さやけきは月影なるか
月が近い。
湿った草の上で目を覚まして、一番に瞳に映ったものがそれだった。
青白い光を放つ満月が漆黒の夜空に浮かんでいる。
私はわけがわからず、感覚を研ぎ澄ます。
土と緑の匂いが濃い。まるで雨上がりのような、むせ返るほどの大地の匂い。
それからほど近くに聞こえる水のせせらぐ音。川が近いのだろうか。頬に触れる外気は少し冷たい。
ゆっくりと身体を起こすと妙な動きにくさを感じた。
腕が重いと思って目をやると、国語便覧に出て来そうな装束を身に着けていた。
「着物?」
暗がりでよく見えないが、着物を何枚か重ねて着ているみたいだった。まるで十二単みたいな。
私は慣れない着物の裾を整えながら、ゆっくりと立ち上がる。
ここは一体どこ?
「誰かいるのか」
その声に思わず振り返る。
月明かりの中に一人の男の姿があった。
直衣姿で男だとわかったが、月に照らされた中性的な美しい顔立ちは、美麗な貴婦人と言っても差し支えないほどだった。
まるで源氏物語の世界みたいだな。
図書室の隅で古典文学ばかり読んでいた私はそう思った。
「そなた、名前は?」
「名前……」
言いたくなかった。
親がつけてくれた「灯」という名前は、私には重い足枷のようなものだった。
小さい頃から本が好きで、いつも空想の世界に浸っていた。
そしていつしかクラスメイトは「根暗のアカリ」と嘲笑するようになった。
「いや、素性を聞くなど無粋か」
男はゆっくりとした足取りで私に近付いた。
手を伸ばせば触れられそうな距離まで来た時、その美しい顔を正面から捉えた。
端正な顔立ちに、どこか憂いを帯びた表情。
年の頃で言えば10代後半? でも大人っぽい雰囲気があった。
「あの、ここはどこでしょうか」
「何?」
「目が覚めたらここにいて。どうしてこんなところにいるのか、わからないのです」
「俺は物の怪にでも会っているのだろうか」
「え……?」
「いや、そんなはずはないな」
手が伸びてきて、その細い指が私の髪に触れた。
「こんなに美しい物の怪などいるものか」
その目に射抜かれて、私は言葉を失う。
「さやけきは月影なるかあらはれし はかなく見ゆる月の精かな」
(美しく輝いているのは月の光だろうか それとも目の前に現れた頼りなげな月の精だろうか)
朗々と響くその声に胸が震える。
私は思わず口を開いた。
「よるべなき月より下りし精なれば 露のごとくに消えん 朝は」
(身を寄せるあてのない月の精なので きっと朝になれば露のように消えてしまうでしょう)
きっとこれは夢なのだ。
大好きな古典の世界で、美しい貴人と出会い、和歌を詠む。
そんな妄想が見せた、一時の夢。
「ならば消える前に連れ去ってしまおうか」
彼の手が私の頬を包んだ。
その温度が夢ではないと訴える。
それにさっきから痛いくらいに鳴る心臓が、何よりも生を感じさせた。
「どこへ」
「さぁ、どこにしようか」
憂いを帯びた顔がふっと笑い、私の手を取った。
茂みの中を、月明かりを頼りに歩く。
「あの、貴方は?」
「耀だ」
「耀様……」
美しい名前だ。この方にぴったりの。
月の光でさえ霞みそうな麗しい横顔。
心まで見透かされそうな濡れた漆黒の瞳と、甘く響く声。
「名は聞いても?」
そう言われて私は思わず俯いてしまう。
「つまらない名です。耀様に名乗るようなものではございません」
「なんだ、自分の名が嫌いなのか?」
私は震えるように小さく頷いた。
「ではその名とこれまでの自分を捨てよ」
「え?」
「お前は今日から月子だ」
「つきこ?」
「あぁ、見ろ。今日はことさらに月が美しい」
空を見上げると、大きな月が静かにこちらを見ていた。
これが私と耀様の出会いだった。