雅で閑なひととき
「アキさん」
「アキ、とお呼びくださいませ」
アキは心得ていた。
自身は乳母であり女房。だが月子はいずれ耀の手付きになる。
この娘にとってそれが幸せなこととは限らないが。
月子は思案顔でアキを見た。
「どうかなさいましたか?」
「人をそのように呼んだことがなくて」
本当に不思議な娘だ。
文字が読め、和歌も嗜むところを見ると、それなりの家の姫君だろう。
女房に世話をされてきたに違いないのに、呼び捨てで人を呼んだことがないなどあるのだろうか。それともよっぽど複雑な事情が?
「では当面は月子様のお好きなように」
そう言うと、月子はあからさまにホッとした顔をした。
その顔は、小さな白い花がぽっと咲いたような、慎ましさと可憐さがあった。
「アキさん。私に何かお手伝いできることはありませんか?」
「? どういうことでしょうか」
「ここに置いてもらう以上、何か仕事がしたいのです」
薄命そうな色白の顔に似合わない「仕事」という言葉。
アキは一瞬言葉を失った。
姫君だと思っていたが、違うのだろうか。
「月子様は何かお仕事のご経験が?」
「いえ、お恥ずかしながら――」
その言葉に安堵する。
「そのようなこと気にせずともよいのですよ」
「いいえ。水汲みでも、洗濯でも、何でもいたします」
「アキを困らせないでくださいませ。月子様の御手に傷がつきます」
アキは頬に手を当てて悩ましげに目を伏せた。
耀が屋敷に連れて来たということは余程の気に入りようだ。
その華奢で今にも折れそうな手に、重い水瓶を運ばせたり、冷水で洗濯をさせたり――いや、絶対にお許しにはならないだろう。
月子は髪の間から見えたアキの首筋に少しドキリとしながらも言葉を続けた。
「実は私、ここよりほど遠いところから来たのです。ですからここでの暮らしに少しでも早く慣れたくて。遠慮なく私を使っていただけませんか」
「……耀様に相談いたします」
几帳や簾がある。皆着物を着ている。
それだけで平安時代っぽい、とは想像するものの、ここがどの時代のどこなのか、はっきりとはわからない。
だがこの世界で生きていくにはそれを知る必要があるように思えた。
仕事をもらって周囲の雰囲気をつかめればと思ったが、アキはいい顔をしてくれなかった。
それに、何もせずに置いてもらうというのはやはり気が引ける。
私は高貴な身分でも何でもないし、あれこれと世話を焼かれるなんて肩身が狭いだけだった。
誰もいなくなった部屋で、私は耀様が置いて行った物語を手に取った。
帳台の中は読書をするには薄暗かった。
私は巻き上げられた御簾の側まで歩いて行って、柱を背に座った。
顔を上げると小さいがきれいな庭が見える。
陽の光に目を細めて深く息を吸う。
酩酊しそうな香のにおいも、肌に触れる澄んだ空気も、静けさの中に聞こえる虫の声も、全てが知らない世界だった。
私がいた東京は、いつだってアスファルトで焼けた空気がチリチリして、24時間車の走る音やスマホの着信音が聞こえて、都会特有の汚い空気の匂いがした。
ここは時が止まってるみたいに静かだ。
私は本に目を落としてページをめくった。
写本の流麗な文字が目に飛び込み、言いようもない恍惚感に襲われる。
雅で閑な時に酔いしれる。
そのうっとりとした妖艶な月子の姿を、垣間見する男がいたことを誰も知らない。
月子はまだ、外に向けて顔を晒すことの危険を十分承知していなかった。