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戦場のハッカー  作者: 森
7/12


 研究所にはインターン制度がある。

 防情学校の生徒が研究所に早く馴染めるよう作られたもので、今年の五月に始まった。研究所の発足が四月なので、かなり早い段階の受け入れと言える。

 七月までは授業後の午後五時から八時までがインターンの就労時間だった。十名以上が一度にやってくるため、研究室は一時的に騒がしくなる。どうせ集中力が途切れるだろうからとミーティングを五時からに設定する分隊も多かった。

 八月になると、防情学校が夏季休暇に入る。インターンも一時中断する予定だったが、帰省しない生徒が続行を希望したため、休業期間中は昼間から来ることになった。インターンと言っても、彼らの仕事はほとんど実務だ。さすがに機密度の高い情報には触れさせないが、身分が防衛省の職員なので、雑務をこなすのは当然と言えた。

 降って湧いたような増員に分隊長たちは満面の笑みを浮かべた。彼らを頭数に入れてのスケジューリングは、本来望ましいものではない。しかし、人手が不足する現状はいかんともしがたく、頼らざるを得ないのが現状だった。


 八月一日。夏季休暇の初日は午後一時からがインターンの就業時間だった。

「お疲れ様でーすっ」

 第一分隊でインターンをしている桜田(さくらだ)里佳(りか)が、声を張り上げて挨拶をした。入隊基準ギリギリの身長という小柄な女の子で、髪の色がやや薄い。愛嬌のある、犬のような子だ。

「変な挨拶をするな」

 続いてやってきた月東(がっとう)慶一(けいいち)が里佳を叱った。彼も第一分隊のインターンだ。背が高く凛々しい顔立ち。生徒であるため髪を短くしているが、伸ばせば雑誌のモデルにもなれそうだった。

 里佳が規律スレスレのことを言い、月東が注意する。それがふたりの日常だった。周囲の大人が注意せずとも済むため、染島はこれを自浄機能と呼んでいた。

 里佳と月東。このふたりが天助と同じ分隊だ。

「観月さん、今日の仕事はなんでしょうかっ」

 里佳は観月に声をかける。観月はインターン生のメンターという役割だった。一日ごとに業務を与え、評価している。

「桜田……」観月は歯切れの悪い返答をした。「高森三曹と呼べと言っているだろう」

「でも、観月さんって呼びたいんですっ。せっかく名前がかわいいんだから!」

「そういう問題ではなくてだな……」

 同僚には厳しい観月だが、生徒には強く出られないようだった。観月は困ったように周囲を見回し、染島に助けを求めた。

「隊長からも何か言ってください」

 染島はちらりと顔を上げて、

「観月さんという呼称、似合っているぞ」

 真顔でそう言った。

「隊長っ!」

 まさかの切り返しに観月はかわいそうなほどに狼狽した。天助は横田と一緒に吹き出していた。観月に睨まれて、すぐに笑いを引っ込める。

「横田、なんとかしろ」

 あてつけのように観月は言う。横田は机の上を片付けながら、

「俺に振られても困る。俺は忙しいんだ。だが、まぁ、似合ってるぞ、その名前」

「誰がほめろと言った、バカモノッ!」

 観月は怒鳴りつけると、席を立ってしまった。ふと天助と目が合ったが、何も言わなかった。

 研究室を出て行く観月の背中を見て里佳は悲しげに言う。

「観月さん、怒っちゃいました……」

 責任の大半は彼女にあると思うのだが、天助は何も言わずにいた。

「ところで、双海さん」里佳は改めて天助に声をかける。「観月さんと喧嘩でもしたんですか?」

「え?」

 唐突に核心を突かれ、天助は思わず口ごもる。

「目が合ったのにふたりしてすぐにそらしてましたよね。私はバッチリ見ましたよ」

「よく見てるなぁ」

 その一瞬を見逃さないとは大した観察眼だ。天助は潔く白旗を挙げた。

「まぁ、ちょっとね。なんでみんなわかるんだろうね」

 今日で捕虜救出作戦から五日目だった。観月とは業務以外で会話はない。関係修復のきざしもなく、天助はこんなものだろうと諦めの境地にいた。

「双海さん、何をしたんですか?」

「俺が何かした前提なの?」

「あってますよね?」

 里佳は悪びれることなく言った。

「……うん」

「やっぱり。何をしたかは知りませんが、私はふたりが仲良しな方が嬉しいですよ。そうだ、横田さんに相談したらどうですか?」

「してるよ。けど、横田は今、忙しいから」

 天助は横田を横目で見た。机の引き出しをひっくり返し、荷物の整理をしていた。彼はとある作戦に参加するために、一時的に研究所を離れることになっていた。作戦の主導は本隊で、あちこちから人を集めているらしかった。

 なんでもウイルス兵器の開発をしているそうだ。そう言うと、大量のコンピュータを破壊する作戦と思われがちだが、すべてのウイルスが無差別攻撃をするわけではない。世間で問題となるウイルスの多くは個人情報の略取を狙ったものであり、結局は金儲けが目的だ。天助もフィッシング詐欺のサイトを作成して、個人情報を盗み出すウイルスを作ったことがある。他方で軍事用途のウイルスは少し性格が変わってくる。この手のウイルスは、対象勢力の特定部分にのみ攻撃を仕掛けるよう設計される。それ以外の対象への攻撃はむしろ存在を悟られるため絶対に行わない。だから、ターゲットを間違えて攻撃しないよう、自身が感染した機器がターゲットだとわかるまで攻撃しないよう、攻撃機構に厳重なチェックが組み込まれている。そのため、多くの場合、軍用ウイルスは民間人に対して無害だ。

 作戦は、ウイルスを敵組織に侵入させ、感染を待ってから攻撃オペレーションを行うというものだ。開発は本隊が請け負うが、オペレーションは研究所に割り振られるそうだった。

 イカヅチノカミ作戦(イ五十一号作戦)。作戦名こそ知らされたが、全貌はまだ明かされていない。これは以前に起こった情報漏えい事件が未だに尾を引いているためだった。本隊はすべての端末のウイルスチェックを行い、その上で、重要度の高い作戦は電子データを消去し、紙面での運用に移行していた。更には作戦概要を最小限の人間にのみ伝え、参加者に対してもギリギリのタイミングまで伏せることになったのだ。電子戦を行う部隊が情報共有に紙を使うというのはなんとも皮肉な話だが、背に腹は代えられなかったのだろう。

「では、行ってまいります! しばらく留守にしますが、後のことはお願いします」

 荷物を片付けた横田は染島にそう告げて、研究所を出て行った。行き先不明の任務だが、横田に憂いの色はなかった。禰屋(ねや)司令にも直接激励を受けたというから、責任も相応だろう。それでも動じないのが横田のすごさだ。

「頑張ってこいよ」と天助は手を振った。横田は親指を突き上げて、返事とした。

 なんとも縁起の悪いジェスチャーだった。これがハリウッド映画だったら、横田は間違いなく帰らぬ人だ。

「頼みの綱もいなくなりましたね。観月さんのこと、いざとなれば私を頼ってください」

 横田が消えたあと、里佳はそんなことを言った。一回りも下の女の子に心配されるとは、なんとも情けない話だった。



 横田が不在になると、第一分隊は静かになった。

 観月も染島も無駄口を叩くタイプではない。横田のひょうきんな性格が、場を明るくしていたのだと、いなくなってから気づいた。月東は気にする風でもなかったが、里佳は所在なさげにきょろきょろとしていた。

 天助は業務の引き継ぎをすることにした。横田がいない分、天助が穴を埋める事になっていた。最も大きな仕事は夏季演習への同行だ。

 防情学校は春と夏に泊まりがけで演習をする。社会科見学と実践を兼ねた訓練だ。夏の演習には、研究所のメンバーも参加することになっていた。天助はメンバーに含まれていなかったが、横田の代理を任された。

 第一分隊は第三教育隊の演習に付きそう。里佳や月東の隊だ。ちょうどいいので息苦しそうにしている里佳を呼び、話を聞いてみることにした。

「何の用ですか?」

「これについて聞きたいんだけど……」

 ディスプレイの資料を指差すと、里佳は渡りに船とばかりに揚々と言った。

「夏季演習ですね! もちろん、私は詳しいですよ!」

「本当? 実は俺、内容も知らないんだよ。行けと言われただけだったから」

「大変ですね。よかったら、概要を説明しますよ?」

「本当? 助かるよ」

 染島に許可を取り、里佳の時間をもらった。彼女は天助のノートに概要を記した。それによれば、演習の実施日は八月第三週の二日間。内容は遠泳訓練となっていた。

「遠泳かぁ……」

 横須賀の海岸から四キロ先の島へ向かって泳ぎ、その後、砂浜ダッシュを行うとのことだった。

「春は硫黄島の見学だったので、夏のテーマは体力づくりなのかもしれないですね」

「そんな感じの内容だね。うーん、もう少し早く言って欲しかったなぁ」

 前期教練でも水泳の授業はあった。しかし、天助は絶望的にセンスがなく、ギリギリで及第点という成績だった。

「あと二週間もあるじゃないですか」

「その二週間も別に練習に使えるわけじゃないよ。どうせ引率だし、見学にできないか聞いてみるよ」

「でも」里佳は思い返すように言った。「研究員の方々を模範として練習するように、って学校では言われましたよ? 研究所の人は全員泳ぐんじゃないんですか?」

「そんなことを言ってるの?」

 天助は思わず聞き返した。言葉の裏に込められた意味を汲み取ると、研究員が訓練で生徒に劣ることがあってはならない、という無慈悲な圧力があるように思えた。

「第一、研究員も泳ぐよう決まったのは染島隊長が乗り気だったからって話らしいですよ」

 上官の発案だったのか。天助はちらりと染島を見やる。いよいよ逃げ道がなくなってきた。

「そうは言っても技術職に遠泳の能力はいらないと思うんだよね」

 苦し紛れにそう言うと、里佳は苦笑交じりに「軍人の発言とは思えませんね」と返してきた。完全なる正論だった。第一、天助の階級は三等陸曹だ。なぜ技官ではないのか、と恨みがましく思ってみるが現実は変わらない。

「わかったよ……。練習するよ」

 その日、天助は染島に水泳訓練をさせてくれと頼んだ。

 練習期間は二週間。運動は苦手分野だが、とりあえず努力してみようと思った。



 二週間という時間はあっという間にすぎた。朝、目を開けるともう演習当日だった。

 午前五時に出発したマイクロバスは、三時間ほどで横須賀市に到着した。

 夏季演習は武山駐屯地の宿舎を借りて行われる。同駐屯地には工科学校が併設されており、対抗戦形式の合同訓練も企画されている。また、立地的には防衛大や横須賀基地とも近いため、訪問研修もあるそうだ。全部で二泊三日の行程だが、そのうち研究所が付き添うのは遠泳訓練が行われる二日目だけだ。

 出発は走水(はしりみず)小学校の横にある砂浜、目的地は四キロ先にある猿島だ。東京湾を陸地にそって泳ぐため、波にさらわれる危険は少ない。

 集合時間の午前九時には、第三教育隊の約九十人が水着姿で集合していた。ほとんどが海パンに水泳帽だが、稀に女子も混じっている。

 天気は快晴。気温も朝から三十度を越え、絶好の水泳日和だった。

 バスの中で水着に着替え、天助は砂浜に降り立った。

 海水浴場とは反対側にあるため、周囲に一般の客はいない。代わりに見学やボランティアの民間人がちらほらいる。海にはボートが何艘か浮いていた。海岸には救護テントも建てられ、万全の体制だった。

 研究員らは生徒たちと別口で集合していた。支給された水着は同じだが、肌の色が違うため区別をつけるのは容易だった。生徒らは学校のプールで嫌というほど練習を積んでいるため、肌が綺麗に焼けている。対して研究員は一様に肌が白い。特に天助はこの場の誰よりも白い。

 日焼けと身体能力に因果関係はないが、萎縮せずにはいられなかった。

「我々の紹介があるそうだ。行くぞ」

 そのとき、競泳水着を着た誰かに声をかけられた。生徒にしては口調が乱暴だった。加えて他の生徒よりも日に焼けていない。よく見ると水泳帽を身につけた観月だった。

「何をじろじろ見ている?」

「ごめん、生徒かと思って。高森さんって、見た目が若いよね」

「それは何か。私が幼いと言いたいのか?」

 観月は上目遣いで睨んでくる。

「違うって! 肌が綺麗だってこと!」

「何を浮ついたことを。さっさと行くぞ」

 観月は呆れたような息を吐いて、ひとりで行ってしまった。その後姿は引き締まっていて、手足も長かった。怒らせたのも忘れて、しばし見入る。

「早く来い」

 もう一度言われ、天助は慌てて足を動かした。


「研究所から参加してくださる方々を紹介します」

 教官の紹介で、天助たちはひとりずつ挨拶をした。参加するのは研究所第一小隊のメンバーだ。総勢九名しかいないが、最年長でも三十代。体力的には十分高校生と張り合えるレベルだ。そのせいか、経験で(まさ)る研究員が勝って当然という空気が漂っていた。先輩方の胸を借りる気持ちでやれ、などと言われ、天助は玉の汗を浮かべる。

 紹介が終わると、全体で準備運動をした。

 そのあとはもうスタートするだけだ。各自で追加のストレッチをするよう言い渡され、待機となった。往路で固めてきた完泳イメージが、早くも曖昧になってきていた。

 そのとき、里佳がこっそりと近づいてくる。天助の顔に口を近づけ、耳元で囁いた。

「双海さん、練習はしたんですか?」

「したよ。自分なりに」

 この二週間、研究所は通常訓練に水泳を織り交ぜていた。毎日ではないが、密度の高い訓練ではあった。

「どれくらい泳げるんですか?」

「練習では二キロ」

「うわぁ……」

「でも、ネットで調べたら、塩水で体が浮くから遠泳は意外に楽だという話だったよ」

「検討を祈りますね!」

 理屈の上では大丈夫なはずだった。しかし、里佳の反応を見て、不安になった。完泳できなかったら観月になんと言われるか。まして救護される羽目になったら目も当てられない。

「どうしたらいいかな? 今からでもできること……」

「おい、もうすぐスタートだぞ。戻れ」

 里佳に相談したところで、観月が呼びに来た。里佳は両手を合わせる仕草をして、生徒の隊列に戻っていった。答えは祈り。そう言っているように思えた。

 天助は苦笑交じりに、両手を合わせた。信仰する神などいないが助けてくれれば誰でもよかった。

「双海、ちょっといいか」

 そんな折に観月は追い打ちをかけるようなことを言ってきた。

「我々研究所チームは上位独占を目標にすることとなった。足を引っ張るなよ」

「えぇ!? 無理だよ!」

 なんて無茶な目標を立ててくれたのか。完泳することすら厳しい人間もいるというのに。

「最初から諦めるな。負けたら示しがつかんだろうが」

「でも、研究員は生徒が出払ったあとに出発する予定だよ? 上位になるには、生徒を全員抜かすしかないじゃないか」

「それをやる予定だ」

 観月は余裕しゃくしゃくに言う。おそらく、彼女や染島ならできるのだろう。だが、天助には荷が勝ちすぎる相談だった。何か反論しなければと思う。しかし、この場で何を言っても無駄なのは明らかだった。やがて染島たちもやって来て、研究所チームで円陣を組んだ。絶対勝利の宣言があまりに重く、天助はこの体はもう水に浮かないのではという妄想に駆られた。

 九時半になり、遠泳演習が始まった。

 きりきりと痛み出す腹を抱え、天助は海に入っていく生徒を見送る。

 すぐに研究員の順番はやってきた。天助は観念して、海へ足を踏み入れる。

 海水は冷たく、凍えるようだった。水温二十四度の海で二時間泳ぐと、体温は二度下がると言われている。平熱が三十五度台の人間なら、三十三度になる計算だ。低体温症は免れ得ない。だから、体脂肪を高めに保つことが、遠泳では有効だとされていた。そんな知識を今更のように思い出し、天助はこの二週間をやり直したい気持ちに駆られた。

 練習を思い出し、平泳ぎで生徒たちのあとを追いかけた。


 海は穏やかで序盤から中盤にかけては、スムーズに体が進んだ。

 思いの外、波が邪魔だったが、大した障害にはならなかった。序盤から全力で泳ぎ進めたためか、生徒を含めても真ん中より少し下程度につけていた。観月の指示通りとまではいかないが、最下位グループだけは避けたいと思った結果だ。

 しかし、終盤に差し掛かったところで、その選択を後悔し始めた。燃料切れを起こしたかのように、腕に力が入らなくなった。体温が下がりすぎたのかもしれない。歯の根が合わず、カチカチと音を立てている。何も考えられない。脳に血が回っていない。

 順位は一気に下がった。生徒の最後尾から数えて五人目だった。いつ回収船が来てもおかしくない場所だ。回収船とは、遅すぎる生徒を安全上の理由で拾い上げる船だ。船に追いつかれた時点で脱落となる。もちろん、これは生徒の間でも不名誉なこととされている。研究員が混じったとなれば、権威の喪失につながるだろう。

 技術者の価値が遠泳で損なわれるなど、全く実務的ではない。しかし、軍隊ではそれが常識だ。民間の思考法が通用する場ではない。

 天助は歯を食いしばって泳いだ。霞んだ視界に、島影がくっきりと見えるようになってきた。脳内では、ずっとWhile(1)腕を回す、というプログラムが響いていた。

 次の瞬間、耳元で「頑張れもう少しだ!」という声が聞こえた。ボートの上から教官が激励をしていた。ボートが出ているということは、島が近い証拠だった。周囲には複数人の生徒が泳いでいた。回収船から逃れた最下位グループだった。

 波が次第に大きくなってきた。足の裏に砂地が触れた。波に体を任せると、両足で立てるようになった。水位も下がり、気づけば腰の高さまでしかなかった。歩けば砂浜にたどり着けるところまでやって来ていた。だが、浮力を奪われた体は言うことを聞かなかった。自分の体重を支えられず、天助は顔から水面に倒れこんだ。もがいてみるが、足を突っ張ることも難しかった。

 波を顔に受けて、息ができない。

 ゴールの直前が最も危険だと言われていた理由がよくわかった。気を抜いた瞬間に持っていかれる。泳げばよかったが、立ち上がることにこだわってしまい、半ば溺れる形となった。

 息が苦しくて海水を飲んでしまう。同時に吐き気に襲われた。

 不意に腕を引っ張られ、顔が外気に触れた。

「おい、大丈夫か!?」

 小さな肩が天助の体の下に差し入れられる。真下から誰かが顔を覗き込んでくる。ゴーグルをしていてもわかった。観月だ。

「ご、ごめん、大丈夫……」

「こんな浅瀬で溺れる奴があるか、このバカ」

 観月は文句を言いながらも、肩を貸してくれた。足に力が入らず、体重のほとんどを観月に預ける格好となった。

 海岸にはほとんどの生徒がたどり着いていた。石段に腰掛け、呼吸を整えているようだった。

 天助は手近な木陰まで運ばれた。観月は天助の呼吸と脈拍、体温を確認すると、低体温症だと結論づけた。

「真夏なのに体温が足りないなんてね……」

「遠泳ではよくある話だ。ゴールでは熱いコーンスープを配るくらいだ」

「あぁ、それ、すごく欲しいかも」

「今、持ってきてやる」

 観月はテントへ走っていった。

 天助は青空を見上げ、冷える手に息を吹きかけた。ところが、呼気の方が冷たくて余計に手が冷えた。今が夏であることに感謝するばかりだった。

「双海さん、大丈夫ですか!?」

 観月と入れ違いに里佳がやって来た。

 一部始終を見ていたのだろう、焦った様子だった。天助とそう変わらない順位でゴールしたのか、唇は紫色のままだった。そう思うと、急に溺れた自分が恥ずかしくなってきた。

「ありがとう。溺れるなんて情けないね」

「猿だって木から落ちるんだから、溺れるときは溺れますよ! でも、ホント、無事でよかったです」

「だけど、高森さんには怒られるんだろうなぁ。生徒に負けるなんて」

 天助が弱音を吐くと、里佳はやんわりとそれを否定した。

「怒らないと思いますよ」

「どうして?」

「だって、双海さんが溺れてるのを誰よりも早く見つけて海に飛び込んだの、観月さんなんですよ? 一番心配してるはずです。無事を喜んでいて、怒るどころではないと思います」

「そうだったら嬉しいね」

 思わずしんみりする。里佳は冷やかすようなこともなく、いつもの調子で言った。

「そうですよ! 私が保証します!」

「何を保証するんだ?」

 里佳の背後から観月が顔を出した。両手に紙コップを持っていた。里佳は二歩も後ずさりをした。

「な、なんでもありません!」

 そのまま逃げるようにその場を去った。観月は首を傾げながらも天助の隣に腰を下ろした。

「飲めるか?」

 コーンスープを口元まで運んでくれる。同僚としての義務感なのか、個人的な感情なのかはわからない。けれど、一応、心配してくれているのだろう。気遣いが心に染みる。

「ごめん、生徒には勝てなかった」

 謝罪の言葉が口をついた。どうせその話になるだろうから、先に言ってしまおうと思った。

「その話はもういい。お前はよくやった」

「怒らないの?」

「怒れないだろう」

 観月はため息をついた。心なしかほっとしたような表情もしていた。里佳の言葉が脳裏をよぎった。そこまで無事を喜んでくれていたとは……。涙がこみ上げるほどに感動した。しかし、そのあとの一言が何もかもをぶち壊した。

「昼食後は砂浜で訓練がある。先輩として意地を見せろよ」

「この状態の人間を走らせようとするのか……」

「ただでさえ醜態を晒したんだぞ? 挽回しようと思うのが普通だろう」

 いかにも観月らしい考え方だった。変に優しくされるよりは安心するが、……もう少し気遣いがあってもよいと思った。

「愛の鞭って奴ですね!」

 遠くで見ていた里佳が無責任なコメントを残した。


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