甘い君に、恋の始まり
「わ、私なんかが、耀様に恋など。おこがましいです」
私は耀様の手紙をさっと裏返す。
「月子様が傷つくだけでございますから」
アキは申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
それが何だかとてもいたたまれなかった。
「あの。私、すぐに出て行きます」
掠れる声で短く言った。
その言葉に返事をしたのはアキではなかった。
「出て行ってどうする。行く当てはあるのか?」
その声に心臓がバクバクと音を立てる。
月の下で出会った端麗な顔が覗く。
「いえ、その」
思わず言い澱む。
行く当てはない。ここは私のいた世界じゃない。
でもそんなことは些末なことと思えるほどに、耀様の美しさに目を奪われた。
しっとりとした黒髪に、一重のキリッとした目。知的で大人っぽくて、でもどこか繊細でミステリアスな感じがする。
「ならここにいろ。暇を潰せそうなものも持って来た」
耀様は無遠慮に帳台に上がると、両手に抱えた色々なものをどさりと置いた。
「アキ、茶を持ってこい」
アキは眉をひそめながら静かに出て行った。
「雛遊びは少し子どもっぽいか。絵巻もあるぞ。それに碁と物語と――」
「物語?」
思わず聞き返してしまった。
この世界にはどんな物語があるんだろう。純粋に興味があった。
「月子は字が読めるのか」
「はい、あの……」
手にしていた手紙をきゅっと握りしめる。
「文をありがとうございました」
内容を思い出して思わず頬に熱が宿る。
こんなものに深い意味なんてきっとない。けれど心惹かれてしまう自分がいる。
「そうか。ではまた遠からず書こう」
優しく甘ったるい声が耳に響く。
私を溶かすような言葉に勘違いしてしまいそう。
「耀様からお手紙をいただくなど、恐れ多いです」
「なぜだ」
「耀様からのお手紙を待ってらっしゃる方は沢山いらっしゃるのでしょう?」
「あぁ、そうかもしれんな」
ズキンと胸が痛む。
「でしたらその方々に――」
「だが月子にも書く。月子は俺からの文を待ってはくれないのか?」
濡れた黒い目が私をじっと見つめた。
吸い込まれそうなくらい強い眼力に、全身が熱くなっていくのを感じる。
「お待ち、申し上げております」
いけない。
この人を好きになってはいけない。頭の隅で警鐘が鳴る。
けれどこの目に見つめられるのがどうしようもなく嬉しくて、胸がぎゅっとなる。
「あぁ、待っていろ。それから――」
耀様の白く細長い指が、熱くなった私の頬に触れる。
そしてそのままぐっと身を乗り出すと、私の視界は耀様の顔で覆われた。
「待っている間、ずっと俺のことを考えておけ」
「っ!」
そんなことが許されるのだろうか。
何の自信もない私が、こんなに眩しい耀様のことを考えるなんて。
「月子、返事は?」
「はい」
そう言ったつもりだったが、唇からは乾いた空気が出ただけだった。
それでも耀様は満足げに笑うと、親指で私の下唇をそっとこすった。
「では行く。好きに過ごせ」
「あ、あの。お茶は、よろしいのですか?」
アキが準備に出て行ったきりだ。
「あぁ、あれは人払いの合図だ。アキもわかっている」
人払い。
その言葉にまた頭が溶けてしまいそうになる。
耀様はこともなげに立ち上がると衣擦れの音を響かせて出て行った。
きっとこんなのあの方にとっては日常茶飯事なのだ。
女性から好意を向けられるなんて当たり前で、甘い言葉だっていくらでも言える。
頬に触れることすら他愛のない戯れで、私の胸の高鳴りなんて気付いていない。
だめだ。
どうしようもなく胸が耀様でいっぱいだ。
考えておけだなんて言われなくても、もう考えずにはいられない。
私は文を胸に抱いて浅い息を繰り返した。