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エピソード8:彦星様の願い事①

 統治と櫻子が必要な物資の調達を終えて、名杙家に到着したのは……間もなく22時になろうかというところだった。

 車を駐車場に止めてエンジンを切った統治は、助手席に座っている彼女に話しかけようとして視線を向けた瞬間……彼女の『異変』に気付き、軽く目を見開く。

「……寝ている、のか……?」

 ここに到着する直前まで会話をしていたはずの櫻子は、助手席の背もたれに体重を預けて、スヤスヤと寝息を立てていた。長い髪が顔にかかり、彼女の顔を半分ほど覆い隠しているけれど……統治の位置から見えるその目はスッと閉じられており、少し開いた口から規則正しい寝息の呼吸音が漏れ聞こえている。

 確かに、今日の彼女に起こったことを考えると、疲れきって寝てしまうのはしょうがないことだと思えた。彼女は常に、誰かの前では気を張っていたことを考えると……気の緩みと車の振動とが相まって、眠気に抗えなくなった気持ちもよく分かる。

 とはいえ……駐車場から統治の住む家、そして、本日の櫻子が寝床にする離れまでは、それぞれ50メートルほどの距離があった。彼女を起こせば歩いてくれるとも思うが、疲れきって眠っている女性を無理やり叩き起こすのは気が引ける。

「……しょうがない、か」

 これも自分の責任だと腹をくくった統治は、運転席側のドアから一度外に出た。その後、助手席側に回って扉を目一杯開き、自分たちの方へ閉まることがないようにロックをかける。

 その後、腰をかがめて前のめりになりながら、助手席に体を半分ほど入れた。そして、櫻子のシートベルトを外した後、膝の下と背中の後ろにそれぞれ自分の手を入れる。そして、腕の力だけで彼女の体を引き寄せた後、満を持して櫻子の体を持ち上げようとして――

「――っ!!」

 次の瞬間、統治の後頭部に痛みが走る。理由はいたって単純、車のドアの天井部分に頭をぶつけたからだ。

 数秒の時間差で遅いかかってくる痛みに耐えながら、彼女だけは落とさないようにしようと改めて気合を入れ直す。

 腰と膝に力を入れて、彼女を自分の方へ引き寄せた。そして、絶対に落とさないように車から抱え出した統治は、ゆっくりと立ち上がって体勢を整える。手の中に感じる容赦のない重さと体温、顔に掛かりそうなほど近い寝息で、彼女が生きていることを感じて……少し、安心した。

 近くで見る櫻子の顔は、どこかあどけない表情に思えた。普段は穏やかな表情をしており、年齢より大人びた顔を見ることが多いので、こんな彼女を見るのはとても新鮮に感じる。

 思わず頬が緩んだ気持ちを引き締めて、統治は現状を確認した。

 助手席には彼女の荷物が残っているのだ。しかし、統治の両手は彼女を抱えているので完全にふさがっている。そもそも車の扉を閉めることすらままならない。

「……今はしょうがないな」

 扉を閉めることや荷持を持ち出すことなどを一旦諦めた統治は、人手を求めて自宅の玄関へ向かった。

 足元を照らす明かりにぼんやり照らされた砂利道をなるだけ静かに歩いて、自宅の玄関前までたどり着いた統治は、少し腰をかがめて肘でインターフォンを押した。普段であればこんなことはしないのだが、今は櫻子を抱えて両手がふさがっているのでしょうがない。

 程なくして廊下と玄関の明かりが灯り、周囲が少し明るくなった。そして――鍵を開ける音と、引き戸を開く音が響き――

「――統治、おかえりな……」

 部屋着で出迎えてくれた母親の愛美(まなみ)が、統治と……彼女が抱えている櫻子を見つけて、いいかけた言葉を飲み込んだ。統治はそんな母親に、小声で助けを訴える。

「母さん、悪いけど……車から彼女の荷物を離れに運んでくれないか? 車のドアは開いてるから……」

「分かったわ。離れの鍵もあけておくから……透名さんを起こさないよう、気をつけるのよ」

 事情を把握している愛美はそう言って、玄関脇の棚にかかっていた鍵を手に取った。そして外に出て扉を締めた後、車の方へ走っていく。

 そんな母親の背中を見守りつつ、統治もまた踵を返して来た道を引き返す。彼女を起こさないよう、砂利の上を再び慎重に歩いて……敷地内にある離れに移動する。既に愛美が入り口の扉をあけたままにしておいてくれたため、すんなり中に入ることが出来た統治は、廊下を進んだ先にある畳の間で、布団を用意してくれていた愛美と合流した。

 愛美は統治の方へ近づくと、櫻子が履いていたパンプスを脱がせて玄関の方へ向かう。統治はゆっくりと部屋の中に入ると、ゆっくり片膝をついてしゃがみ込み、櫻子を布団の上に寝かせることに成功。両腕を引き抜き、思わず、長く息を吐いた。

 気付けば額と首筋、背中にかけて、しっかり汗をかいている。集中している時は気付かなかったが……今になって、先程ぶつけた後頭部に、痛みと熱を感じた。統治が痛む後頭部をさすりながら、眠っている櫻子を見つめていると……戻ってきた愛美が統治と櫻子の様子を確認し、口元に笑みを浮かべる。

「統治、ここは母さんが見てるから……ご飯とお風呂、済ませてきなさい。あと、車に鍵もかけておきなさいね」

「……分かった」

 統治は静かに首肯すると、部屋を出て静かに障子を閉める。そして、足音を立てないように注意して廊下を進みながら……櫻子も夕食をまともに食べていないから、一度目を覚ましてくれないだろうか、と、そんなことを考えていた。


 そして1時間後、自宅で夕食と風呂を終えた統治が、離れに戻ってみると……。

「ごっ、ご迷惑を……この度は大変ご迷惑をおかけしました……!!」

 布団から出て、愛美に対してそれはもう深々と頭を下げる――もはや土下座に近い状態で萎縮する櫻子の背中に気付き、思わず、笑ってしまうのだった。


 その後、愛美と交代した統治は、一度布団を片付けて、脚が折りたたみ式のテーブルを取り出した。そしてその上に、ここに来る途中で彼女が選んで買っておいたコンビニのパスタと、ペットボトルのストレートティーを置く。

 パスタは事前に自宅の電子レンジで温めておいたので、彼女が蓋を開くと、濃厚なカルボナーラソースの香りが広がった。

 櫻子はプラスチックのフォークでパスタを巻きながら、自分の前にいる統治を見やり……オズオズと問いかける。

「あの……ここまで名杙さんが運んでくださったんですか?

「ああ」

「そ、そうなんですね……本当にご迷惑をおかけしました。起こしてくださって構わなかったんですよ」

 櫻子はどこか恥ずかしそうに目を逸らしつつ、巻き取ったパスタを口に運ぶ。その所作には無駄がなく、育ちの良さが伺えた。

 彼女の品の良さは、こういう日常の所作が洗練されていることにもあると改めて思う。統治が感心して彼女を見ていると……統治からの視線を感じた櫻子が、どこかビクビクしながら問いかけた。

「な、名杙さん……? 私の顔、なにかついていますか?」

「いいや。そうじゃない。君の食べ方が綺麗だと思っていたんだ」

「あ……ありがとうございます……」

 思わぬところを褒められた櫻子は、急に緊張した手元を鼓舞しながらパスタを巻き取っていく。統治はそんな彼女を見つめながら……彼女の現状を確認しておくことにした。

「体で、どこか具合が悪いところはあるか?」

「特にはありません。少し気だるさは残っていますけれど……お風呂に入って早めに休めば大丈夫だと思います」

「分かった。洗面所と風呂はトイレの隣にあるから、君のタイミングで使ってくれて構わない」

「ありがとうございます。今はご飯食べちゃいますね」

 軽く会釈した櫻子が、巻き取ったパスタを口に運んで咀嚼する。その後も統治からの質問に答えること約10分、パスタを食べ終えた櫻子が、付属のお手拭きで口を拭いた。

 そして、ゴミをまとめてから両手を合わせ、軽く目を閉じる。

「ごちそうさまでした」

 そう言って目を開けると、目の前には統治がいた。その事実に今更のように心臓が大きく波打つ。

 夕方、彼に対して発した言葉が……脳裏をよぎった。


「見くびらないでください。私は――貴方とお見合いをすると決めた日に、全てを『知る』覚悟をしました。今の私では、人としても……女性としても、まだまだ未熟だということは承知しています。それでも……それでも私は、少しだけでも寄り添いたい。だから、耳を傾けてはいけませんか?」


 自分でも驚くほど、彼に対して強い表現を使ってしまったと思う。

 しかし彼は怒ることもなく、むしろ認めてくれた。

 先程の愛美もとても優しくしてくれたし、心愛は心愛で素直だし……本当にこの家は、周囲が言うように『旧態依然として異質』なのかと、疑いたくなってしまう。


 そもそも彼は、自分を必要としてくれているのだろうか。

 寄り添いたいと言ったけれど……自分がそんなことをしなくても、彼には助けてくれる人がいる。支えてくれる家族もいる。

 そこに、自分の居場所は……あるのだろうか。


「あの……名杙さん。私は……」

 私は、必要ですか?

 そう、聞いてしまいたかった。そう聞いたら、きっと彼は優しいから肯定してくれる、そんなずるい自分が鎌首をもたげる。

 時に卑怯な聞き方をする、そんな統治の言葉も思い出し……その通りじゃないかと櫻子はため息をついた。

 そして、改めて統治を見つめると、ひとまず今後の流れを確認しておくことにする。

「私は……明日、どうすればいいですか?」

「そうだな……明日はどこで仕事をする予定だったんだ?」

「明日は朝から富谷です。午前中に2件打ち合わせを終わらせたら……午後からは予定を入れなかったので、皆さんへお土産を買って持っていこうと思っていました」

「お土産?」

「はい。橋下さん達から私へも頂いてしまったので、何かお渡し出来ればと思って……ですが、荷物になるとご迷惑になるので、何か食べ物を買っていこうかと思っていたんです。明日、皆さんが集まる時間はありますか……?」

「そうだな……」

 統治は明日の動きを思い返して、午後一番を提案した。櫻子は分かりましたと頷いた後、ペットボトルの紅茶を飲んで、自分の仕事に関する彼の答えを待つ。

 統治はしばし櫻子を見つめた後……首を一度縦に動かす。

「このまま明日まで問題がなければ、仕事へ行っても構わないと思う。ただし……」

「た、ただし……ですか?」

 櫻子が一体何を言われるのかと顔をこわばらせる。統治は一度躊躇った後……どこか申し訳なさそうに言葉を続けた。

「万が一を考慮して、君を1人にするわけにはいかない。明日の仕事には、俺も付き添わせてもらいたい」

「はい、分かりまし……」


 分かりました、そう言おうとした櫻子は、統治の言った言葉を脳内で反すうして……大きく目を見開いた。


「あ、あのっ!? 名杙さん、付き添いとは一体……!?」

「今日の夕方にも説明したと思うが、君は今、霊的にとても不安定な存在である可能性が高いんだ。とりあえず明日1日は俺が近くに居て様子を見せてもらいたいと考えている。恐らく同じ敷地内にいれば対処出来るから、君の仕事中は、俺は車で……」

 車で張り込むと言い出そうとした統治を、櫻子が慌てて制した。

「なっ、何を言っているんですか!! 場所はありますから院内でのんびりしていてください!!」

「そうか。あと、パソコンの設定や力仕事であれば手伝えると思うから、何でも遠慮せずに――」

「――そ、そうじゃなくて!! 名杙さんのお仕事はどうなさるんですか!? 人手が足りないから、今回私にもお声がかかったんですよね……?」

 統治の身を案ずる櫻子へ、統治は表情を変えずに言葉を続けた。

「このことは佐藤とも相談しているから問題ない。ただ、君の予定を邪魔するつもりはないのだが……可能であれば、午後からは『仙台支局』に一緒にいてくれないだろうか。勿論、君がどこかへ行くということであれば、俺が付き添わせてもらう」

「……」

 話がとても、とても飛躍している。彼に付き添ってもらえるのは心強いけれども、統治がここまで言い切るということは、自分はそれだけ予断を許さないような、気を抜けない状態なのだということを察することが出来た。

 寄り添いたいと言いながら、迷惑をかけてしまった。

 心の中に、後悔が押し寄せる。

「……申し訳ありません」

 俯いて萎縮した櫻子に、統治は「問題ない」と返答しようとして……一度、言葉を切った。

 そして、もう少しだけ、言葉を足すことにする。

 今はこの空間に2人しかいない。だから……自分の胸の内を語ったとしても、聞かれるのは彼女だけだ。

 これからもっと、2人の時間を作るために。

「……将来、君と結婚をした時に、俺が君の仕事を知らないのは情けない。だから、機会を見つけてちゃんと知っておきたいんだ」

「名杙さん……!?」

 統治の口から初めて聞いた未来への展望。予想外の単語に櫻子が目を白黒させていると、統治は彼女を真っ直ぐに見据えて……口元を緩めた。

「俺は……俺に寄り添いたいと言ってくれた君に応えたいし、君の支えになりたいと思う。君は自分を未熟だと言ったが、それは俺も同じことだし、俺にとっては十分過ぎるほど魅力的な女性だ。だから……こんなことを俺から言うのはおこがましいかもしれないが、結婚を前提に、俺と付き合ってくれないだろうか」

「っ……!!」

 櫻子は統治の言葉に息をのむと、机越しに自分を見つめている統治を見つめた。

 今の言葉が、彼にとって最大級の賛辞であるということは……今の櫻子にもよく分かる。とても考え抜いて伝えてくれた言葉なのだということもよく分かった。

 元々、彼と結婚するつもりでお見合いの話を受けた。

 自分は……彼に認めてもらえた。

 それが今は素直に嬉しいし、これからも彼を失望させないよう、隣で支え続けたいと思う。

 櫻子は一度息をつくと、右手を静かに彼へ向けて突き出した。そして、凛とした眼差しで彼を見据え……決意を伝える。

 覚悟など、とっくの昔に決めていたのだから。

「不束者ですが……これからも、宜しくお願いいたします」

 櫻子が出した手を握り返した統治は「ありがとう」と告げてから……ふと、以前心愛に言われた言葉を思い出した。


 ――いい、お兄様。櫻子さんにはちゃんと言葉で伝えないと駄目なのよ。要するに……す、好きならちゃんとそう言わないと、絶対分かってもらえないんだからね!!


 ……言い忘れた。


 そう自覚した瞬間、冷や汗が流れる。

 これが心愛に知られたら白い目で見られるのと同時に、自分の近くにいる友人が、この一言を伝えられずに関係がくすぶっていることを思い出して……このままではいけないと、とても強く思った。


 きっかけはお見合いだったけれど、そこから彼女と一緒にいる時間が増えて……何に対しても真摯にうちこむ彼女の姿を見て、尊敬の念を抱く機会が増えた。

 そして先程――思わず言葉を失うほど、彼女の強さに惹き込まれてしまった。 

 それらを総称する言葉を口にだすのは、いつもより勇気が必要だけど。

 ただ……口に出さないと彼女に伝えられないのだから、誤解を与えないよう、はっきり伝えよう。


 統治は思わず、握った手に力を込めてしまった。そして、首をかしげる彼女へ向けて、真顔で言葉を付け加える。

「言い忘れていたかもしれないが、俺は君のことを、その……1人の女性として尊敬しているし、ちゃんと好意を抱いている。その上の申し出なのだということは……知っておいて欲しい」

「えっ!?」

 不意打ちで言葉を付け足された櫻子は、彼の言葉に目を大きく見開いて……。

「……それは、反則です……」

 机の上で統治と握手をしたまま、顔を赤くして俯いてしまうのだった。

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