世の中はつらしと聞きし泡沫の
「月子様!? そこで一体何を」
「アキさん、お帰りなさい。物語を読んでいたのですが、いけませんでしたか?」
「あぁ、早くこちらへ」
私は促されるまま後ろへ下がると、アキがさっと御簾を下ろした。
「私、何かおかしなことをしてしまいましたか?」
大人しくしているつもりだったが失敗してしまったのだろうか。
緊張で身体がこわばる。
「お顔を無防備に晒してはなりません。誰に見られているかわかりませんよ」
「あ……」
そうか。
耀様があまりに普通に接してくるものだから、そんなものかと思っていた。
でも垂れ下がった御簾も、美しい几帳も、男女を隔てるためのものであることは明らかだった。
「お気をつけなさいませね」
「はい。すみません」
「それから耀様からのご伝言です。今日から耀様の側仕えをせよと」
「仕事、ですか?」
アキは眉間に皺を寄せて頷いた。
「ありがとうございます。頑張ります」
「頑張っても良いことはありませんよ」
「え?」
「夕方、このお部屋で、耀様のご出発の準備をするのです」
出発?
夕方から出掛けるのだろうか。
「耀様はお忙しいのですね」
素直な感想を述べると、アキに溜息をつかれてしまった。
「それから、こちらは月子様に贈り物だと」
蒔絵で飾られた箱が私の前に置かれた。
つるつるとした表面に、可愛い鞠の装飾がされていた。
「素敵……」
そっと両手を添えて蓋を開けると、そこには新品の硯や筆が入っていた。
少し丸みを帯びた硯は女性が好みそうだった。
真っさらな筆は毛先がつやつやと白かった。
細い筆を手に取ると、落ち着いていたはずの鼓動が再びトクトクと疼き始める。
これはきっと、耀様にお返事を書くためのものだ。
恋文への返事を書く許可をもらったような気がして頭がのぼせそうになる。
だめだ。もう頭が耀様でいっぱいだ。
「早くお礼を伝えたいです」
「黙って貰っておけばよろしいのですよ」
「そういうわけには」
私は筆を指先で撫でた。
つるんとしていて肌馴染みが良く、細すぎず太すぎず、持つと指にしっくりきた。
「嬉しいですか?」
「はい、もちろんです」
「お幸せそうなお顔をして」
「そ、そうですか?」
恥ずかしい。
けれど嬉しいのは事実なのだから仕方がない。
私は硯箱を抱えて帳台の中へ入った。
「アキは少々心配になります」
聞こえぬように呟いて、アキは部屋を出た。
耀からの贈り物を純粋に喜んでいる月子が可哀そうでならない。
全く耀様はひどい仕事を与えたものだ。
あの笑顔が曇るのは時間の問題だと思うと、アキは胸が軋んだ。
「世の中はつらしと聞きし泡沫の 今ひとときのものは言ふまじ」
(男女の仲は泡のように消えてしまう薄情なものだと聞きました。ですが今しばらくの間は何も言わないでおきましょう)
「アキ。月子はどうだった」
「大変お喜びでした」
「そうか」
耀は上機嫌だった。
「全く、罪作りなことをなさる。今夜はどちらへ?」
「六条へ」
六条には最近耀が熱を入れている未亡人がいた。
喪が明けてすぐに通い始めたが、なかなか「うん」と言わないところが気に入っていた。
「月子様に準備をさせるのですか?」
「そうだな。また夕刻に来る」
耀は足取り軽く、渡り廊下の先に消えた。