逢ふことのさだめなりにし望月の
「アキ、戻ったぞ」
牛車に乗せられた私が着いたのは広い屋敷のようだった。
といっても牛車の降り口はぴったりと建物につけられたので、屋敷の全貌を知ることは出来ない。
「お早いお戻りで安心いたしました」
「安心するのはまだ早いぞ」
私は耀様に手を取られ立ち上がる。
反対の手で慣れない着物の裾を持ち上げ牛車を下りた。
「なっ、耀様。貴方はまた何を……」
「とりあえず部屋へ行くぞ。ここでは目立つ」
アキと呼ばれた妙齢の女性は、油を燃やした皿を照明にして長い廊下を歩く。
その後ろ姿はとても妖艶で、大人の色香を醸していた。
「ご説明なさいませ」
「あぁ、これは月子だ。ここに住まわせる」
「またそんな無茶を。どちらの姫君でいらっしゃいますか」
アキは憐憫の目を月子に向けた。
その美しい顔に、月子は思わず目を伏せた。
年の頃は30後半、とても知的で品のある美しさに月子は気後れした。
「尼寺から連れてきた」
「なっ、そんな罰当たりなことを!」
「一度は俗世との縁を切った身。いらぬ詮索はするな」
「アキは耀様をそのように育てた覚えはございません」
「そう大きい声を出すな。月子が驚く」
アキは憐れむような声で月子に話し掛ける。
「このように美しい女性が、この若さで尼寺だなど、さぞ辛いことがあったのでしょう」
尼寺にいたなどというのは耀の嘘だ。
だがアキは、月子の儚げでどこか影のある姿に、それをそのまま信じた。
「というわけだ。アキ、しばらく月子の世話を頼む」
「どちらに行かれるのです」
「今日はもうどこにも行かないよ」
耀はそう言うと部屋を出た。
しばらく廊下を歩き、空に浮かぶ満月を見上げる。
「逢ふことのさだめなりにし望月の 触るれば指のうちわななきて」
(巡り会う運命だった。満月を思わせる美しいあの人に。触れた指は震えていたようだ。)
月子を思って詠んだ歌は月夜に溶けた。
部屋ではアキが甲斐甲斐しく月子の世話をしていた。
「心根は悪い人ではないのです。ですが、少し目に余るところがございまして」
アキは濡らした布で月子についた泥を落としていた。
「いえ、耀様はお優しい方だと思います」
身も知らぬ私の手を取り、ここまで連れて来てくれた。
私はここに来る前の最後の記憶を思い出す。
西日の入る図書館の隅で、『源氏物語』を読んでいた。
私が読むのは決まって古典文学だった。
それくらい自分に馴染みのない方が、私にはちょうど良かった。
クラスメイトが話題にしていたネット小説は、女子高生にとって定番の青春ど真ん中、とても身近な恋愛ストーリーだった。
でもそれはあまりに私の学校生活とはかけ離れていて、これっぽっちも感情移入が出来なかった。そしてそれがひどく悲しかった。
下校を知らせるチャイムが鳴って、私は「禁帯」扱いになっている『日本古典文学全集』の『源氏物語』を棚に戻そうとしていた。
手を伸ばして本を押し入れた時、足元に強い縦揺れを感じて書架がぐらりと揺れた。
目の前が真っ暗になって、頭が割れるように痛くて、そこで記憶が途切れた。
「月子様? 大丈夫ですか?」
アキが心配そうに顔を覗き込んだ。
「す、すみません」
「戸惑うことも多くお疲れでしょう。今日はゆっくりお休みくださいませ」
「アキさん。ありがとうございます」
「アキとお呼びくださいませ。私はここで女官をしております。以前は耀様の乳母をしておりました縁で、あの方のお世話も少々しているのですよ」
「そうなのですか」
「えぇ。どうぞ母だと思って頼ってくださいませ」
母と呼ぶには美しすぎるアキの姿に、月子は何も言えなかった。
でもその落ち着いた物腰と端麗な所作は、不思議と月子の心を落ち着かせた。