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10話前後で完結予定です
二〇一五年二月初旬。
双海天助は自宅のアーロンチェアに腰掛け、スマートフォンでメールを読んでいた。
送り主は母だった。栃木はまだ雪が残っているとか、自動車保険の更新で迷っているとか、自身の近況がつらつらと書かれていた。そのあとには決まり文句のように、仕事は順調か、という問いがあった。一年前までは、今どんな仕事をしているのか、同僚は何人くらいるのか、などと踏み込んだ質問が多かった。しかし、天助が曖昧な返事しかしないため、最近は順調かどうかだけを聞いてくる。
天助が真っ当な返信を書かないのは、別段母からのメールが煩わしいからというわけではない。純粋に仕事の詳細を言えない理由があるからだった。
必然的に返信は無愛想なものとなる。二十歳のときに上京してから七年間、メールの返信が二行を超えることはなかった。
もちろん、今日も。
例外などあるはずがないと思っていた。
天助へ
母は昨日、交通事故に遭いました。幸い命だけは助かりましたが、足を骨折しました。一ヶ月ほど入院が必要だそうです。仕事を辞めないといけないかもしれません。天助も車には十分気をつけてください。
事故に遭う直前に宅配便を送りました。届いているでしょうか?
――――事故?
返信を書こうとした手を止める。普段なら文末の宅配便が届いているか、という質問に対して、まだ、と答えて終わりだ。しかし、交通事故となると話は別だ。何かしらのコメントがいるだろう。
無事ですか。――足を折ったのだから無事なわけがない。
命が助かってよかったです。――事故に遭ってよかったはないだろう。
医療費は示談金で足りますか。――話が生々しすぎる。
キーボードに乗せた手を止めて、息を吐く。気の利いた文章は何一つ思いつかなかった。好きだって言っていた◯◯を送ろうか? というような、母の好みに即した内容にしたいものだが、自分は母の好物すら知らない。自分から尋ねたことがなかったせいだ。
「双海、話があるんだが」
そのとき、隣の部屋から背の高い男がやって来た。巨大な丸眼鏡にチェックシャツ。理系大学生の典型例のような外見をした彼は妹尾誠。天助のルームシェアの相手だ。ふたりは家賃を折半して、2Kの部屋を借りていた。キッチンを共用とし、残り二部屋がそれぞれの個室だ。
妹尾は床に散らかった洗濯物を蹴り飛ばし、適当なダンボールに腰掛けた。
「ぼーっとして、どうした? 何かあったのか?」
「親からメールが来ただけだよ。事故で足を折ったって」
「やべーじゃん。どうすんの?」
「どうもしないつもり……。入院してるわけだし、生活が不自由になるわけじゃないと思うから」
言っていて白々しくなる。それでいいのか? と頭の中から声が聞こえる。
「入院って着替えとか大変だぞ。まぁ、家族にやってもらえばいいんだけどな。それに、今、お前がいなくなると当てが外れるし」
「当てってなんの?」
「そりゃあ、お前」妹尾はそこまで言って表情を変えた。「思い出した! そう、話があったんだよ! やべーんだよ!」
彼が興奮気味に話すときは、大成功か大失敗のどちらかが目前に迫ったときだ。ふたりの仕事に失敗は許されない。天助は母を頭の片隅に追いやり、無理矢理にでも意識を切り替えることにした。
妹尾は自室からノートパソコンを持ってきた。
「何がやばいの?」と天助が聞くと、彼は自慢気な顔でエクセルを開いた。それは共同で進めている案件についてまとめたものだった。
「見てみろ」と言われ、マウスを渡される。エクセルには、軽くスクロールしただけでは見きれないほどのデータが入っていた。カタカナの名前と住所、日付、そして、十六桁の数字列。クレジットカードの所有者情報とその番号だった。
「全部で一万件ある」
妹尾は誇らしげに言った。
「マジで?」
「マジだ。久々のボロ儲け案件だ」
クレジットカード情報は、VISAやMASTERなら買い手がつく。番号単体で四十セント、名前や住所がセットなら一枚四ドルが相場だ。エクセルには一万件の顧客情報が入っているから、その価格は実に四万ドルにもなる。
「これだからクラッカーはやめられねーわ!」
妹尾は両手を天に突き出し、全身で喜びを表現していた。
クラッカー。電子的な手段でデータの不正取得や破壊を行う者。
それがふたりの職業であり、天助が母の質問に答えられない理由だった。
天助が初めてハッキングをしたのは小学四年生の頃だった。在宅で仕事をしていた父が、何かの拍子に教えてくれたのだった。父はフリーのプログラマーであると同時にクラッカーだった。腕が立つと評判で、当時は子供心にすごいなぁと思っていた。今にしてみれば、犯罪に直結する技術を遊び半分で教えるなど、どう考えても父親失格だった。しかし、あの日、父から学んだ技術が今の天助を作ったのは間違いなかった。
十歳の天助は小学校のホームページを改ざんし、味をしめた。元来プラモデルを作ったり、ゲームをしたり、インドア派の遊びが好きだったが、ハッキングの面白さはそれらの比ではなかった。自分の力で他人が作ったものを書き換えられるという優越感や、悪いことをしているという罪悪感。それらが入り混じり、ある種、中毒性のある快感に変わっていた。以来、天助はハッキングの魅力に取り憑かれるようになった。しかし、最初からクラッカーになろうと思ったわけではない。
きっかけは今から二年前。父が亡くなったときのことだった。天助は葬式で父の友人だという男に出会った。葬式には素性こそ隠していたが後ろ暗い有名組織が多数参列していた。男もその筋の人間だった。彼は父と共にクラッカーの同業者組織を立ち上げたと述べた。
天助はすぐにその男と打ち解けた。男が天助の近況に興味を示したため、自身の経歴を簡単に話して聞かせた。
天助は中学卒業後に高専に進学した。そこで情報工学を学び、都内のITベンチャーに就職した。ところが、その会社の労働環境が過酷なものだったため、三年で離職し、フリーのプログラマーとなっていた。
収入はまずまずだが物足りないという話をすると、男は「父の跡を継いだらどうだ」と言ってきた。父は指折りの実力者であり、とんでもない額の案件を成功させては、収入をギャンブルにつぎ込んでいたという。天助は知られざる父の一面を聞いて呆れると共に、長らく忘れていたハッキングの魅力を思い出した。父と同じことをするのも悪くない。そう思った。
罪を犯すことに抵抗はなかった。やることといえば、パソコンに向き合いキーボードを叩くだけだ。父の足跡をたどるためという大義名分も手伝った。即日で同業者組織へ加入することを決めると、一週間後にはもう新たなスタートを切っていた。
以来、四年。天助は妹尾とコンビを組み、クラッカーとしての実績を上げ続けていた。
盗んだカード情報は十分と経たずに売却された。専用の闇マーケットで処理したため、誰が買ったのかはわからなかった。俗説ではロシアンマフィアがカード情報を集めていると言われていた。
天助たちは、クレジットカード情報以外にもメールアドレスやパスポートのスキャン画像、オンラインゲームのアカウントなども売っていた。用途不明の情報でも、欲しがる者は一定数いる。いずれもマーケットに出品すれば、数日以内に買い手がつく。
他方でクラッカーには、盗んだクレジットカードを自分たちで使う一派もいる。カードを限度額まで使い込めば、一枚あたり何十万円もの利益が生まれる。反面、カードを止められればおしまいだし、購入した商品を現金化する手間も発生する。工程が増えると、その分、足もつきやすくなる。天助たちがカード情報を四ドルで売るのは、露呈するリスクを避けるためだった。稼ぎは少なくなるが、警察の厄介になるよりはいい。それが天助たちの方針だ。もっとも、世間一般的に見れば、十分すぎる額を稼いでいるのだが。
「これで四百万稼いだわけだから……。今月、売上更新かもしれないぞ」
妹尾は電卓アプリを起動して、利益を計算していた。経理部門と言えばおかしな話だが、売上や経費の管理は妹尾の仕事だった。
「やっぱり天才は違うな」
妹尾は茶化すように言った。
「天才なわけないよ、普通だよ」
「この間もハッキングコンテストで擬似優勝してただろ?」
擬似優勝とは、天助がハッキングコンテストの過去問を解くことを揶揄した言葉だ。実際の参加者より良いスコアが出ることもあるので、参加していたら優勝。故に擬似優勝だ。
「優勝決定戦は皆の前で解くんだよ? 普段の実力を出せなくなるのは当然だし、俺が出ても勝つとは限らないよ」
「けど、お前が昨日解いた問題な。コンテストで誰一人解けなかった問題も含まれてるからな」
「そ、そうなの?」
「それを時間内に解けたのは俺の知る限り双海だけだ。クラッカーとして、双海はかなり高いところまで上ってるのは間違いない」
「気のせいだよ」
天助は妹尾の言葉をシャットアウトした。自分はマンションの一室で細々と暮らすしがないクラッカーだ。そんなたいそれた能力があるわけがない。
会話が途切れると、妹尾は経理に意識を戻した。
結果が出るまでの間、天助は母のメールを読み返すことにした。適切な文章を思いつくきっかけが欲しかった。だが、読んでいて思うのは、自分はこのままでいいのか、ということだった。母の好物を思い出そうとするうちに、様々な記憶が呼び覚まされた。思えば、母には随分と世話になった。にもかかわらず、自分は交通事故に遭った母を見舞ってやろうとも思わなかった。実家に帰るくらいはあってもよかったのではないか。なぜこんな薄情な人間になってしまったのか。
理由を探り当てるよりも先に妹尾の計算が終わった。
「こいつは惜しいな」妹尾は口笛を吹いて言った。「更新とまではいかないが、ここ半年では最高のようだな。久しぶりにパーッとやるか?」
妹尾は満足気に手を叩き、飲食店の物色を始めた。
「そうだね……」天助は気の抜けた声で返事をする。「そうしてもいいかもね」
「……なんだ? やけに元気がないな?」
「考え事があって」
返信を考えるつもりだったが、思考は思わぬ方向へ向かっていた。きっかけを探すために記憶をさかのぼり、想像以上に自分が親不孝だと気がついたのだ。散々に悪事を働いてきたくせに、今になって罪悪感を突きつけられた。それは次第に大きくなり、とうとう考えたくもないトピックに行き着いた。すなわち、自分の人生について、だ。
天助の稼ぎは同年代と比べれば二倍以上はあった。労働時間も選べるし、内容も自分で決められる。厳しく見積もっても、幸福度の高い生活だと思う。なのに、今はそれを喜べなくなっていた。唐突に訪れた自分の変化に、天助は戸惑いを隠せなかった。
母との思い出が胸中を満たす。
小学校のときカードゲームの大会に出たいとわがままを言って、母に車を出してもらったことがある。休日返上で母は我が子の行楽に付き添い、何もない会場で一日中天助を待っていてくれた。
小中学校の間はずっと、母が天助の靴を洗ってくれた。毎週月曜にスニーカーが綺麗になっていることに、自分は何の感謝もしなかった。当然のようにそれを履いて学校に行き、当たり前のように汚して帰ってきた。
高専で寮生活になってからは定期的にお菓子を送ってくれた。十代後半の男子は大抵が腹を空かせていて、お菓子は友情を育むアイテムとして八面六臂の活躍をした。おかげで天助の交友関係は同級生に比べて随分と広かった。天助が就職してからも母は食料を送ってくれた。たまに来る手紙には、ITのことはよくわからないから勉強をしてみる、と書かれていた。母は未だに天助が犯罪者だと知らない。
最後に会ったのは父の葬式だった。あれから二年も経っていた。ひとり息子が上京し、夫にも先立たれ、今は孤独の身だ。そして、このメールを送った直後に事故に遭い、病院に担ぎ込まれた。
「なぁ、ぱーっとやるんだろ? やっぱ寿司か?」
妹尾の問いかけが遠い。自分のいるべき場所がどこなのかわからなくなった。
その言葉は、ごく自然に口をついて出た。
「俺、この仕事やめるよ」
「中華でもいいけどな? ――――って、なんつった? やめるって、どういうことだ?」
「実家に帰ろうかと思って」
天助の雰囲気が尋常ではないと察したのか、妹尾は気遣うように言った。
「なんで? かーちゃんが、足を折ったからか? 誰も面倒見てくれる人がいないのか?」
「父親は死んでるし、親戚もいない」
「あー……。そりゃ、帰った方がいいかもな。けど、やめることはないだろ? かーちゃんが退院したら戻ってくればいいだけじゃん」
「いや、……なんて言えばいいんだろう、つらくなって」
罪を重ねるのが、ではない。
母を裏切り続けることが、だ。
「地元で仕事探すよ。堅いのがいいな。公務員とか」
妹尾は顕微鏡を覗くような慎重な顔つきになり、天助の隣に腰を下ろした。
「お前、なんかスイッチ入ったか?」
「そうかも……」
「やはりか」妹尾は合点がいったとばかりに肯く。「いつかはそう言うと思ってた」
「ヘタレだって言いたいわけ?」
「違う。お前は犯罪で食っていくにはいい奴すぎるからだ」
妹尾は真顔で言う。怒らせるのではと思っていたが、意外にも彼の反応は大人だった。
「俺は双海の決断に反対しない。ただ、警察に転職するのだけはやめろ」
「入れるわけないだろ」
妹尾の懸念が的はずれすぎて、天助は思わず吹き出した。
「念のためだ。それと今日の稼ぎは双海にやる。見舞いに使ってやれ」
「い、いいって! いきなりやめるって言った俺が悪いんだから」
堅い仕事をすると決めたのだ。悪事で稼いだ金を餞別に受け取るのは、何か違う気がする。
「そうか。じゃあ、手を付けずにとっておくことにする」
妹尾は真剣な表情のまま言った。
今まで意識したことはなかったが、仲間には恵まれていたのかもしれない。
三日後、天助は荷物をまとめて家を出た。
何が決め手だったのかは、今もわからない。
ツケを払っているというのが一番しっくりきた。
今まで母にどれだけ心配をかけていたか、見て見ぬふりをしてきたか。
会社を辞めたこと。犯罪者として生きていたこと。嘘をついていたこと。
全部が後ろめたかった。
帳消しになるわけではないが、今からでも償いができればいいと、天助は思った。
実家に戻った天助は、早速、地元での就職活動を開始した。エントリーシートを送ると、そのうち二割の会社から面接に来て欲しいと連絡があった。思いの外、少なかったが最終的に一社に受かれば問題ないと思った。
実家に戻って二週間が経ったその日も午前中から面接が入っていた。
応募したのはシステム開発を行う中小企業だ。本社は天助の実家と同じ、栃木県宇都宮市にあった。
小汚いビルの一室に通され、ガタついたテーブル越しに面接は進んだ。面接官は作業着を着た五十すぎの男性だった。システム開発に作業着が必要とは思えなかったが、天助は努めて考えないようにした。
「なぜ弊社を志望したのですか?」
「母のためです。地元で一緒に暮らしたいと思っていました。今まで培ってきた技術を生かせればとも思います」
「ほぅ。今まで何をしていたんですか?」
「フリーのプログラマーです」
「どんなものを作ったんですか?」
「そうですね……」
考えこむふりをする。真っ当なソフトウェアなどもう何年も作っていなかった。五年前、まだITベンチャーにいた頃の記憶を掘り返す。
「主にアプリの開発をしていました。あとはサーバサイドの開発もしました」
「アプリかぁ」男は露骨に困ったような顔をした。「うちじゃあ、そういうのは作ってないんだよねぇ」
「知っています。ですが、知識は活かせると思います」
「だったら、東京で会社を探せばいいんじゃないの?」
「うちの実家からだと東京はちょっと……」
「でもねぇ。まぁ、とにかく合否はあとで連絡しますんで」
ほとんど不採用だと言っているも同然の態度で男は告げた。天助は頭を下げて、会議室を後にした。
手帳に記された社名にバツをつけ、天助は帰りのバスに乗った。手帳にはエントリーシートを出した会社のリストが連なっていたが、日を追うごとにバツの数は増えていった。
現時点で面接まで進んだ企業は十三社。内定が出た企業はゼロだった。宇都宮に絞った就活となると、そろそろ候補も尽きてくる。
やはり東京も視野に入れるべきだっただろうか。だが、またブラック企業だったら。苦い経験が蘇る。入るまでブラックだとわからなかった。面接の時点でそれを見破るのは難しい。通勤に三時間、その上、ブラックとなれば、実家で暮らす意味がなくなる。
楽天的に考えるのも苦しくなってきた。天助は重い足取りで病院へ向かった。
母が入院しているのは市内の大病院だった。ベッドが六台並んだ病室の一番奥にいる。大仰に固められた足を吊り下げ、小さな体を横たえていた。母は今年で六十だったが、笑い方や話し方は天助が幼少の頃から少しも変わっていなかった。よく言えば若く、悪く言えば子供っぽい。それでも、体は年齢相応に老いており、髪に白いものが混じるようになっていた。
「面接どうだった?」
母は読んでいた本を枕元に置き、言った。
「まぁまぁかな」
天助は着替えの残りを確認しながら答えた。
実家に戻ると告げたとき、母は驚いた様子だったが、同時に嬉しそうにしていた。母と暮らすのは実に十二年ぶりだった。最初の一週間は気恥ずかしさがまさって、顔を見て話すこともできなかった。着替えを運んだり、見舞いの品を買って行ったりするうちに、段々と肩の力が抜けていった。
「今、どんな仕事を見てるの? 技術系?」
「そんな感じ」
「まさかとは思うけど、自衛軍は違うんでしょう?」
「自衛軍?」
母は新聞を取り出した。一面に踊る記事は、自衛軍がイラクでテロリストと戦闘したというものだった。自衛軍側にも死傷者が出たという。
自衛軍は太平洋戦争後、GHQが冷戦に備えて組織させた軍隊だ。自衛の名がつく通り、基本的には自国の防衛を主任務とするが、多国籍軍による任務には積極的に派兵をしている。最近では二〇〇三年に米軍と共にイラクへ空爆を行った。以来、自衛軍とテロリストの間では、小規模な戦闘が断続的に起こっていた。新聞にもある通り、駐留軍には死者も出ている。
「あんた、応募するかもって言ってたでしょ?」
「まぁね」
するかも、ではなく、実際に応募していた。技術職の募集要項が出ていたのだ。勤務地も宇都宮を選べることになっていた。
「危なくないの? テロだってあったし……」
「だいぶ前の話じゃないか」
日本でテロがあったのは、アメリカ同時多発テロの翌年だ。東京のランドマークでもある帝都ツリーで爆弾が炸裂した。電波塔を狙った攻撃だったため、展望台にいた観光客に怪我人はなかった。しかし、関東圏のテレビ放送が全局停波するという前代未聞の事件となった。当時、世間を賑わせていた国際テロ組織アラカダーから犯行声明が出されていたが、警察は主犯格を捕らえることができなかった。
反戦の声が大きかった日本を真逆の方向へ踏み切らせたという意味で、歴史的な事件だった。これがなければ、自衛軍のイラク空爆もなかっただろうし、アラブ系人種の入国審査の厳格化もなかった。
「中東への派遣だってあるでしょう? そんなことになったら、大変じゃない」
「エンジニアで仕事をする分には、たぶん、ないよ」
「ならいいんだけど……」
半分は嘘だった。自衛軍の技術職がどういう役割を果たすのかは、面接の時点で抽象的な説明しか聞いていなかった。入隊前に具体的な職務を明かすわけもないので、いたし方ない部分ではある。
「私には専門的なことはわからないけど、無理だけはしないでね」
「無理するようなことじゃないよ」
「そう。仕事、すぐに見つかるといいね」
母はそう言って笑った。笑うと頬に深いシワが刻まれた。老いが心労で加速するのだとすれば、責任の一旦は間違いなく自分にあった。
そうだ。……休んでいる暇などないのだ。
「すぐに決まるよ。じゃあ、午後も面接があるから」
天助はなるべく軽快な調子で言って、席を立つ。
その後も転職活動は思うように進まなかった。二月も終わり、学生向けの就活がスタートした。企業はそちらに力を入れるようになり、中途採用の募集を閉じるところもあった。
決意を固めた二月初旬の自分を恨めしく思った。犯罪者であり続ければ、少なくとも金だけは潤沢に手に入った。母にいくらか仕送りしてやれば、それで幸せになったのではないか。この世に金で買えないものはない。一円にもならない決意より、何倍も有益だ。清貧なる生活か、犯罪で暴利を得るか。それ以外の道を諦めかけた。
そんなときだった。
一件だけ、天助に内定の通知を出す組織があった。
奇しくも母が不安だと漏らしていた防衛省自衛軍だった。