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サイバーシステム保全隊本隊は都内の一角にオフィスを持っていた。フロアは近代的な内装で統一され、新進気鋭のITベンチャーのようだった。
本隊には二百名ほどが所属しており、担当により四つの小隊に別れている。目下、最も慌ただしいのは情報収集担当の第一小隊だった。
小隊長を務める小野寺晴彦一等陸尉は、作戦の最終確認を行っていた。ツクヨミ作戦と名付けられたイ五十号作戦は、拉致された空軍兵の救出を目的としている。
犯人グループを特定したのも彼の小隊だった。現地での捜索活動をバックアップする形で、インターネット上の情報を集めた。有力候補を現地部隊が洗い、昨晩、特定に至った。
空軍兵が幽閉されているのはシリアの首都ダマスカス。郊外に位置するアパートだった。
救出作戦は駐屯軍によって秘密裏に行われる予定だ。市街地であるため、十名程度の精鋭が家屋に突入し、空軍兵を奪還する。作戦は現地警察にも伝えていない。いかに国際社会の目を欺くかが鍵だからだ。
空軍兵の拉致が公になれば、自衛軍の沽券に関わる。突入作戦は、世間的にはなかったことにせねばならない。よって、本作戦における最重要項目は、敵武装勢力の無力化ではなく、映像記録装置の破壊だった。
現地の調べで、敵のアジトにはカメラが仕掛けられていることがわかっていた。万全を期すためには、突入に先んじてカメラを無力化すべきだろう。更に通信も断つことができれば、万が一撮影された場合でも情報拡散を阻止できる。対処の幅も広がるし、その時間で映像メディアを破壊することも可能だ。
基地では公衆回線の寸断が検討されたという。
簡単ではない作戦だった。インターネットの遮断はケーブルを切ればいいだけだが、集合住宅の回線は管理人室の終端器を通り、土中を通って公衆網に抜ける。一部屋のみを狙って切断するには、現地人の協力が必要になる。作戦の趣旨を思えば、選びづらい選択肢だった。となれば、ネットワーク機器に侵入して電子的に回線を遮断するしかない。
問題は他にもある。敵アジトではWEBサーバが稼働している疑惑があるのだ。市街で停電が起こった際に、武装勢力のWEBサイトへ一時的にアクセスができなくなったためだ。サーバには空軍兵の拷問映像などが保存されていると見られ、破壊は必須だ。
電力を断つ作戦が考案されたが、厄介なことにアジトは自家発電装置を備えていた。電力インフラの安定しない地域では各家庭でバッテリーや発電機を持つことも多い。長時間の停電にも耐えるだろう。
この時点で、サイバーシステム保全隊に協力依頼がやってきた。正しい判断だったと小野寺は思う。空軍に電子戦をさせるのはあまりに酷だ。
課題は多かったが、一つずつ丹念に潰していった。実行可能な状態にまで仕上げられたのは、やはり民間から引き抜いた技術者のなせる技だろう。性格に難があろうと、現場で最も偉いのは実力を持つ者だ。
作戦開始は現地時間で翌午前二時。二十時間ほどの猶予があった。隊員たちに再度、激励を行ってもよいだろう。
小野寺は早速、第一小隊のある区画へ向かった。
第一小隊は五十名の隊員を擁するが、彼らは一つの机に群がっていた。
「何をしているんだ?」
声をかけると、隊員のひとりが甲高い声で言う。
「あぁ、隊長。作戦の成功祈願ということで、差し入れが来ているんです」
「どこからだ? 秘密作戦だぞ?」
空軍と連携するものの、作戦自体は軍で完結している。防衛省でも知る者はごく一部だ。
「国会からですよ」
隊員が口にしたのは、とある議員の名前だった。自衛軍の海外派遣を猛烈に後押ししたことで有名な人物だ。どこで聞いたかは知らないが、議員ともなると耳が早い。
「有名店の和菓子ですよ。こんなに美味しいものは初めて食べました!」
「おい、俺の分も残しておけよ」
小野寺は隊員らに混じって、菓子折りに手を伸ばす。民間出身者の多い部隊だ。規律や態度に関して厳重な注意をしても、効果は薄い。あえてリラックスした雰囲気に水を差すこともない。訓示は落ち着いてからにしよう、と小野寺は思った。
†
染島から電話があったのは午後十時すぎだった。自宅からかけているのだろう、子供のぐずる声が聞こえていた。
「双海。非常事態だ。今すぐ研究所に来い」
「何があったんですか?」
「詳細は現地で話す。他の連中はすでに向かっている。お前も急げ」
言うだけ言って、電話は切れた。しばらく電話の前でぼんやりとしてしまった。
「どうかしたの?」
寝巻き姿の母が現れる。
「ちょっと、職場から呼び出されちゃって」
「こんな時間に? もう十時よ?」
母は眉をひそめた。
「緊急なんだって」
「緊急って……。何があったの?」
「さぁ。教えてくれなかった」
「人を呼び出すのに用件も告げないなんて……。社会人としての常識がないんじゃないの?」
母は口をとがらせた。天助も少し前なら、同じように怒ったかもしれない。だが、今は染島が用件を告げない理由がわかる。
電話はNTT所有の回線だ。暗号化もされていないし、交換器にログが残る。秘密の連絡には心もとない。社会人としての常識とは、つまるところ民間人の常識だった。
「行ってくるよ。たぶん、今日は帰らないから先に寝てて」
「気をつけてね」
母に見送られ、天助は家を飛び出した。
天助が研究所へ到着した頃には、すでに十名ほどが到着していた。全十七名のうち、半数以上だ。
「双海、到着しました。何があったんですか?」
「こっちに来てくれ」
染島に先導され、研究室を出た。向かったのは会議室だった。観月、横田、それから、制服姿の男性がいた。男性は顔色が悪く、隣には付き添いの女性もいた。時折、机に突っ伏して苦しげな声を上げていた。ただ事ではない空気が漂っている。
「座れ。簡単に状況を説明する」
染島に言われ、天助は腰を下ろす。息をつく間もなく染島は恐ろしいことを言った。
「本隊の第一小隊が攻撃を受けた」
「え……?」
「国会議員を名乗る何者かが毒入りの菓子を送り、作戦参加者全員がそれを口にした。幸い死者は出ていないが、症状が重篤な者が多い。犯人は現時点で不明だが、本隊では明日の一、二、◯、◯時から空軍と連携して、とある作戦を実行する予定だった。それを阻止しようとする何者かによる犯行の可能性が高い」
「ちょ、ちょっと待ってください。いきなりすぎてついていけません。その作戦って、一体何なんですか?」
「空軍兵の救出作戦だ。電子的に敵勢力のインターネット回線を遮断し、突入を仕掛ける手はずだった」
空軍兵の響きに思い当たるふしがあった。土曜日にも観月と話した。本隊で対応と聞いていたが、なぜ今になって研究所に話が来るのか。
染島がその答えを口にした。
「本隊の第一小隊が倒れた今、作戦の受け皿がいる」
「……それが研究所なんですか?」
「そうだ。以後、電子戦の部分は我々主導で行うこととなった」
「なんて無茶な……」
思わず本音が漏れた。作戦の存在すら知らなかったのだ。空軍を救うと言っても、何をすればいいのか、検討もつかない。そんな状況から十四時間後に作戦開始など無謀にすぎる。
「お前は敵にもそう言うのか?」染島は淡々と告げた。「敵が待ってくれると思うか?」
反論はできなかった。これは仕事ではない。戦いだ。急に仕事を言いつけるなんてマナー違反だ、という文句は通用しない。それは平和な社会の民間の話だ。
「隊長、質問をしてもよろしいですか?」観月が口を挟んだ。「なぜ我々なんでしょうか。第一小隊が倒れても、本隊には第二から第四まで小隊があります。そちらに移譲すれば話が早いのでは?」
「それができればよかったんだがな」染島はため息をつく。「秘密作戦が敵にバレていたという事実は重い。所在地を公開していないにもかかわらず菓子折りが届いたことを思えば、本隊は情報の機密性を保てていないと見ていいだろう。本隊で主導すれば、また敵に先手を打たれる」
どこから情報が漏れたのか判明せず、稼働不能に追い込まれている。それはつまり、サイバーシステム保全隊本体が情報戦に敗北したことを意味していた。
「実行延期は?」
観月は重ねて質問する。
「不可能だ。作戦が漏れた以上、敵が拠点を移すこともあり得る。無理にでもやるしかない」
「ありがとうございます。理解しました」
観月はそれ以上何も言わなかった。すでに状況を受け入れているのか、落ち着いた態度だった。天助も冷静になろうと努力する。しかし、混乱しっぱなしの頭は言うことを聞かなかった。
「俺からは以上だ。ブリーフィングを始める。話せるか?」
染島は男性に向かって声をかけた。
「そのために、来ました……」
男性は苦しげに言う。
「つらいだろうが、引き継ぎまでは耐えてくれ」
「はい。自分が一番軽傷でしたから……」
彼は壊滅した隊からやって来たようだった。当然、毒入りの菓子を食べたのだろう。それでも引き継ぎのために栃木までやって来た。まさに体を張った行動だった。どれほど混乱していても、彼の話を聞き逃すわけにはいかない。
天助は集中して耳を傾けることにした。
「ふたりが幽閉されているのは、ダマスカスにある集合住宅です」と男性は言った。
ダマスカスはシリアの首都だ。古代から続く旧市街地と近代的な新市街地が混在する街で、カシオン山から林立する高層ビルが見渡せる一方、その裏手には城壁に囲まれた区画がある。貧富の差が激しく、路地を一本抜けるだけで別世界に来たような錯覚を受けるという。
「問題の集合住宅は旧市街地側にあります。現地の情報によれば、五階建てのコンクリート製。住民はほとんど一般市民で、一部屋のみが武装勢力によって使用されているそうです」
「敵は何人いるんだ?」
染島が聞いた。手元には男性の持ってきた資料があるものの、まとまりはなく、ほとんどがメールの印刷物だった。秘密作戦の場合、資料を見やすくまとめることはない。今はその体制が仇となっていた。
「アジトには複数名の男がいるそうです。この三十時間で数度の出入りがあったとか。夜間でも見張りがいるらしく、数時間おきに部屋の明かりがつきます」
「カメラ類は?」
「あります。玄関とベランダにはWEBカメラが設置されています。無線LANの電波が飛んでいることから、WEBカメラを無線LANルータにつないでいるようです。WEBカメラの製造元を当たった限りでは、インターネットからカメラの映像を見ることもできます。本作戦で最大の脅威となるのがこのWEBカメラと言われています。他にも敵アジトにはWEBサーバと自家発電機があることがわかっています」
本隊はこれらを無効化するために、無線LANルータに侵入し、インターネットアクセスを無効化する作戦を立てていたようだ。
単純だが、それ以外に活路はないように思えた。状況次第では踏み込んだ作戦も立てられるが、情報が少なすぎた。それは本隊も同様らしく、情報待ちの状態だったという。
「WEBカメラの台数はわかるか?」
「いえ、それは……」
男性はそこまで話して、急に苦しみ出した。本来なら安静にすべきなのだ。いつ容体が変わってもおかしくなかった。
「車を手配しろ。宇都宮駐屯地へ運べ」
染島は介助をしていた女性に命じる。
「まだ、大丈夫です……」
男性は歯を食いしばって耐えるが、染島はそれを認めなかった。
「もう十分頑張った。あとは俺たちに任せろ」
男性を担架に乗せて、地上に運んだ。車に乗せ、駐屯地へ搬送してもらった。男性は最後まで引き継ぎを望んでいたが、意識がもうろうとしていたため、続行は不可能だった。
「菓子折りに疑いもなく手を付けるとは所詮民間出身者だな」
研究室に戻ると、染島は悪態をついた。あの場でこそ口にしなかったが、危機意識の欠如に不満を持っているようだった。同じく民間上がりの天助は居心地の悪さを覚えた。
「双海。お前はどう思う?」
「どうとは……、何がですか?」
「今ある情報だけで作戦は遂行可能か?」
染島は怒らずに聞き直してきた。天助は作戦概要を思い返しながら、答えた。
「本隊の作戦は、ラフですが、できることの限界という気がします」
「どうしたら更に煮詰められる?」
「……情報がないことには何とも。調査の必要があると思います」
「なら、現地に問い合わせて、追加の情報がないか聞いてみろ。まだ時間はある」
染島は時計を見て言った。午後十一時。残すところ十三時間だった。シリア時間の深夜に作戦は開始される。夜が更けるまでがタイムリミットというわけだ。
「……今からですか?」
現地に控える突入部隊との連携も考えれば、時間はかけられない。本隊との調整、現地回線へのアクセス方法の確立、研究所の情報漏えいリスクの見積もりなど、やらねばならないことは無数にある。
「流出した作戦が通じるわけがないだろう」
染島の言葉は正論だった。手の内を知られたままで戦えるわけがない。あと半日で、情報を集め、作戦立案からやり直さねばならない。絶望的な状況だった。しかし、天助はその絶望に懐かしさを感じていた。ITベンチャーにいた頃は、似たようなことが何度もあった。サービス稼働前日に致命的なバグが見つかり、システムの根幹部分に手を加える。終わりの見えない状況は、人の心を蝕むのだと知った。
今もそうだ。あのときと違うのは、懸かっているものの大きさだった。売れるかどうかもわからないサービスと人命。どちらが重大かは比べるべくもない。責任の重さに手が震えた。
「……わかりました。現地に協力してもらって情報収集に努めます」
「我々も同様の作業でよろしいですか?」
観月が聞くと、染島は首を横に振った。
「いいや、作戦立案は双海に一任する。待機中の者に手伝わせる。高森にはオペレーターをやってもらう。その準備を進めろ」
「私がですか?」
オペレーターは現地の人間に対して指示を出す立場だ。遠隔から敵のシステムを攻撃するにしても、無線LANの電波が拾える位置にパソコンを置いてもらうなど連携必須の場面はいくらでもある。それらを一手に引き受けるのがオペレーターだ。
通常は位の高い者が担当する。ここでは染島のはずだった。
「俺はこの後、東京に向かわねばならなくなった」
「東京にですか? この一大事にどうして……」
「防衛省から説明に来いとの呼び出しだ。断るわけにはいかん」
「そんな」観月は絶句した。「司令はいらっしゃらないんですか?」
「司令は、すでに空軍との調整に向かっている。この規模だ。次に階級の高い者を選ぶと俺になる」
防衛省の人間に状況を伝えたところで、事態が好転するわけではない。そのために戦力を削るなど、むしろ逆効果だ。
「防衛省は研究所が本隊と同程度の組織だと勘違いしているのかもしれない」と染島はぼやいた。
「……私はまだ若輩者です」観月は珍しく言葉を濁した。「椎名隊長では問題なのでしょうか」
椎名は研究所第二小隊の隊長だ。階級で考えれば、畑違いとはいえ観月よりは適任に思えた。
「第二小隊は奴を含めて都内で別作戦にかかりきりだ。呼び戻せるような場所じゃない」
「……承知しました。拝命いたします」
しばしの時間をおいて、観月は言った。さすがの彼女も覚悟を決めるのは簡単ではないようだった。普段ほどの覇気が見られない。
「では、あとのことは頼む」
染島はそう言い残し、足早に研究所を出て行った。部屋には第一分隊の三人と、指示を待つ数名の研究員が残された。観月は染島がいなくなったあとも、しばらく立ち尽くしていた。
「大丈夫だ。俺たちがバックアップする」固まったままの観月に横田が声をかけた。「俺はお前より四つ年上だが、隊長に信頼されなかった。むしろ気遣ってくれ」
天助はその言葉に驚いた。横田は自分と同い年のはずだ。そうすると、天助から見ても観月は四つ年下となる。二十三歳。大学を卒業したばかりの新人と言って差し障りない年齢だ。
その年でこんな重大な役目を任される。いかに染島が彼女を信頼しているかがうかがえた。
だが、同時に不安にもなった。この任務を二十代前半の観月が請け負うには、あまりに責任が重すぎないだろうか。
「軽口を叩いている場合ではないだろう!」
横田がヘラヘラと言ったため、観月は彼を睨んだ。
「怒るなよ、わかってるって」
「なら、さっさと取りかかれ。お前は研究所のセキュリティを見直せ。双海は作戦立案だ」
「え?」
不意に自分の名前を呼ばれ、天助は返事をしそこねた。
「え、じゃない。立案は作戦の要だぞ。自分が背負ったものを自覚しろ」
「あ、うん。わかってる」
観月に言われ、天助は自席に戻った。観月ははっきりした声で、残った研究員に指示を飛ばしていた。責任に潰されそうな気配はみじんもない。天助の不安は杞憂に終わりそうだった。
それに、今は他人のことを考えている場合ではない。こうしている間にも刻限は近づいているのだ。腹痛に見舞われても、敵は待たない。
新たな作戦を立案する。そのことに集中すべきだ。
†
何をするにしてもまずは情報がいる。天助は本隊から渡された膨大なメールのプリントアウトに目を通した。一つのメールスレッドで複数の話題が展開されたり、横槍が入れられたりと読解には時間がかかった。
そのくせ、最後まで読んでも作戦に関係する話題が出て来ないこともあった。実際に作業する工兵と尉官の会話が混ざっているのが原因だった。
すべてのメールに目を通した時点で、二時間が経過していた。結局、隊員から引き継いだ内容以上のことは書かれておらず、作業は振り出しに戻った。
天助は現地の人間に至急追加の情報を送るようメールを書き、待ちの態勢に入った。
その間に手元の情報だけで作戦を考えられるか試してみた。確定情報がないため、もしここがAだったらBをする、CだったらDをする、というように、チャートを作った。すぐに何百通りにも組み合わせが爆発した。とても文書ではまとめきれない。状況が確定したら資料にしようとメモ書き程度に留めた。
そんな調子で時間がすぎた。さっき時計を見たときは深夜の零時だったが、今は午前五時だった。
窓のない研究所では時間の流れが曖昧になる。残された時間は、あと七時間。
現地からは何通かメールが来たものの天助が望むような内容は送られてこなかった。現地は現地でてんやわんやの騒ぎらしく、情報系の知識に疎い人間が天助の相手だった。何を説明しても理解されない、不毛なやり取りとなった。
「おい、双海はそろそろ寝ろ。開始二時間前に起こすから」
同じく徹夜した横田に言われた。途中から情報収集を手伝ってもらっていたが、彼の方もこれといった成果を得られていなかった。
「けど、まだ作戦ができてないんだよ? ……あと七時間なのに」
口にすると焦りが湧いた。眠気などなく、ただ何もできていない現状に絶望するしかなかった。できることなら、目を背けていたい。
「もう今あるだけでやるしかないだろう」横田は疲れきった顔で言う。「このまま待っていてもらちがあかない」
「そうだね。あれ? ブリーフィングはいつだっけ?」
「そう言えば、何も聞いてないな」
横田も首を傾げる。思い返せば、染島が研究所を後にしてから、一度もメンバー間で情報の共有がなされなかった。やれ、という命令がなかったからだ。今の現場責任者は観月だが、アドバイスしてやれなかった自分らも悪い。
「二時間前に起きるから、そのあとで最終チェックをしようか」
「そうしろ、そうしろ。寝てる間は俺が他の奴らもまとめとく。お前は仮眠室へ行け。高森は……、いないな。先に寝たんだろう。やらしいことはしてもいいけど、ほどほどにな」
「それだけ冗談が言えるなら、あとは任せても平気そうだね」
「あぁ。メールが返ってきて、万が一、重大情報だったら起こしに行く」
「助かるよ。ありがとう」
天助は席を立って、ふらふらと研究室を出て行った。
仮眠室は地下三階だが、天助は階段を上って地上に出た。
一階には自動販売機と休憩室があった。寝る前に水を飲もうと思った。休憩室は薄暗く、空調も効いていなかった。朝だというのに汗が吹き出すほど蒸し暑い。
だから、まさか先客がいるとは思わなかった。誰かが丸テーブルに突っ伏していた。最初は寝ているのかと思ったが、その割には手に力が入りすぎていた。
観月だった。姿が見えないと思っていたが、こんなところにいたとは。
「何してるの?」
声をかけると、観月は跳ね起きた。尋常ではない驚きようだった。
「な、なんだ、双海か……」
「ごめん、驚かせちゃって……。こんなところで、どうしたの?」
「別になんでもない」
観月はそっけなく答えた。よそよそしい態度は今に始まったことではないが、さすがにこんな時間にこんな場所で何もせずに座っているのは変だった。
「もしかして具合が悪いの?」
悪い方に想像が傾いてしまう。こんなタイミングに風邪などひいたら。
「そうではない」
「ならいいけど……。でも、寝た方がいいよ。横田が十時に起こしてくれるって。そうしたら、ブリーフィングをしよう。手分けしてやったこと、まだ共有してないから。いや、高森さんが悪いんじゃなくて、ほら、俺も横田も気づいてたけど言うの忘れちゃってたから……」
沈黙が挟まることが怖くて、余計なことまでベラベラとしゃべってしまった。もうちょっとマシな言い方はなかったのか。恩着せがましい言い方をして、観月が喜ぶわけがなかった。
文句を言われることを覚悟したが、観月は気味が悪いほどに落ち着いていた。逆に天助にこう聞いてきた。
「お前は怖くないのか」
「え? 怖い?」
「作戦が。任務が。……怖いと思わないか?」
観月は顔を上げない。テーブルの染みに視線を向けたまま言葉を並べる。
「逃げたいと思うことはないか」
「どうしてそんなことを聞くの……?」
「大した意味はない」
観月はそう言うが、今の質問に意味がないとは思えなかった。天助はしばし迷って、本心を告げることにした。
「逃げたいとは思うよ。逃げられるならね」
「なら、なんで逃げないんだ?」
「なんでって聞かれても困るんだけど……」
「どんな志を持っていれば、そんな風に振る舞える? 何がお前を支えている?」
観月はやっと顔を上げた。目の下には濃い隈ができていた。朝日に照らされた頬には、涙の跡があった。乾いてからどれほどの時間が経ったのかもわからない。だが、観月は、昨晩、ひとりで泣いていた。その事実は動かなかった。
「偉そうに振舞ってみても、いざとなればこのざまだ。私は、お前に何も及ばない……。教えてくれ。お前は何を目指してここにいるんだ?」
観月はすがるような目で見てきた。別人のように思えた。怒鳴ってばかりの観月が、こんなに脆いなんて思わなかった。
大切な作戦の前なのになに泣いてんだよ。お前がしっかりしなきゃダメだろ。
疲れているから寝た方がいいよ。高森さんは俺なんかよりずっと立派だよ。
言いたいことと言ったらよさそうなことが頭の中でごちゃごちゃになった。結局、言葉は出てこない。ならせめて、観月の望み通りに自分の目的を聞かせてやりたいが、天助にはそれができない。
――――俺は犯罪者だったんだ。
そんなこと、口が裂けても言えない。言ったら、観月は怒って上に報告するだろう。そうしたら、作戦から外されるどころか警察沙汰だ。いわゆる臭い飯を食うはめに――――。
怒る。
ひらめきは唐突に降りてきた。それは逆転の発想だった。観月は怒っていた方がいいのかもしれない。プレッシャーに押し潰されそうになるよりは、怒りに身を任せた方が精神的にはマシな状態ではないか? 少なくとも怒っている間は、自分を保っていられる。
でも、それが逆効果になったら? 今以上に追いつめられたら、観月は立ち直れなくなるかもしれない。どうすればいい。天助は二の足を踏んでいた。しかし、判断に時間はかけられなかった。
覚悟が決まる前に、口が勝手に言葉を紡いでいた。
「志なんて言われても、ないんだよね、そんなもの」
「……ない?」
観月は傷ついたような顔で天助を見た。
「うん、ここに来たのは軍人として頑張りたいからじゃないんだ。自分のためかな?」
「どういうことだ?」
「俺、安定した仕事につきたいだけだったんだよね。本当は公務員がよかったんだけど、受からなかったから、軍隊にしたんだ」
思いつきの嘘をまじえて、観月の逆鱗に触れそうな話に仕上げた。アドリブながらもよいできだと思う。
観月の表情は、話を進めるうちにどんどん険しくなっていった。青白かった頬に赤みがさした。椅子を蹴倒して立ち上がり、大股で近づいてくる。
「双海、私はお前を誤解していた。お前は最低だ」
いきなりビンタを食らった。涙が出るほどに痛い。体が傾いで、肩から自動販売機にぶつかった。思わず、うずくまってしまう。
観月が休憩室を出て行く。だが、まだ言うべきことはあった。
「顔についてる涙の跡はちゃんと洗ってよ!」
歩み去る背中に大声で告げる。当然だが返事はなかった。これで観月が立ち直ってくれればと思う。ダメなら殴られ損だ。
天助は痛む頬を押さえながら、自動販売機でお茶を買った。一息に飲み干し、十分ほど待ってから仮眠室へ向かった。