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三ヶ月後――――、七月。
例年なら梅雨まっただ中の季節だが、今年は六月のうちに梅雨明け宣言が出され、早くも盛夏が訪れていた。
天助は額の汗を拭い、手元のメモとスマートフォンを見比べた。メモには住所が記されていた。天助の実家からほど近い西川田駅近辺だ。西川田には陸軍の駐屯地があるが、指定された住所は別の場所を示していた。
天助が配属されたのは、情報セキュリティ研究所という研究機関だった。統合幕僚監部サイバーシステム保全隊の配下に作られた専門機関で、サイバー空間の攻防が激化する世情に鑑み、今年四月に設立された。新機関設立に際して、防衛省は人員の募集をかけていた。サイバー防衛に関わる機関はどこも人手不足で、積極的に民間から引き抜きをしているらしい。天助は運良くその網に拾われた格好だ。
陸軍の曹候補生と共に三ヶ月の研修を終え、やっと正式な配属となった。スーツ着用のこと、と言われていたため、慣れないスーツを着て来た。
指定された場所には三階建ての建物があった。門扉には情報セキュリティ研究所と書いてある。軍組織であるため、周囲には高い柵が設けられ、入り口にも軍服姿の兵が立っていた。
「お疲れ様です。本日付で情報セキュリティ研究所配属となった双海天助三等陸曹です」
三ヶ月の研修で挨拶の仕方が体に染み付いていた。人生で今ほど背筋が伸びていた時期はないだろう。
「話は伺っています。こちらへどうぞ」
何の説明もなく男は歩き出した。
無言のままに自動ドアをくぐる。
中は殺風景なものだった。会社の受付に当たる部分は電話が一台置いてあるだけ。ドアをくぐってオフィスに入っても、使われた形跡のない机が並ぶばかりだ。他の人は階上で働いているのかと思いきや、男の示した方向は逆だった。
「地下へ行くんですか?」
外から見た限り、このビルは三階建てだ。なのになぜ下方向へ向かうのか。
「そうです。どうかしましたか?」
「いえ、何でも……」
研修の記憶が脳裏をよぎる。不用意な質問は叱責の対象だ。説明されない事柄は、知るべきではない。
男に促され、天助は階段を降りていった。
地下二階分ほど下ったところで、迷彩服を着た女性が待っていた。そこで案内役が交代するらしい。
女性に身分を告げると、会議室へ案内された。
椅子が六つしかない小さな部屋だった。廊下側に窓があり、中の様子が見えるようになっていた。壁の色は白で、これといった特徴はない。
「改めまして、ようこそセキュリティ研究所へ」
女性は人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「双海さんは、四月入隊でしたね。どうでしたか前期教練は?」
「すごく大変でした」
前期教練は自衛軍に入隊する者が必ず受ける基礎訓練のことだ。
最初は右回れ右や敬礼の仕方など基本動作を徹底的に学ぶ。次いで座学、基礎教練、更には十キロ超の背嚢を背負って山道を歩く行軍訓練や、射撃訓練が待っている。肉体的に苦しいのはもちろん、精神的にもかなりキツい。
あれだけ技術者がいたのに、三ヶ月でこんなに減るとは思わなかった。私見だが、顔を緑色にして草になりきる訓練はよくなかった。あのあと、同期がごっそり消えたのだ。
「でも、双海さんは射撃で優秀賞をもらってますよね。何かやられてたんですか?」
「偶然です。自分でも驚きました」
前期教練の最終日は、訓示と成績優秀者の表彰がある。銃を持ったのは初めてだったが、まさか自分が選ばれるとは思わなかった。
「目が良いって言われません?」
「パソコンをずっと使っている割には、そうですね」
「ですよね。でないと、あれは当たりませんから」
「ここでも銃を使うんですか?」
採用は技術職だが、念のため聞いてみた。
「いいえ、基本的に銃を使った訓練は行いません。春季と夏季に行う定期演習では扱いますが」
「業務内容は、どんなものをイメージすればよいですか?」
「それは現場の研究員から直接話を聞いた方が掴みやすいと思います。先に事務的な部分を済ませて、そのあとでご案内します」
女性は資料を何枚か用意し、事務連絡と注意事項を述べた。最後に制服を取り出した。
「研究所とは言え、軍属ですので勤務中はこれを身につけてもらいます。更衣室はこの部屋の向かいです」
訓練中に幾度となく目にした制服だった。あの頃は、夜が明けてこの服を見るたびに憂鬱な気分になった。制服に袖を通したなら、もはや民間人ではない。国を守る一員となるのだ。
気を引き締めよう。天助はそう自分に言い聞かせた。
†
研究所は四フロアからなる巨大な施設だ。地下一階はわざと迷いやすいような設計の防衛設備で、地下二階がメインの研究室。第一から第四研究室まであり、将来的には二百名ほどの研究者を集める予定だそうだ。
地下三階には作戦室や仮眠室があり、最下層の地下四階にはシェルターと司令室がある。シェルターは緊急時の武器庫や発令所も兼ねている。基本的に地下三階以下を使う場合は、何らかのアクシデントが発生したときのみらしい。
いくつかのセキュリティチェックをパスして天助は第一研究室に足を踏み入れる。研究室という名がつくものの、外見は普通の企業と変わらない。八つの机で構成された島が七つ並ぶ。机の上にはディスプレイが一つずつ置いてある。制服を来た面々が黙々と仕事をしていた。想像よりも人が少ない。全部で二十名弱だった。
「染島隊長。こちらが双海三曹です」
案内されたのは三十すぎの男の席だった。染島は無言でキーを叩いていた。短く刈り上げた髪の毛はいかにも軍人という雰囲気で、何より目つきの鋭さが違う。技術職とは思えない眼光は、前期教練の教官を髣髴とさせる。
「双海です、本日よりお世話になりますッ」
半ば自動的に体が気を付けをする。が、染島は天助を一瞥しただけで何も言わない。
「あ、えっと、こちらが染島真司一尉です。第一小隊および第一分隊の隊長です。本来の肩書は研究主任ですが、みんな隊長と呼んでいます」
無言の間を埋めるように女性が染島を紹介する。それでも、本人は無言だった。気まずい沈黙が降りてくる。その沈黙の意味を探ろうとするが、さすがに手がかりが少なすぎた。
「高森」
染島が誰かを呼んだ。向かいの席にいた女性が立ち上がる。胸の階級章は天助と同じ三等陸曹だ。
肌が綺麗なせいで大学生くらいに見えるが、カミソリのような気配が年齢の見積もりを難しくしている。化粧はしていないはずなのに唇は桃色で、控えめに言っても可愛らしい顔立ちだった。
「何か」
低めの声で高森は応じる。
「お前にソレの教育係を命じる」
「私がですか?」
「そうだ」
間。
剣呑な空気が胃に悪い。
「了解しました」
高森は短く答え、天助を睨んだ。。少なくとも初対面の人間に対する態度ではなかった。染島といい彼女といい、自分は何か怒らせるようなことをしたのだろうか。
「高森観月だ。よろしく」
「あ、はい、よろしくお願いします……」
「こっちへ来い」
観月に言われ、天助は駆け足で机を回りこんだ。振り返ると、事務手続きをしてくれた女性が半笑いで手を振っていた。あの人だけだ。この施設で自分を人間扱いしてくれたのは。
「ここがお前の席だ」
観月は自身の二つ隣の席を指定した。机にはノートパソコンとディスプレイが置かれていた。余分なものは一切なかった。
天助は腰を下ろし、椅子の高さを調整した。ほとんど同時に紙の束が投げ渡された。
「これは?」
「いちいち質問するな。目を通せ」
「は、はい」
睨まれて、慌てて資料をめくる。中身はとある外国人のプロフィールだった。オマル・ボルカン・アリ・ガラ。写真に写っているのは中東系の青年だ。シリアのダマスカスに住まう二十一歳で、家族は――、仕事は――、趣味は――。
延々と書き連ねられた個人情報に天助は戸惑った。これは誰だ。何をしている人なのだ。
疑問を込めた視線で観月を見上げると、ほどなく最初の命令が与えられた。
「その男のクレジットカード番号を盗め」
「え?」頭の理解が追いつかず、天助は思わず聞き返していた。「す、すいません、今なんて?」
「クレジットカード番号を盗め、と言った」
観月は二度とも同じことを言った。聞き間違いではないらしい。だが、ここは防衛省自衛軍の管轄機関だ。そのような命令を出すわけがない。
天助が黙っていると、観月は不意に鼻を鳴らした。
「言っておくが、これは軍事活動だ。犯罪にはならないぞ」
「そ、そうなんですか?」心を読まれたような気がして、面食らう。「でも、研究活動ではないですよね」
「研究をすると思ってここへ来たのか?」
「え、研究をしないんですか? 研究所なのに?」
観月との会話がかみ合わない。自分は何か大切な前提を見落としているのではないか。そんな不安がこみ上げてくる。
「逆に聞く。お前はここでの任務がどのようなものだと聞いていた?」
「えっと、サイバー空間での攻撃に対する研究活動だと……」
観月はいよいよ顔をしかめた。
「つまり。お前は何も知らないままここへ来たのか」
「……すいません」
事前情報がないのは事務から何も知らされなかったからで、自分のせいではない。そう思ったが、口答えするのもはばかられた。
「一から説明した方がよさそうだな」観月は椅子を持ってきて、天助の横に座った。「最初に言っておくが、ここは他国からの攻撃を解析する機関ではない。他国へ攻撃を行う機関だ」
さらりと恐ろしいことを言われた。
他国を攻撃。
自衛軍が?
「そうだ。我々は攻撃機関だ」
「そんな……」
自衛軍が他国を攻撃した、というニュースはここ数年聞いたことがない。発言が事実なら、実情と報道が食い違っていることになる。
「……なんで、そんなことを」
「現状、日本に対する最大の脅威がサイバー空間における攻撃だからだ」
観月はそう前置きして、研究所を取り巻く情勢について説明してくれた。
インターネットの開闢から三十年。
現在、サイバー空間を舞台とした攻防が世界規模で始まっている。俗にハッキングと呼ばれる攻撃は、他者の情報を奪い、改ざんし、削除することで営利を生み出す。その件数は尋常ではなく、製造業では三社に一社が攻撃を受けているという統計もあるほどだ。
他方、ハッキングは軍事的手段としても利用される。敵対国家の政府機関やインフラ施設に侵入し、経済的打撃を与えるのが目的だ。ここでも操作するのは情報であり、直接的な攻撃はない。故にハッキングは結果が目に見えにくいという特徴がある。
見えないからこそ、攻撃に気づかなかったり、被害状況の把握が遅れたりする。空爆で焼け落ちた街などはわかりやすく凄惨だが、サイバー空間での攻撃にはそれがない。そのくせ、被害は決して小さくない。
個人レベルで言えばインターネットバンキングで不正送金される被害が相次いでいるし、知的財産の収奪は製造業における国際競争力の低下を引き起こす。電力、交通、通信系のインフラが破壊されたら、日本の経済活動は中断を余儀なくされる。直接的に死人は出ずとも、損失額は計り知れない。
そういった時代背景から、自衛軍は昨年三月に専門部隊であるサイバーシステム保全隊を結成した。当初より国防を念頭に置いた部隊だったが、今年に入ってから方針を一部転換した。
先制的自衛権の概念をサイバー空間にも当てはめたのだ。攻撃を仕掛けてくる組織は概ね固定化されているので、先んじてその組織を潰してやろうという腹だ。そのために、当時建設中だった研究所を攻撃機関として再組織することとなった。
情報セキュリティ研究所の思想はかねてよりあった。だが、時代の要請は研究よりも攻撃であり、研究所は名前をそのままに攻撃の任についたわけだ。
「我々が攻撃対象とする地域は大きくわけて、二つある」
観月は研究室を俯瞰し、境界を示した。十名ずつが近場に座り、二つのグループを形成していた。
「染島隊長の率いる中東方面担当部隊、これが第一小隊。そして、椎名隊長率いる中国方面担当の第二小隊だ。小隊は担当組織ごとに五人程度の分隊に別れている。敵勢力が目的とするものが異なるため、方針も分隊ごとに随分と違っている」
「具体的にはどう違うんでしょうか?」
「それを知る必要はない。最初は自分の分隊だけを知っていればいい」
「はい、すいません」反射的に謝罪が口をついた。「それで自分はどこの分隊なんですか?」
「お前は私と同じ第一小隊の第一分隊だ。対象組織は中東に本拠地を置くアラドゥーイというテロ組織だ。さすがにアラドゥーイは知っているだろう?」
「名前くらいは……」
自信のない回答をすると、すかさず観月は解説を入れた。
「アラドゥーイは二〇一一年頃から急速に勢力を伸ばしたイスラム過激派組織だ。二〇一三年四月には国家として独立を宣言したが、周辺国や国連はこれを国家とは認めておらず、強大なテロ組織と位置づけている」
「確かアメリカでテロを起こしてるんですよね」
「そうだ。日本もテロの対象だが、移民をよしとしない土壌が大規模テロの実現を防いでいる。他方でサイバー空間の攻撃は国土に依存しないため、アメリカと同程度の脅威に晒されている。NISCの報告では近年、日本政府機関への攻撃が激増しているとのことだ」
「そんな組織を相手に何をすればいいんですか?」
「最重要任務はテロ計画情報の収集だ。お前が第一分隊でやってもらう仕事もこれだ。とにかく、情報収集任務に付く人員が足りていない」
観月の説明は淀みなく、一度も詰まることがなかった。若く見えるが、知識量は相当なもののようだ。
「ここまでで質問は?」
「任務が情報収集なら攻撃機関とは呼べないんじゃないですか?」
「それだけならな。だが、攻撃任務を請け負うのは我々だけだ。大規模なところでは、テロリストを擁護する政府の主要インフラを使用不能にするといった任務がある」
「そんなことまでするんですか?」天助はおずおずと聞いた。「……あの、それは戦争行為にならないんですか? イラク空爆以降は、戦争忌避のムードも高まってますし、国民に知られたらややこしくなりそうな……」
「そう思うのも無理はないが、現状の国際法に照らし合わせるならば、戦争には該当しないことになっている。サイバー戦は非正規戦と認識され、戦時国際法が適用できるという合意はない。パソコンを武器と言ってよいのかも決まっていないし、何より証拠が残りづらい」
だから、こうも積極的なのか。天助はやっと納得した。
サイバー空間の攻防は攻撃者の割り出しが困難だ。万が一にも他国から責められるようなことがあっても、知らぬ存ぜぬで押し通せるのだ。最悪バレたとしても、軍事行動ではない、と言い張れる。
「もう一つ質問なんですが、クレジットカード番号を盗む目的はなんでしょうか?」
「資金源を断つためだ。アラドゥーイにはサウジアラビアの富裕層がパトロンについている。奴らは武器の決済もパトロンのカードで行う。カードの凍結には意味がある」
テロ計画を暴くことに比べれば幾分地味に思えるのが怖い。しかし、盗むのは産油国の富豪のカードだ。もしかしたら限度額が設定されていないこともあり得る。そうなれば、天助が未だかつて扱ったことのないような巨大な資産が動くことになる。
「他に質問はあるか?」
再度、観月が言う。少し緊張していると答えると、彼女はさっさと自席に戻っていった。自分でなんとかしろということだろう。
天助は深呼吸をして、ノートパソコンの電源を入れた。OSが立ち上がる画面を漫然と見つめ、観月の話を振り返った。
軍事作戦。中東。テロリスト。
非日常的な単語の羅列が脳内を巡っていた。このパソコンが起動したら、自分は戦いに参加するのだ。戦争とは異なる国家間の戦いに。
にわかには信じがたい話だった。
犯罪から足を洗って、真っ当な仕事をするつもりでいた。ところが、自分はまた他人からクレジットカード情報を盗もうとしている。
これは一体、何の因果なのだろう。
†
観月が自席に戻ると、染島が声をかけてきた。
「新人にはどんな課題を与えた?」
「クレジットカード番号の奪取を命じました。容易な案件なので、訓練にはちょうどよいでしょう」
「訓練か……」染島は思案げに言う。「方法を知っていればの話だな。まぁ、テストにはなるだろう」
双海天助が攻撃手段を持ちうるか否か。観月が与えた仕事はそれを計るものだった。彼は元々フリーのプログラマーだと言っていた。セキュリティ分野で、どの程度の実力を発揮するか見る必要があった。
「ちなみに答えは用意してあるのか?」
「目星はつけてあります。データベース周りに脆弱性があるようです」
「それに気づくのにどれくらいかかった?」
「インジェクションが可能なサイトを見つけるのに三時間です」
観月が攻撃手段として提示したのは、SQLインジェクションという方法だった。世間では割りとよく知られた手口だが、これは思われているほど単純なものではない。
料理を例に取れば、SQLインジェクションはカレーライスと同じくらい意味が広い。カレーにもレトルトから本格インドカレーまで膨大な種類がある。同様にSQLインジェクションにも、使用されているSQLの種類やバージョン、エスケープ処理の方法、テーブル構造など細やかな違いがある。細分化されたケースを列挙すれば、SQLインジェクションが可能なWEBサイトの種類は、星の数ほども存在する。
情報を盗むには、その中から正解を選び出さねばならない。第一に圧倒的な知識、第二に経験がいる。観月はセキュリティ分野に足を踏み入れてわずか一年だが、知識と経験は民間エンジニアに劣らないレベルに達していると自負していた。
「ではそれが基準だな」
染島は満足気に言った。
「上限はどうしますか? 六時間を超えたら失格でよいかと思いますが」
「そのあたりは任せる」
「わかりました」
染島から一任され、観月は自身の席に戻った。
パソコンが起動すると、ウィンドウズのロゴが現れた。天助は初期設定の画面を見ながら、漫然とした不安を抱いていた。ハッキングに関しては、五年ほど経験を積んできた。しかし、それが軍隊でどの程度通用するのかは見積もれなかった。使えないと思われたらどうなるのか。今以上に観月や染島の対応が厳しくなったらと思うと胃が痛くなる。だが、今は恐れている場合ではない。まずはやるべきことをやらなくては。
OSの設定が終わるまでターゲットのプロフィールを読み直すことにした。
資料は、食べ物の嗜好やよく使うショッピングサイトなど、どうやって調べたのか聞きたくなるような項目まで網羅されていた。必要な情報は揃っている。たぶん、できる。
足を洗った行為だったが、この場でためらう理由はない。
初期設定を終えると、天助はブラウザを開いて、男がよく使うショッピングサイトにアクセスした。世界的に名前が知れているようなものは除き、いかにも小企業がやっていそうなサイトを探した。
Amazonのような大企業は多額の資本をセキュリティに投資する。こういった企業から情報を掠め取るのは難しい。同じ情報を盗むのなら、防御が弱い相手から盗むのが利口だ。この場合は、セキュリティにまで投資が回らない中小企業の運営するWEBサイトだ。
天助は一通りショッピングサイトを見て、そのうちの一つに狙いを定めた。WEBのソースを見れば、そのサイトを作った人間がどの程度、攻撃を想定しているかがわかる。このサイトは、個人商店らしく、ガードはさして固くなかった。
手始めにダミーのアカウントを作った。その後、マイページを開き、ちょっとしたイタズラを仕掛けた。ページを読み直すと、ページデザインが変わっていた。
やはりだ。このサイトはSQLインジェクションへの対策が完全ではない。
SQLインジェクションは古典的なハッキングの手法で、データベースを使用したWEBサイトを作る際に、まず、気をつけねばならない攻撃だ。
攻撃の仕組みは原始的で、WEBサイトの入力欄にデータベースのコマンドを貼り付けるだけでいい。たとえば、ユーザーに名前を入力させる欄があったとする。入力された名前はWEBサーバへ送られる。WEBサーバは、受け取った名前をデータベースに登録する。このとき、データベースに対して以下の様な命令を発行する。
SAVE 入力された名前;
セミコロンは命令文の終端を示している。この例なら、SAVEという命令文がここで終わりますよと言っているわけだ。
これをどう悪用するかというと、名前の入力欄にこう書くわけだ。
太郎;DELETE ALLNAME;
すると、サーバで実行される命令は、こうなる。
SAVE 太郎;DELETE ALLNAME;
太郎という名前を保存するまではいい。だが、その後にDELETEという命令が来ている。もちろん、この命令も正しく実行され、すべての名前情報が消去される。
実際のデータベースの命令はここでの例とは違った書式だが、仕組みは同じだ。入力された文字列に悪意があるかどうかを確認しなければ、任意のコマンドが実行されてしまうのだ。
これは別段データベースが悪いわけではない。ソフトウェアは与えられた命令を忠実に実行する機構であり、命令の善悪は考慮しない。意図しない命令を与えてしまわないよう、設計者が気を配らねばならないのだ。
任意のコマンドを実行できるとわかったら、あとはデータベースの構造を探るだけだ。どのデータがどんな名前で保存されているかまではわからない。顧客情報を保存したテーブルはUserかもしれないし、Usersかもしれない。あるいはCustomersか。
何度か試行錯誤すると、顧客情報の一覧が出力された。小さなサイトなので、全部で二百件ほどだった。高く売れても八〇〇ドルほどだろう。いや、売るわけではないのだが。ターゲットのカード番号をメモ帳に張りつけ、簡単な報告書を作成した。
作業自体は三十分もかからなかった。
ハッキングで最も時間がかかるのは対象の調査だ。どんな脆弱性があるのか、どんな人間が利用していて、どんな情報があるのか。それらを調べて、攻撃をするかどうかを決める。
天助が現役だった頃も調査に一日の大半を割いていた。だが、今回は予め綿密に調べられた資料が用意されていた。
手を動かすだけなら、たいして時間はかからない。
†
任務完了の報告をしようと思ったが、観月は染島と話をしていた。割り込むのも気が引けたので、終わるまで待つことにした。
途中、染島が観月を振り仰ぐ場面があった。染島の視線が観月から外れ、その後ろにいた天助を捕らえた。
「なぜそんなところに立っている!?」
いきなり染島が怒鳴った。
まさか怒られるとは思わず、天助はまごついた。
「す、すいません……、その、盗み聞きをしたわけでは、」
「はっきり話せ!」
もう一度怒鳴られる。経験上、こういうときはさっさと話を進めた方が吉だ。
「高森三曹にお話があります!」
「早く用件を言え!」
「はっ、すいません! 先ほど仰せつかった任務が完了いたしました!」
「なっ」一拍の間が空いて、観月が声を上げた。「終わっただと!? まだ三十分も経ってないぞ!」
「はい。終わりましたが……」
「見せてみろ」
観月は報告書をざっと読んだ。
「……これが対象のカード番号だというのか? どうやって盗んだ」
「SQLインジェクションですけど」
天助はかいつまんで方法を説明した。観月は肯きながら最後まで聞き、目を見開いて驚いた。
「手順も間違っていない……。勘がいいのか、よほど勉強してきたか。何なんだお前は?」
疑念の目を向けられ、天助は思わず冷や汗をかいた。当たり前のようにハッキングをしてしまったが、善良な市民がそんな経験を持っているわけがない。どう言い訳をするか。必死に考える。
「高森。そいつにもアレを手伝わせろ」
そのとき、黙っていた染島が言った。観月は露骨に嫌そうな顔をした。
「アレをですか?」
「お前も疲労がピークのはずだ。明日以降はこき使ってやれ」
「……了解しました」
心底不服そうに観月は言う。元より非友好的だった態度が、なおのこと厳しくなりそうな予感がした。染島はもっと厄介だった。本人を前にして、こき使う、という単語を使うとは。
「双海。お前の母親のことは聞いている。今日は早めに帰っていい。高森、カード情報系は全部そいつにやらせろ」
染島の話はそれで終わりだった。
天助は追い立てられるように席に戻った。それから、観月に追加で十件のカード情報を盗むように言われた。
「これくらい、お前ならすぐできるだろう?」
あてつけのような言葉を残し、観月は資料を投げつけてきた。
散らばった資料を集めながら、天助は観月の背中を見る。なぜこんな扱いをされなければならないのか。これはひょっとして嫌がらせなのだろうか。
前期教練でも似たようなことはあった。教官や先輩によるイジメは日常茶飯事だった。一時的だとわかっていたから耐えられたが、こんな調子がずっと続くならその限りではない。考えるだけでも、鬱々とした気分になる。
早く終わらせて帰ろう。天助は気持ちを切り替えて、キーボードを叩いた。
†
結局、双海天助は苦戦することなく任務をこなし、帰路についた。
その様子を見ていた観月は、天助の実力が尋常ではないことを見て取っていた。今春採用の新人と聞いていたが、アレは決して新人などではない。下手をすれば観月より能力が高いだろう。
面白くない。
民間から来たくせに階級がいきなり自分と一緒というのも気に食わない。
日が暮れた頃、観月は染島に質問を投げた。
「なぜ、奴をアレに参加させたのですか。私が単独で遂行するものと思っていましたが」
棘のある言い方になったが、染島は淡々と答えた。
「テストする必要があると感じたからだ。使えなければそれまでだ」
「本隊に送り返すものと思っていましたが」
「使えなければだ。誰にでもチャンスは与える。ただし、態度を甘くしていいというわけではない。明日以降も同様に振る舞え」
「了解しました」
観月が天助に対してキツく当たっていたのは、染島の命令によるものだった。
染島は民間から来た人間を心底嫌っている。サイバーシステム保全隊が結成された直後は人手不足のために、多くの部隊員が民間企業からの引き抜きだった。
しかし、彼らの多くは職業エンジニアであり、給与や休暇など労働条件に事細かく文句をつけた。自由な企業文化に慣れきったエンジニアたちは、上官の命令に背くことになんの罪悪感も抱いていなかった。
当時は数を集めることを優先するあまり、技術職は前期教練への参加が免除されていた。結果としてサイバーシステム保全隊は、軍人として相応しくない人間の巣窟となった。以来、染島は民間出身者に対して厳しい態度を取るようになった。
その気持ちは、観月にもよくわかるものだった。研究所ができる前は、観月もサイバーシステム保全隊に所属していた。民間出身者の振る舞いに苛立ったのは、一度や二度ではなかった。だから、新入りに厳しく接しろと染島が命じても、観月は何ら抵抗を抱かなかった。
「では、私の補助に入るのはテストのためなのですね。私の実力を疑ったわけではなく」
念を押すように聞くと、染島は呆れたように言った。
「実力の話で判断したわけではない。純粋にテストであり、高森の負荷を軽減するためだ。負けず嫌いもほどほどにしろ」
「失礼しました」
観月はそう言い残して、自席に戻った。