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戦場のハッカー  作者: 森
4/12

 日を追うごとに日差しが強くなり、日中のアスファルトには陽炎が見えるようになった。時節は間もなく八月で、入道雲の浮かぶ空は夏真っ盛りだった。

 天助は汗だくになりながら自転車をこぐ。今年の夏は過去例を見ないような熱波が来ると言われていた。こんなときでも我が身一つで移動しなければならないのが、自転車通勤の悲しさだ。

 駐輪場に自転車を置き、逃げるように建物へ入る。人のいない一階はサウナのような環境だが、地下深くの研究所まではその熱気は届かなかった。迷路のような防衛設備を通りぬけ、地下二階の研究室へと向かう。

「おはようございます」

「あぁ、おはよう」

 途中、すれ違った研究員と挨拶を交わした。

 天助が研究所に着任して、三週間が経っていた。そのわずかな期間で天助の近況は劇的に変わっていた。挨拶をすると返事が返ってくるし、第一分隊の面々とは日常的な会話もするようになった。

 思うに、染島の態度が軟化したのが要因だろう。最初こそ厳しい態度を取っていたが、それ以降は観月と対等に扱ってくれた。初日のアレは通過儀礼だったと天助は思うことにしていた。

「おはよう! どうだ、双海、そろそろ慣れてきたか?」

 席につくと、筋骨隆々の男が声をかけてきた。天助から見て斜め前、隊長の隣に座る彼は横田(よこた)信夫(のぶお)。丸メガネが印象的だが、制服の上からでもわかるほどがっしりした体つきだ。年齢は天助と同じ二十七歳。隊長が優しくなってからというもの、少しずつ話をするようになった。

「うん。だいぶ、慣れたと思う」

「それはよかった! 初日はすまなかったな。担当が俺じゃなかったから、勝手に口を出すのもどうかと思って遠慮してしまった。仕事を取られたとわかると、あいつはとても怒るんだ」

 横田は最後の方を小声で言った。視線の先にはコーヒーをすする観月がいた。

「いいよ。味方がいたとわかっただけで収穫だったから。最近はなんだかみんな優しいし……。高森さんはまだ厳しいけど」

「あいつは誰に対しても厳しいからな。見た目はいいのに残念だ」

「かわいいよね」思わず同意してから、天助は慌てて付け加えた。「でも、実力もすごいんだよね」

「そうだな。高森は元々陸軍だったんだが、勉強して一年でセキュリティスペシャリストを取った」

「あのテストに受かったの?」

 セキュリティスペシャリスト試験は、毎年二回行われる公開テストだ。毎回二万人近くが受験するが、合格率はわずか十四パーセント。セキュリティエンジニアにとっては登竜門的な試験となっていた。

「第一分隊だと、染島隊長も持ってるな。俺は一度受けたがダメだった」

「二人も持ってる人がいるんだ」

「本隊の方には、もっといるぞ。あっちは防御が専門だから、必要なんだろうけどな」

 サイバーシステム保全隊は結成から二年と経っていない若い組織だ。通信兵や工兵から所属を変えた者も多いというが、目覚ましい進歩だ。

「双海、ちょっといいか」

 そのとき、不意に名前を呼ばれた。振り返ると、観月がこちらへ歩いてくるところだった。

「おはよう、高森さん」

「早速、お前にやってもらいたい任務がある」

 観月は眉一つ動かさずに用件を述べた。

「挨拶をしっかりすることって前期教練で習ったんだけどな……」

 指摘すると、観月は頬を引きつらせた。一週間前なら引き下がったが今は違う。自分と観月は対等だ。横田という存在が、そう思わせてくれた。

 観月はしばらくためらっていたが、しぶしぶと挨拶をした。

「……おはようございます。これでいいのか?」

「うん、おはよう。何の用?」

「今日はお前に授業に出てもらう予定だ。時間がないから、詳細は移動中に伝える。スーツに着替えて、一、〇、〇、〇に上で集合だ。頼めるな?」

 観月は早口で告げると、慌ただしく立ち去った。何の授業かもわからなかったが、口は自動的に了解と言っていた。

 軍隊に入ってから、考える前に体を動かす能力が飛躍的に高まった気がする。今までの生活が生活だっただけに、自分もこんな機敏に行動できるようになったぞと、少し誇らしく思えた。


 地上へ出ると、すぐに汗が噴き出してきた。午前中とはいえ夏の日差しは容赦がない。玄関を出たところで観月と合流した。観月の通勤服は白のブラウスに黒のパンツスーツ。体がスラリとしているため、ボディガードを演じる俳優といった雰囲気だった。

「ついて来い」

 観月は天助がやって来ると、すぐに歩き始めた。

「どこへ行くの?」

防情(ぼうじょう)学校だ」

「防情学校? ……それは何?」

「そんなことも知らないのか」

 聞くと、観月はぼやきながらも説明をしてくれた。

 正式名称は防衛情報科高等修業学校。サイバーシステム保全隊の人員不足を解消するべく、三年前に新設された学校だ。一般的な高専が文科省の管轄である一方、防情学校は防衛省の所属になるため、学校であって高校ではない。よって生徒の身分も防衛省の定員外職員だ。授業を受けることで給金が発生するが、内容は相応に厳しい。しかも、入校と同時に通信制の高校に入学し、普通科相当の教育も受けるというから、卒業生は漏れなくエリートだ。

 期間は高校と同じく三年で、卒業生の一部は研究所に着任予定だ。そのため、準備として部活動の代わりに研究所へインターンをしたり、研究員が定期的に授業をしたりするようだ。

「研究員は持ち回りで週に一度か二度ほど授業を行う。お前には三度ほど私の授業を見学したのちに、実習授業の講師をしてもらう」

「授業をするって、教員免許なんか持ってないんだけど……」

「教員免許が必要なのは文科省指定の学校だけだ」

「あぁ、そうか」

 ”学校だが高校ではない”ため、教師は誰でもいいのだ。もちろん、文科省の指導要領にないことを教えてもいい。

「ただし、教官としての振る舞いは当然求められるからな」

「そうなんだ……。うまく振る舞えるか不安だよ」

 鍛錬を積んだ生徒からすれば、入隊三ヶ月の天助は新座者だ。模範となれる自信がなかった。

「ふん、情けない奴め」

 うつむく天助に、観月は容赦なく言い放った。

「今のはさ、励ますところじゃなかった?」

「誰がお前など励ますものか」

 観月はそっけなく言って、先に行ってしまう。

 天助は呆然とその背中を見送った。いつものことだが、観月はなぜこうも厳しいのだろう。


 防情学校は一見すると普通の高校と同じだった。校庭や校舎に特徴的な部分はなく、校庭にいる生徒もジャージ姿だ。教員用入り口でスリッパに履き替え、校舎に足を踏み入れた。

 授業中だからか廊下はしんと静まり返っていた。建てられて間もないために壁や天井の白が眩しい。床にも丁寧にワックスがかけられていた。内観もいたって普通の学校だった。防衛省所属と聞いてどんなところかと思ったが、設備だけ見ると変わった点はない。

 天助が拍子抜けしていると、チャイムが鳴った。途端にあちこちの教室から生徒が姿を見せ、点呼を取り始めた。班員が整列し、指先まで伸ばした気をつけをする。そして、「次の行動にかかれ。別れ」の掛け声で散開する。外見は平凡でも、指導方針は軍隊式に改良されているようだった。

「何をしている。こっちだ」

 いつの間にか観月が廊下の先まで進んでいた。天助は慌てて、そのあとを追った。

 連れて行かれたのは三年生の教室だった。正式には三年生ではなく、第三教育隊と呼ぶそうだ。学年が上がるごとに異なる教育隊に移籍するという形式を取るためだ。クラス分けも組ではなく区隊で行う。したがって、ここは第三教育隊の第一区隊の教室というわけだ。

 教室には三十名ほどの生徒が物音一つ立てずに着席していた。始業の挨拶を済ませると、観月は教壇に立ち、授業を始めた。天助はアシスタントとして生徒の質問を受け付ける役目を負った。しばらくは出番がないため見学をする。

 授業の題目は、企業ネットワークへの侵入と主な攻撃方法についてだった。観月はテキストも見ずに朗々と語り始めた。

「日本が一日に攻撃を受ける端末は国内で数万から数十万と言われている。国外からだと、特に企業のサーバが狙われる。知っての通り、知的財産を狙ってのものだ。では、どのような攻撃が多いか? 当てずっぽうでいいから言ってみろ」

 質問をすると、ちらほらと手が上がった。観月はひとりを指名する。

「SSHです」

 利発そうな男子生徒が答えた。

「正解だ。他には?」

「FTPです」

「それも正解だ。外国からの攻撃はSSHやFTPを狙ったものが多い」

 SSHとFTPはインターネットの初期から使われているプロトコルだ。一般ユーザーには馴染みのないものだが、サービスの開発者は必ずと言っていいほどお世話になる。

 ハッキングでよく狙われるのは、こういう技術者向けの通信なのだ。

「では、SSHやFTPで使われるポートは何番だ?」

 観月は質問を続ける。高度な質問だが、生徒の何人かが手を挙げる。

「はいっ! 二十二番と二十三番です」

 小柄な女子生徒が元気よく答えた。

「正解だ。では、ポートとは何か説明してみろ」

「ポートとは、ソフトウェアが通信をする際に使う番号です。たとえば、ブラウザを使いながらネットゲームをする場合、それぞれがインターネットと通信をする必要があります。そのとき、予めブラウザが五〇〇〇〇、ネットゲームは五〇〇〇一とポート番号を割り当てておけば、ポート番号五〇〇〇〇宛のデータはブラウザだとわかります。逆にポート番号がないと、パソコンにやってきたデータが、ブラウザ宛なのかネットゲーム宛なのかがわからなくなってしまいます」

 観月が意地悪な質問をしても、女子生徒は難なく答えた。

「そうだ。あえて付け加えるなら、ポート番号は通信を受ける側にとっても重要だという点だ。WEBサーバのソフトウェアは、八十番のポートで待機すると国際的なルールで決まっている。そのため、ブラウザは八十番ポートに向けてWEBサイトのデータをくれと要求できるわけだ。だから、攻撃は常に特定のポート番号を狙って行われる。どこが狙われやすいか、何のソフトウェアが動いているか各自調べて暗記するように。ここまでで何か質問は?」

 観月がそうまとめると、教室は数秒ほど静かになった。

 男子生徒が手を挙げた。

「はい。攻撃されやすいポートの統計を見ていたのですが、UDPポートの五三四一三番を狙った攻撃が多いようです。これは何でしょうか?」

 質問を受けて、観月は押し黙った。ポート番号は全部で六五五三五個あるが、五〇〇〇〇より大きい数は特定のソフトウェアへの割当はない。使われていないことの方が多く、攻撃者が狙う道理はない。

「それはだな……」

 観月が困ったようにこちらを見てくる。天助は助け舟を出すことにした。

「中国にNetcoreという会社がある。海外にはNetisという名前で出しているんだけど、ここが作った一部のルータには製造時から不具合があるんだ。UDPポートの五三四一三にアクセスして、パスワードを入力すればルータにログインできてしまう。パスワードがハードコードされてるから、直しようがないんだ」

「そんなことがあったんですか? 製品に最初からそんな脆弱性があるなんて……」

 男子生徒は驚いたように言う。

「たまにあるんだよ。これは中国製のルータだから、中国から攻撃が多いんだと思うよ」

「そ、その通りです。攻撃はほとんど中国からです。ありがとうございました」

 回答を終えて観月に目配せをする。彼女は神妙な顔をしていた。

「お前はなんでそんなことまで知っているんだ……?」

「偶然だよ。ネットで調べて、なんとなく覚えていただけ」

「そうなのか……。習慣の違いか、経験の差か……」

 観月は悔しげに唇を噛みしめると、ぶつぶつと独り言を言った。どうも相当に負けず嫌いな性格らしい。



 授業が終わると天助は研究所に戻った。

 このあとは、勉強会をすることになっていた。先日の一件で外部ツールが有効とわかったため、試験的な導入が決まったからだ。ありものを使うのはエンジニアにはよくあることだが、すべてが特注品の軍隊では馴染みのない考え方のようだった。したがって、観月たちは攻撃コードを自作してきたわけだが、世間的にはむしろそれができるエンジニアの方が少ない。優秀だが柔軟性が足りない。天助の研究所に対するイメージはそれだった。

 プロジェクターを使って、天助は十人ほどに向かって講義をした。

 資料はクラッカー時代に作ったものを流用した。まさかこんな場所で役に立つとは思わなかった。

 講義内容はKali Linuxについてだ。

 Kali Linuxは、Debian OSに攻撃ツールが同梱されたものだ。天助が使ったNmapやMetasploitも最初からインストールされている。

 インターネット上で無料公開されており、誰でも使うことができる。本来の用途は、過去の脆弱性に対するテスト。つまり、防御側のツールだ。例によって、これを攻撃に転用しようというわけだ。

 今回は座学をしたあとに、実習をする予定だった。天助が用意したサーバに対してツールを使って攻撃してもらう。

「大丈夫? 何かわからないところ、ある?」

 順繰りに見て回りながら、観月に声をかける。

「問題ない。あったとしても自分で調べるから大丈夫だ」

 顔も上げずに拒否された。天助は思わずため息をついた。なぜこうも無愛想な態度が続くのだろう。知らぬうちに悪いことをしただろうか。

「双海、ヘルプを頼む」

 そのとき、横田が手を挙げた。天助は気持ちを切り替えて横田の席に向かった。横田は声を落としてこう言った。

「あいつのことは気にしすぎない方がいいぞ」

「え? あいつって……?」

「高森のことだ。奴が厳しいのは全員に対してだ。お前が嫌われているわけじゃない」

 横田は先程のやり取りを見ていたらしく、気を遣ってくれたようだった。

「そうなのかな? 他の人はあまり怒られてないと思うんだけど」

「そりゃ、双海以外は高森に及ばない連中ばかりだからな。いわゆるライバル心なんだろ」

 横田は大真面目に言った。天助が照れ隠しに黙っていると、横田はこう続けた。

「高森が双海に一目置いているのは間違いない。もっと自信を持て」

「一目置いているかぁ……」

 観月の言動から、その結論を導くのは不可能に思えた。嫌われたという方が納得できる。タメ口で話したこと、挨拶を強制したこと、思い当たる節は結構ある。もっとも、自分の素性を考えれば、嫌悪は当然の帰結なのだが。

「まぁ、あれだ。思いつめるな。そのうち、わかる」

 横田は投げやりに言った。

 半信半疑だったが、その言葉はすぐに現実のものとなった。



 週末の土曜日。

 天助は東武駅前からオリオン通りを経由し、大通りへ向かっていた。この辺りは、若者向けの店が揃っているため、宇都宮で最も人が集中する区画だった。

 通り沿いのPARCO前で立ち止まる。ガラス戸の横が待ち合わせ場所だった。目に入る限りでは、小洒落た格好のカップルが多い。彼らの視線が気になって、天助はガラス戸で服装を確認した。黒のジーパンにジャケット。ベンチャー時代に愛用していたセミフォーマルな服装だった。もう少しラフでよかったかと、不安になる。

「待たせたな」

 間もなく観月がやって来た。七分丈のスリムパンツに、淡い緑のノースリーブブラウスだった。肩から腕にかけてのラインが眩しい。制服以外を着せても観月はやはり綺麗だ。が、呑気に喜んでいる場合でもない。これは遊びではなく勉強会なのだ。

 きっかけは天助が漏らした一言だった。仕事の都合上、テロ組織の名前や地名は頻繁に使われる。だが、天助は中東情勢に関しては素人も同然で、地名と人名の区別もままならなかった。ブリーフィングの最中に「それは人の名前ですか」と発言する段に至って、観月が「勉強会をするから土曜日を開けておけ」と言い出したのだ。

 横田はライバル説を押していたが、ライバル相手に塩は贈らないだろうと天助は思う。

 他の人が来るまでの時間を潰そうと、天助はスマートフォンを取り出した。すると、観月は不機嫌な声で言った。

「何をしている。早く行くぞ」

「え。行くって、他に人は?」

「ふたりだけだ」

 観月は淡々と言った。

「えぇ!?」

「お前に教える目的なのだから、不要だろう?」

「まぁ、そうだね……」

 合理的に言い返され、天助は黙った。

 勉強会というくらいだから何人か来るのかと思っていた。まさかふたりきりとは。天助は早くも緊張し始めたが、観月は特に気にする様子もなかった。

 二人は東武宇都宮線に乗り、西川田駅で降りた。奇しくも研究所の最寄りだ。まさかとは思ったが、観月は研究所へ足を運んだ。

「せっかくの休日なのに……」

「勉強会を民間施設でできるわけないだろう」

「それはそうだけど……」

 観月の私服を見られたので天助としては満足だった。しかし、欲を言えば、民間の喫茶店で和やかに過ごしたかった。ここでは研究員の目もある。

 休憩室のテーブルに向かい合って座る。観月は鞄から資料を取り出した。手書きのノートだった。

「対中東戦略について、お前が知らなそうなことをまとめてきた」

「わざわざそんなことまで?」

「お前のためじゃない」観月はぴしゃりと言った。「双海があまりに無知だと任務に支障をきたすから、障害を取り除くためにやっているんだ」

「あぁ、うん、そうだよね……」

 淡い期待は手に乗せた粉雪のように溶けていった。追い打ちをかけるように観月は言う。

「大体、なぜ基本的なことも知らないんだ?」

「……ごめん。ニュースとかはあんまり見なくて」

 政治には興味がなかったし、外国ともなればなおさらだった。

 それに政治に関心を払わないのは、エンジニアの性だと思う。管理職になるような人材は別として、純粋に開発を行う人間というのは興味関心の分野が狭い。狭く深く掘り下げるのが仕事だからかもしれない。

「やはり基礎からまとめて来て正解だったな。ありがたく思え」

「思います」

 観月はノートをめくり早速講義を始めた。

 最初の内容は、天助たち第一分隊が相手にしているアラドゥーイという組織についてだった。

 アラドゥーイは、イラクとシリアを拠点とする武装勢力で、二〇一三年頃に猛烈に勢力を伸ばしたが、その設立は二〇〇四年と意外に古い。源流をアラカダーに置く彼らは、二〇〇六年に建国を宣言。今に至るまでに支配地域を拡大している。

 興隆の背景には、シリアの紛争がある。

 当時、アザド政権を倒そうとする反政府勢力はシリア国外で資源や人材を調達していた。大半はトルコ経由でシリアに流入したが、周辺国からも多くの民兵が流れこんだ。本来なら民兵が国境をまたいで自由に行き来することはない。しかし、タダフィ政権が倒れたばかりで混乱していたリビアなどでは、あぶれた民兵がシリアに転戦することを政府が黙認していた。こうした国家はリビア以外にも存在し、結果としてシリアには紛争の資源が集中することとなった。

 アラドゥーイの前身はこの風潮に便乗し、メスラ戦線というフロント組織を通じて、外部から寄せられる資源を受け取っていた。そして、各勢力が混乱しているうちに、他の反政府勢力をしのぐ巨大組織となったのだ。

 状況を重く見た国連は、人員の移動阻止を加盟国に義務付けたが、一度拡大したアラドゥーイの勢力は衰えず、むしろ弱体化したシリア政府を尻目に支配地域を広げる有様だった。

 シリアではテロの発生頻度も多く、一ヶ月に平均三件も自爆テロや銃撃戦が勃発する。ひどいときには一度の事件で三十名以上の民間人が死亡する。

 これはイラクでも同様だ。更には周辺国であるトルコ、エジプトでもテロは頻発する。

 以上が二〇一一年、アラブの春以降の中東情勢だ。武装勢力が跋扈し、西欧諸国が手を焼く構図は変わらない。ただ、武装勢力の影響力、資金力、支配力はかつてより大きくなっている。

「自衛軍はこうした地域の治安維持活動も行っている。今はイラクに基地が一つあるだけだが、将来的に増えることもあり得る」

 二〇一一年以前は中東に自衛軍の基地はなかった。

 二〇〇三年から二〇〇六年にかけては、フゼイン政権崩壊後のイラクに駐留し、米軍と共に治安維持に尽力したが、自衛軍は米軍基地を間借りする格好だった。

 自衛軍が独自の基地を持ったのは二〇一四年。わずか一年前だ。イラク西端アンバル州に航空自衛軍(空軍)が駐留している。

「――――現実世界の脅威はそんなところだ。戦場は中東地域に限定され、日本本土に火の粉が降りかかることはない。代わりに情報財の損害が著しい」

 アラドゥーイには専門の電子部隊が存在する。西欧諸国に対して、電子戦を行う任についており、極めて能力の高い集団だという。

 具体例としては、パリの某新聞社がハッキングされて、ホームページを改ざんされる事件があった。ペンタゴンのSNSアカウントが乗っ取られたのも有名な話だ。

「難しいのは、……敵が一枚岩ではない点だ。ボゴハノム、タリバーなど、アラドゥーイほどではないがある程度の規模を持つ組織も電子部隊を持っている。アラカダー関連組織だけでも十は確認されている。サイバー・カリフルスという電子戦のみを行う勢力も存在する。こいつらは連携することもあれば、個別に仕掛けてくることもある。事実上、動向の把握は不可能だ」

 数十とある組織からバラバラに攻撃を受ければ対処は難しくなる。実際、アメリカでは政府機関の情報流出の歯止めが効かなくなっている。

 昨年六月には、シリア電脳軍を名乗る組織が米陸軍のホームページを改ざんし、一時閉鎖に追い込むという騒ぎがあった。同年九月にはCIA職員の情報も含む政府職員の人事情報が流出し、香港の米国大使館から職員を引き上げさせる事件も起こった。これは中東組織によるものではないという見方が強いが、犯人は今もわかっていない。

「日本も同様の脅威に晒されている。ホームページの改ざんなら、まだいいだろう。だが、政府機関からの情報流出はどんなものであれ痛手となる。一介のテロリストが上げる戦果にしては、大きすぎる」

 だから、小規模組織を見つけたら先手を打って、攻撃を仕掛ける。資金源を絶ち、経済的に追い詰める。ホームページを改ざんし、リクルート活動を妨害する。

 大規模組織に対しては、テロ計画情報の奪取と妨害を行う。

 諸外国では数年前から専門の部隊が置かれていたという。日本は対応が遅れ、今年四月にようやく攻撃特化の電子部隊を発足させた。それが研究所だ。少人数ながらも課された責務はとても重い。

「公開情報になっている部分では、こんなところだな。少しは足しになったか?」

「うん、とても」

 天助は感心して、資料を読みなおした。コピー用紙で五ページほどだが、どれも要点がまとまっていた。手書きの丸文字もなんだか愛着が持てた。

「高森さんは、教えるのがうまいんだね」

「……持ち上げても加減はしないからな」本心だったのだが、観月は警戒するような顔をした。「一週間後にテストするから、そのつもりで暗記しろ」

「そこまでしてくれるの?」

「人にものを教えるのだから、それくらいは普通だろう?」

 観月は当然のように言った。何事にも全力を傾ける。彼女はそういうタイプのようだった。だからこそ、他者より頭一つ抜き出ていると言われるのだろう。

「ありがとう。とても助かるよ」天助は持ち込んだコーヒーを飲んで言った。「ところで、質問していい?」

「なんだ?」

「国内だとどういう組織が狙われるの?」

「最も多いのは防衛関連だろう。敵にとって最も価値のある情報を扱うからな」

「確かに……」

「イラクの基地でも同様らしい。常に情報機器への攻撃を受けているそうだ。特にここ数日は大変なことになっているからな……」

 観月は表情を曇らせた。四日ほど前だ。サイバーシステム保安隊本隊から、イラク基地の空軍兵が行方不明という報告があった。

 事件が起こったのは七月二十日。イラク駐屯中の空軍は同州のアサド空軍基地に訪問団を送っていた。中東戦略について米軍と協議したのち、訪問団は帰路についた。そして、その道中で武装勢力による襲撃を受けた。訪問団は装甲車両を複数台有していたが、奇襲を受けたために対応が後手に回った。死者二名を出す大事件となり、これは国内でも報道された。

 しかし、装甲車一台と空軍兵が消えたことは、公にならなかった。

「おそらくは武装勢力に拉致されたのだろう」

 それが防衛省の見方だった。ことの重大さは天助にも理解できた。人間とは生きている記憶媒体だ。日常的な生活知識、基地の構造、訓練計画、人員、装備など保有する情報には計り知れない価値がある。そして、サーバのようにハッキングすることが可能だ。武装勢力に法は通用しないだろうし、拉致に成功したのなら、間違いなく拷問にかけるだろう。流出する情報によっては、中東戦略そのものが瓦解しかねない。

「犯人はわかってないんだよね……?」

「あぁ。アラドゥーイ関連組織の線が濃厚らしいが、犯行声明が出ていないとなると手がかりがない」

「研究所の出番はあるかな……?」

「本隊が情報収集に当たっているようだし、今のところはないだろう。とは言え、研究所もできて半年だから任務の振り分けも絶対ではないが」

 観月は曖昧な返事をした。彼女も全貌を知っているわけではないのだろう。

 天助は囚われた軍人に思いを馳せた。日本から遠く離れた戦場で言葉も通じない敵に自由を奪われる。それは想像を絶するような恐怖だろう。無事を祈るばかりだった。そして、同時に情報収集任務が研究所に来ないことも祈っていた。軍属になってから言うのも難だが、他人の命を預かる仕事は荷が重すぎる。可能なら引き受けたくないというのが本音だった。

 そんな願いはすぐに裏切られた。

 研究所にとある依頼が来たのは、週明け月曜日のことだった。


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