前
この作品は脱兎田 米筆さま作『ドラゴニュート』に受けた感銘を元に書いたものです。
白で統一された病室の窓から、青い空を見上げた。あたしは今、とてもわくわくしている。
あたしは世界でもとてもとても稀な奇病に冒されている。
竜人病。
近年になって発見されたその病気は、罹った人間の身体を爬虫類のように――竜のように変えてしまうという奇病だ。
初めは爪が分厚く、硬く、強固になっていき、次いで指先から徐々に皮膚が黒くなってウロコが現れ始める。症状が進み、ウロコが全身に回る頃になると、やがて舌が細長く変形して歯が牙へと生え変わっていく。末期にもなると肩甲骨あたりから翼が成長し始め、最後には理性を失って人間では無くなってしまうらしいのだ。
人から人への感染は無いとされているが、しかしそれ以外にこの病気の詳細は全く解明されておらず、治療法は今のところ発見されていない。
いいじゃないか……。
いいじゃないか! 自分を忘れ、人間ではないものになって、翼まで生えちゃうなんて!
すべての苦しみを忘れられるのだと期待してしまう。早く竜さんになれないかな。
溶けてみっともないスライムとかだったらアレだけど、ウロコが生えて竜だなんてかっこいい! あたしは心優しいから、それに物凄い人見知りだから、きっと人間なんて襲わないよ。山に入って、そうだな……熊さんとか猪さんとか食べて、獣のように生きるだろう。
迷惑かけなくても狩られるのかな。
マタギの人や、科学特捜隊の人達や、勇者とか、そういう人達と戦うことになるのかな。
いいや。その時あたしはあたしじゃない。
危険視されて殺されても、どうせその時あたしに理性はない。きっと自分が死んだことさえわからないだろう。
早く竜になれないかな。
こんな世界とは早くオサラバしたいのだ。
□□□□
「ありがとう。お前は毎日見舞いに来てくれるから嬉しいよ」
そう言って爺ちゃんは笑った。鼻に刺されたビニールチューブがいつ見ても痛々しい。
「学校帰りにちょうどこの病院の前を通るからね、寄りたくなっちゃうんだ」
僕は林檎を剝きながら、元気づけるために笑った。
「すぐに元気になって、家に帰れるよ」
「マサオ……。お前は本当に優しい子だ」
爺ちゃんは窓の外を眺めながら、僕に言った。
「しかし他のモンはわしに、1日でも早く死んでほしがっとる」
「そんなことないって」
僕は焦って、さらに元気づけようとする。
「喉乾いてない? 何か飲み物でも買って来ようか」
「ああ……。そこにわしの財布がある。お前も好きなものを買って来い。わしにはウーロン茶を買って来てくれ」
僕は小さい頃からずっと爺ちゃんっ子だった。高校生になった今でもやっぱり爺ちゃんが好きだ。優しくて、厳しくて、僕に色んなことを教えてくれた。それなのに父さんも母さんも、爺ちゃんが年老いて何も出来なくなった途端、爺ちゃんに冷たくなった。肺癌に侵された爺ちゃんを病院任せにし、まるで厄介者扱いだ。
僕は嫌だ。こんなのは嫌だ。爺ちゃんは家族だ。死んでほしくなんかない。
先のことを思っても、過ぎた日のことを思い出しても悲しくなった。涙で視界が歪む。僕は涙を見せないように力を込めて、足踏みするように廊下を歩いた。
病室に戻ると、ベッドの上に爺ちゃんはいなかった。
代わりにショートカットの女の子がそこにいて、入って来た僕をまっすぐ見つめた。
開け放たれた窓がレースのカーテンを巻き上げ、踊らせていた。
「あ……」
涙のせいで病室を間違えたのだと、すぐに気がついて、
「ごめん……なさい」
出て行こうとしたけど、目が釘付けになってしまった。
その女の子は藍色のウロコの生えた指先に、鋭い鉤爪が生えていた。入院着から覗く首筋も藍色で、硬そうな鎧のようになっている。そしてその上に乗った彼女の顔は、少し茶色のショートカットがさらりと風に揺れて、小さくて、軽やかに丸くて、とても生意気そうな表情で口を結んでいた。でも僕にはその裏にあるしっとりとした寂しさが透けて見えてしまったような気がしたのだった。
彼女は何も言わなかった。ただ大きな目に浮かべた表情だけで僕に早く出て行けと命令している。
彼女が目を逸らした。僕は出て行けなかった。
「あの……」
僕が声をかけると、憎むように彼女がまた僕を、今度は鋭く睨むように見た。
「何よ」
彼女の声が、軽やかな鈴の音を少し振りすぎたように、棘のある音色で鳴った。
「病室間違えたんじゃないの? 早く出て行ってよ」
「その……」
僕はしどろもどろだった。
「ウーロン茶、飲む?」
ぽかんと口を開けて、彼女が僕の顔を見た。その表情がほぐれ、プッと吹き出した。
□□□□
突然、病室を間違えて入って来て、手に持ったウーロン茶のペットボトルを勧めて来たおかしな男の子に、あたしはつい、気を許してしまった。
とても無害そうな顔をしていたからかもしれない。あたしが気を許すなんて、相当なことだ。
「ちょうだい」
あたしが笑ってしまった顔でそう言うと、彼は近寄って来て、それをくれた。
「入院患者じゃないよね? 誰かのお見舞いに来たの?」
あたしはウーロン茶に口をつけながら、聞いた。
「あ……うん」
彼はペットボトルを握るあたしの手をじっと見ていた。
「爺ちゃんが癌で入院してるんだ。となりの病室かな」
「凄い手でしょ?」
あたしは自慢するように、言った。
「竜になれるんだよ、あたし」
「……病気なの?」
「竜人病って、知ってる?」
彼は首を横に振った。
「珍しい病気なんだよ。人間じゃないものになれるの」
「それって……」
死ぬの?
悲しいこと?
人を襲うようになるの?
あたしは彼の言葉の続きを予想した。でも、全部違った。
「その……綺麗だね」
あたしはウーロン茶を噴きかけて、咳き込んだ。喉がウロコに当たってしまって痛んだ。彼が慌てたように謝って来た。
「あ……ゴメン! なんか失礼なこと言っちゃったよね!」
「ううん。嬉しいよ。綺麗だって言ってくれて……。君、何年生?」
「あ……。高2」
「同じだね。あたし、ハルカ」
「俺、マサオ」
「マサオくんか。安心できる名前だね」
「よく言われる……かな」
「怖くないの?」
「えっ?」
「竜人病は伝染しないけど、『死にたい』は伝染するから気をつけて」
「ハルカは……死にたいの?」
「過去形だよ? 『死にたかった』」
「今は?」
「この病気が人をどう変えるか、教えてあげようか」
あたしは脅すような口調で、言った。
「その名の通り、恐ろしい竜になるんだよ。翼まで生えて、理性をなくして、人間じゃないものに変身するの。思い出も全部なくして、ただの化け物になるの。人だって食べちゃうかもよ?」
「まさか」
マサオくんは笑い飛ばすように、言った。
「こんな可愛い女の子が人なんか食べるわけないよ」
「それが楽しみなのよ、あたしは」
赤面したかもしれない顔を窓のほうへ向けて隠した。
「知らないうちに消えてなくなれるみたいなもんだから。死ぬより楽でしょ」
「何か……あったの?」
しばらく何も言わずにそこに立っていたマサオくんは、ようやく口を開いた。
「辛いこととか?」
「何もないよ?」
あたしはあっけらかんと答えた。
「何もないのが辛いの」
□□□□
何もないから辛い、という彼女の背中を僕はしばらく見ていた。
あまり他人のことに踏み込むのは失礼なような気がして、それ以上何も聞けなかった。
彼女の首の後ろには頸椎が浮き出していて、そこにキラキラとした藍色のウロコがうっすらと生えはじめている。まるで昔に図鑑で見た恐竜みたいだった。
「あ……。僕、爺ちゃんとこに戻るね」
間が悪くなったので、僕は言った。
「また……来てもいいかな?」
「うん、来てよ」
ハルカは『いひっ』というように笑うと、言った。
「話し相手がいるとやっぱり楽しい。またマサオくんのことも聞かせてよ」
そう言うと、怪獣みたいな硬そうな手を、可愛く振った。
僕はそれから毎日爺ちゃんの見舞いに来るたび、ハルカの病室にも寄った。2つ隣の病室だったので、爺ちゃんにはバレてないと思っていた。でも看護師さんが知らせたらしく、ある日僕が病室に入るなり、ニヤニヤしながら爺ちゃんは言った。
「マサオ。わしなんか放っといて、ハルカちゃんの所に行っていいんだぞ?」
行きにくくなった。そんなこと言われると、かえって。
「ほれほれ。早う行かんか。若いモンが年寄りと一緒におったらジジ臭くなってしまうぞ。若モンは青春を謳歌しろ」
「バカ。僕は爺ちゃんの見舞いに来てるんだからな!」
「えーから、えーから。あ、ちょっと待て」
「なんだよ」
僕は思わずクスッと笑ってしまった。
「冷やかしてんのか、居てほしいのか、どっちだよ」
「いや、珍しくおまえの叔母さんが見舞いに来てくれてな。プリンを買って来てくれとったんだ」
「プリン?」
「ああ。なんか有名な店のらしくて、おまえと2人で食べるよう言われとったんだが、わしはそんなハイカラなもんは食べん。冷蔵庫にあるから、ハルカちゃんに持って行ってやれ」
冷蔵庫を開けるとお洒落な紙箱があった。僕も聞いたことがある、最近駅前に新しくオープンした有名店のものだった。
「じゃ……、これを届けて来るよ」
「おう。帰って来んでも別にいいぞ」
ニヤニヤまた笑う。
「とっ、届けて来るだけなんだからなっ!」
ハルカの病室のドアは開いていた。入口に立つと、いつものように彼女は開け放った窓から外を眺めていた。開いているドアをノックすると、夢から覚めたようにこちらを振り返った。
僕は笑顔で聞いた。
「いっつも何見てるの?」
彼女は照れたように少し笑うと答えた。
「どっちの方向に飛んで行こうかなって、計画立ててるの」
「なんだそれ」
僕は笑い飛ばしてやった。
「飛んで行かないでよ」
「この世はくだらないんだもの。早く飛んで行きたいわ」
彼女が楽しそうなふりをしているように見えて、僕は椅子に座るなり、言った。
「好きなやつとか、学校にいないの?」
「それでしょ?」
彼女は僕をバカにするようにフッと笑った。
「みんな恋愛なんかに夢中になって、バカみたい。あんなの本当は相手を好きなんじゃなくて、自分を認めてほしいだけなのに。それに、セックスしたいだけなのを綺麗な言葉で誤魔化してるだけ」
ああ……と、僕は思った。
だからハルカは、独りぼっちなんだな。
そう思ったら自然に口から言葉が出ていた。
「ハルカは頭がいいんだな」
ぽかんと口を開けてこっちを見たハルカが、一瞬可笑しそうに笑ったのを見た。でもすぐに窓の向こうを向いてしまう。
「全部くだらないんだから」
「じゃ、これもくだらない?」
そう言って僕は持って来た紙箱を開いて見せた。
「プッ……」
ハルカは箱の中を見ると、驚いたように目を見開き、すぐに言った。
「プリンだ!」
「くだらない?」
「くだらなくない!」
思わず笑ってしまいながら、僕はそれを箱から取り出した。
「一緒に食べようよ」
「うっ、うん!」
笑顔の花が咲いた。
「そっ、そこにティースプーン……あっ、スプーンついてるか。じゃ、飲み物、飲み物っ」
ハルカがそわそわと動き出したので僕は気づいた。
彼女の足に、無骨な金属の輪っかが取り付けられていた。太い鎖が取り付けられていて、ベッドの脚に巻き付けられている。
「それ……何?」
「ああ」
彼女はなんでもないように答えた。
「暴れ出すと困るからって。ほら、竜人病って、最後には理性をなくすから……」
少し小躍りしながら手に持ったスプーンを揺らして待つハルカに僕はプリンを手渡すと、そのまま足のほうに近づいてそれを見た。
金属の輪っかが少し小さいように思えた。足に食い込み、ウロコの間から血が滲んでいる。
「痛くないの?」
僕は唇が震えてしまった。
「ん。そんなに痛くはないよ?」
ハルカは機嫌よくプリンを口に運びながら、言った。
「そのへん、もう麻痺しはじめてるから。んーっ! 美味しい!」
こんなの人間扱いじゃない……。そう思うと、怒りで唇が震えた。
「マサオくん、食べないの? 食べないんだったらもう1個もあたし、貰っちゃうよ?」
僕が見ているものとは正反対な、幸せそうな声が、頭の上から降って来る。
「ああ……。いいよ? 君にあげる」
「んー。やっぱりマサオくんにも食べてほしいな、美味しいから」
そう言うと、ハルカは半分だけ食べた僕のぶんのプリンを、渡して来た。
「はい」