エピソード2:ニセモノの感情③
その後、聖人は自分の車で、統治は櫻子の車に便乗して帰ることになった。
帰り支度を済ませた3人を、政宗が玄関先まで見送る。安堵と不安が入り混じっている政宗の表情に、統治は何か声をかけようと思ったが……何を言えばいいか分からず、言いよどんでしまった。
すると、それを見ていた櫻子が、持っていたカバンの中から、手のひらサイズのお菓子を2つ取り出した。
「これ……よければお2人で食べてください。お口に合えばいいのですけど……」
「これは……」
政宗が櫻子から受け取ったのは、個包装された一口サイズのお饅頭だった。透明な袋に入っているそれは、きなこのように粉がついた茶色の丸いお饅頭で、パッケージには大きく『麦』と書いてある。
政宗も見たことがなかったので、裏返してメーカーなどを確認していると……その手元を覗き込んだ聖人が、「ああ」と納得したような声と共に頷いた。
「それは『麦〇』だね。自分もたまに食べたくなるよ」
聞いたことのない名称に、政宗と統治が目を合わせて首をかしげる。櫻子は鞄の中から車の鍵を取り出しながら、彼に渡した菓子について簡単に説明を足した。
「病院の近くにあるお店で作られているんです。白味噌餡が入っているんですけど、外側にまぶしてある麦焦がしと一緒に食べると、上品でとても美味しいんですよ。仙台では見かけないものだと思いますので……食べたら感想を教えてくださいね」
こう言って笑顔を向けてくれる櫻子に、政宗は「ありがとうございます」と頭を下げて……その菓子をそっと両手で包んだ。
そんな彼の様子を注視した聖人は、一度息を吐いた後……玄関のドアノブに手をかけると、それを回し押して扉を開く。
「じゃあ政宗君、今日はお疲れ様。ケッカちゃんと話をするのはいいけど、お互い、あまり無理をしないようにね」
「分かりました。お忙しいところ……ありがとうございます」
頭を下げた政宗に軽く手を振った聖人は、背を向けて部屋から出ていった。
統治はゆっくり扉が閉まる動きを確認し、聖人の足音が遠ざかっていくのを聞きながら……頭をあげた政宗を見つめ、両手を握りしめた。
こんな時に、肝心な時に何を伝えればいいのか……上手く言葉がまとまらない。
2人をずっと見てきたし、仙台に環境を整えた政宗の努力も、生きるために『縁故』として走り続けているユカの姿も……2人がどれだけ頑張ってきたのかを、統治は一番よく知っている。
今年の4月、1人ではどうしようもなくなった時も……2人に助けられた。
そんな2人が目の前で悩んでいるのに、気の利いた言葉1つ浮かばない、そんな自分が今はとても情けない。
けれど……せめて、これだけは伝えておきたい。
「何かあったら、すぐに連絡してくれ」
「統治……」
「俺に出来ることは限られているかもしれないが……少しでも、力になりたいと思っている」
こういって神妙な顔で答えを待ってくれる、そんな親友の存在が、今はとても心強い。
本当は、統治にも一緒に居て欲しいけれど……ユカが「政宗と2人」という明確な指定を出している以上、今回は彼女の要求に従うしかないのだ。
けれど、何かあった時に頼れる誰かがいる、それだけで……心はとても救われる。
「ああ。ありがとな、統治。透名さんも、今日は本当にご足労をおかけしました」
「いいえ、私も同席出来て嬉しかったです。本当にありがとうございました」
こう言って頭を下げた櫻子は、顔を上げながら……政宗の向こう側に見えるリビングの扉を確認する。
そして、その扉の向こうで待っているユカに、人知れずエールを送った後……笑顔で政宗を見据えた。
「それでは……そろそろ失礼しますね。ユカちゃんをいつまでも1人に出来ませんから」
櫻子の言葉に我に返った統治が、一歩前に出て扉を開いた。そしてもう一度政宗と視線を交錯させた後、踵を返した櫻子を扉の外へ誘う。
パンプスの靴音を響かせながら踵を返した櫻子が、扉の外へ出たことを確認してから……統治は静かに扉を閉めた。
2人の足音が遠ざかっていくことを確認しながら、政宗は扉を施錠して……一度、長く息を吐いた。
そして、手の中にある2つの菓子を見つめて……大丈夫だと自分に言い聞かせる。
例えこれから、ユカがどんなことを言い出しても……これ以上、嘘をつかない。
それだけを手元の菓子に誓って、政宗はユカが待つリビングへと戻っていったのだった。
統治と櫻子がマンションを出て、駐車場に降り立った時……既に聖人の姿はなく、街灯と家々から漏れる明かりに照らされた無人の車が、静かに並んでいるだけだった。
先に歩く櫻子の半歩後ろを歩きながら……統治は一瞬悩んだ後、歩幅を広くして彼女の隣に並んだ。そして、歩きながら声をかける。
「今日は……わざわざありがとう。本当に……君がいてくれて良かった」
「名杙さん……」
歩きながら見上げた彼の顔は、今までにないほど困惑しているように感じた。
いつもは……機械関係がことさら苦手な櫻子に、根気強く付き合ってくれる時は……こんなに困った目元ではないことくらいは分かるから。
「俺だけでは、山本のフォローまでは出来なかったと思う。透名さんもいきなりあんな話を聞かされて、訳が分からなかったと思うけれど――」
「――いいえ。そんなこと、ないんです」
次の瞬間、櫻子は統治の言葉を明確な意思で否定した。予想外の言葉に統治が目を見開くと、櫻子は彼から視線をそらしながら手元の鍵についたボタンを押して、目の前にある車のドアロックを解除する。
そして、困惑が続く彼を見つめ、場所の変更を提案した。
「あまり人に聞かれたくない話なので……続きは車の中で、運転しながらでもよろしいですか?」
「あ、ああ……頼む」
櫻子の言葉に頷いた統治は、一旦別れて助手席の方へと向かった。そして、扉を開きながら……既に情報過多で整理したい自分に、ため息をつく。
今日はまだ、統治の役割を終わらせてくれないらしい。
統治が住んでいる塩竈市までは、政宗の部屋から車で30分ほどかかる。駐車場から公道へ滑り出した車は、県道45号線を塩竈方面へと進んでいた。
「わざわざ回らせてしまって、申し訳ない」
「いいえ、私も帰りは三陸自動車道を使うつもりでしたから、塩竈は通り道です。それに……名杙さんにお話しておきたいこともありますから」
「さっきのこと、だな」
統治の言葉に、櫻子は前を見据えたまま、静かに一度頷いた。
確かに、櫻子の順応能力が『高すぎる』ことは、統治も少し気になっていた。彼女のことだから気を遣って、あの場の説明だけで分かった顔を作ってくれたのかもしれない。実際、先程まではそう思っていたけれど。
聖人とそれなりに付き合いのある櫻子は、間違いなく自分たちの知らない情報を知っている。それを共有しておくことは、きっと、今後のためになるはずだ。
前方が赤信号になり、櫻子はブレーキを踏んで速度を落とした。車間距離を調整して停車した後、サイドブレーキを引いて……口を開く。
「名杙さん、覚えていますか? 先程伊達先生が、佐藤さんとユカちゃんに、ご自分の過去の経験を、少しだけお話していたこと」
「ああ……随分と穏やかではない内容だった」
「それに関することなんですけど、私の兄は、伊達先生とは大学が一緒なんです。兄のほうが上で、伊達先生が後輩にあたります。2人とも医学部ということもあって、伊達先生が学生の頃から、私もご挨拶をさせてもらっていて……」
そして、櫻子が続けて語った内容に――統治は珍しく、とても珍しく目を大きく見開き、彼女の声に耳を傾け続けた。
本当に自分は、何も知らなかった――そんな感情が、渦巻いていく。
櫻子がひとしきり話を終えたところで、目の前の信号が青に変わった。動き出す車列のライトの明かりに目を細め……統治はたまらず、シートの背もたれに体重を預ける。
そして……一度、長く息を吐いた。
「……そんなことが……本当に……」
「伊達先生が今でもわざわざ、遠方の登米まで働きに来てくださるのも……その時のことがあるからだと思います。御本人は決して何も語ってくださいませんけど、でも、今日のお話を聞いて感じました。伊達先生が研究を続けるのは……」
「……親友を助けるため、か」
統治の言葉に櫻子は一度頷いた後、ウィンカーを出して交差点を左折した。そして、県道から一本奥まった通りに向かって進みながら、統治に向かって問いかける。
「本当に、本塩釜駅まででいいんですか?」
「ああ。駅に自転車を置いているんだ」
しれっと返事をする統治だが、本当は駅に自転車なんか置いていない。彼女をこれ以上付き合わせるのは悪いと感じたことと……それ以上に、少し、1人で考えを整理する時間を作りたかったから。
「分かりました」
淀みなく了承した櫻子は、脳内で地図を思い描き、目的地へと向かってアクセルを踏む。助手席から見るその姿は頼りがいがあるし、少し大人びて見えて……いつもスマートフォン1つに翻弄されている彼女とは思えない、そんな魅力があった。
もしも、もしも彼女が本当に、自分と添い遂げてくれるならば――名杙を、あの家を、もっと良くすることが出来るかもしれない。
けれど、彼女には彼女の世界がある。新規事業を立ち上げようとしている時に、こんな話を進めるのは……彼女のためになるのだろうか。
統治がそんなことを考えていると、最寄り駅でもある仙石線本塩釜駅の看板が見えてきた。
駅前のロータリー内にある、送迎用の駐車場に車を停めた櫻子は、シートベルトを外した統治の方を見つめる。
そして……何度となく呼吸を整えると、意を決して口を開いた。
「あ、あの……名杙さん!!」
「……?」
呼ばれた統治が櫻子の方を見ると、彼女は膝の上で両手を握りしめていた。そして、統治へ向けて数秒言いよどんだ後……意を決して問いかける。
「名杙さんは……佐藤さんがユカちゃんを思う気持ち、作られたものだと思いますか? 私は……私は、そうは思えないんです」
「透名さん……」
「確かに、理論上はそうなのかもしれません。きっと伊達先生の見解が正しいんです。でも、私は……理解出来ても、納得することが出来ませんでした」
そう言って、櫻子は少し俯いた。彼女があの場でこの発言をしなかったのは、部外者の櫻子が口を挟むことで、話の流れを止めたくなかったのだろう。
そして、そんな胸の内をここで口に出してくれた、その事実に嬉しくなる。
「……そうだな」
「私はこれからも、佐藤さんとユカちゃんを応援したい。あの2人が幸せになれるお手伝いが出来るなら、協力したいんです。これは……駄目なことでしょうか」
こう言って統治を見つめる櫻子に、彼は内心、舌を巻いていた。
これは、「駄目なことでしょうか」と尋ねるフリをして、結局、「駄目じゃないから協力してくれ」と、承諾を取り付けているようなものだと感じたから。
そして、統治もまた……その承諾を素直に了承するつもりだった。
あの2人の関係を、誰よりも近くで見てきた。それこそ、妹である心愛よりも一緒にいた時間が長いかもしれない、血縁を越えた絆を感じている。
10年間、誰よりも2人の幸せを願ってきた統治が、こんなところで――この程度で、諦めたくはない。
例え、全てに理由がつけられたとしても……その理由を根拠にして、これからも2人を支え、見守っていきたい。
「透名さんが協力してくれると、とても心強い。これからも無理のない範囲で……力を貸して欲しい」
「――はいっ!!」
統治の言葉に櫻子は目を輝かせて、一度だけ強く頷いた。
作中で登場させたお菓子は……えっと、スイマセン、霧原はまだ食べたことがないのです。
(http://mitinoku.biz/discover/2015/06/09/%E4%BD%90%E6%B2%BC%E3%81%AE%E9%8A%98%E8%8F%93%E3%80%8C%E9%BA%A6%E3%80%87%E3%80%8D%E8%8F%93%E5%8C%A0%E3%81%8D%E3%81%9C%E3%82%93/)
櫻子がカバンから出しそうだなと思いました。彼女は洋菓子よりも和菓子を持っていそうなイメージがあるぞ……患者さんとか年上の看護師さんあたりからもらったのかもしれないけど。