった。ウロコの滑らかな、それでいてザラリとした感触を感じる。
「おくじょう、つれて、いって」
僕はハルカの脚に取り付けられた足枷をベッドから苦労して外し、そして背中を向けてしゃがみ込んだ。彼女の手が僕の肩に乗せられる。鋭い爪が食い込んで痛かった。
夜勤の人にバレないように上階へと続く階段の元までたどり着き、一歩一歩踏みしめるようにして登り始める。普段運動なんてしない僕にはそれはとてもキツイものだったが、しかし歯を食いしばって脚を動かし続けた。凶器にも似た鋭い爪が肩に食い込み、皮膚が裂ける感触があった。彼女の荒い息が首筋にかかる。
階段を登りながら、ハルカは喋り続けた。
「ごめんね、こんなよる、おそくに、よびだし、ちゃって」
「ごめんね、こんな、さむいのに、こさせちゃって」
「あたし、まさおくん、に、あいたくなかった」
「なんかね、りゅうに、なるのが、たのしみじゃ、なくなっ、ちゃったの」
「まさおくんの、こと、もっと、しりたく、なった、から」
「いきたいよ」
背中に濡れた感覚がある。僕は彼女の話を黙って聞き続けた。階段を登る度、身体が悲鳴をあげている。酸素を取り込もうと喘ぐが、上手く呼吸が出来ないでいた。この時間が永久に続けばいいと思い、そして念じた。でも、それでも終わりはやって来る。
屋上へ続く扉の前に着いた。ドアノブに触れると痛みを覚える程冷たかった。鍵は掛かっていない。
扉を開くと、身が竦むほどの冬を帯びた強風が全身を殴りつけてきた。髪が大きく乱れる。頬に叩きつけられる雪の粒が痛みを走らせる。
僕は屋上の中ほどまで進んで足を止めた。背中のハルカが口を開く。
「つきが、みたかった」
天気は悪く、空には暗雲が立ち込めていて月はぼんやりとしか見えなかった。
「ね、おろして」
僕はゆっくりとハルカを屋上へ降ろした。彼女は僕の身体を掴みながらなんとか立っている。最初会った時よりも少し長く伸びた黒髪が暴れていた。
その瞬間だった。
いきなり世界が輝きだした。暗闇に覆われていた何もかもが、色彩を取りもどす。
視線を空へ向けると、先程まで隠れていた月が姿を現していた。オレンジ色が混ざった黄色い月光が降り注いでいる。今にも落ちてきそうな程、大きな月だった。
ハルカが僕から手を離し、そして危なげに一歩を踏み出した。
「マサオくん、すきだよ」
ハルカがもう一度、一歩踏み出す。
「わたし、ちいさなころから、つきに、いってみたかった」
そう言ったハルカは、ゆっくりと素足のまま屋上を歩いて行く。月に向かって、歩いていく。
止めなければならない。そう直感が告げていた。でも身体は時が止まったように動かない。彼女は転落防止の柵の許まで歩いて行くと、脚を止めた。
僕がその細く小さな背中を眺めていると、いきなり入院着の上着が膨れ上がった。そして肩甲骨の辺りがはじけ飛び、大きな一対の翼が姿を現す。小さなころにプレイしたゲームに出てきたドラゴンの翼を思わせた。
その翼が大きくしなり、大気を叩く。ハルカの身体がふわりと浮き上がった。彼女の黒髪が、太い腕を覆い尽くすウロコが、大きな翼が、月光を反射させてキラリと極彩色に輝いた。
再び、翼が音を立てて虚空の中を大きく動いた。ハルカの身体がさらに上昇し、夜空に浮かぶ月と重なった。僕は呆然と立ちすくんだまま、その光景を瞬きもせずに眺めていた。
ふと、突風が吹きつけ、僕は思わず顔を腕で覆って目を閉じた。次に目を開くと、もうそこにハルカの姿は無い。遠くの空で、小さくなって羽ばたいていた。
月に向かって、羽ばたいていた。
街路の灯りに導かれる蛾のように――あるいは、死に場所を探すドラゴンのように、僕の愛しはじめていた彼女は空を突き進む。
寒い夜の中、僕はずっと立っている。
月光が、そんな僕をいつまでも照らしだしていた。
所々、オリジナル作品の文章をそのまま使わせていただいております。作者の脱兎田さまの了承は得ております。
特にラストシーンはほぼそのまんまとなっています。それでいて別の物語を描けたと作者は自負しております。
よろしければ脱兎田米筆さまのオリジナルのほうも読んでいただきたいな〜と、URLを貼っておきます。
https://ncode.syosetu.com/n5612hj/
この作品は単にオリジナル作品に感銘を受けて、自分のものにして書きたくなったから書いただけのものであり、決してオリジナル作品にケチをつけるようなつもりはないことを明記しておきます。
ありがとうございましたm(_ _)m