エピソード1:What is the truth?②
「やっ、山本さん……!!」
顔を上げたユカの元へ、瑞希が慌てて駆け寄ってきた。
肩につきそうな長さの髪をハーフアップに結って、水色のブラウスにグレーのタイトスカート、足元は黒いパンプスを履いて、転ばないように注意しながらも小走りで近づいてくるのが分かる。
彼女が仙台支局で正式に働き始めるのは8月のお盆明けなので、今はまだ、なるみの下で働いているのだ。
「支倉さん……」
……誰も、自分のことなんか気にかけてくれないと思っていたけれど。
ユカは自分の前でオロオロしている瑞希を見上げ、肩をすくめた。
「お疲れ様です。仕事中ですよね? あたしは1人で大丈夫ですから……」
「な、何言ってるんですかぁっ……!! 山本さんこそお仕事中ですよね!?」
「あたしは……ううん、今日はちょっと早退。少しここで休んで、今から電車で帰るところだったので――」
ユカはそう言って頭を振ると、なるだけいつも通りを装って立ち上がった。
そして、オロオロと狼狽する瑞希に向けて手を振って背を向けようとした、次の瞬間――
「――山本さん、ちょっと待って」
2人の間に割って入ったのは、後から追いついたなるみだった。動きやすいグレーのパンツスーツを着こなしている彼女は、まず、困惑する瑞希に視線を向けて……次に、顔をしかめたユカを見やる。
そして、1人で一度頷いた後、もう一度瑞希へと視線を向けた。
「支倉さん、悪いけど先に事務所に戻っていてくれる? 私は彼女を車で送っていくから」
「っ……!?」
よく通る声で予想外のことを告げられたユカは、驚きで更に目を見開く。
確かに彼女とは過去に挨拶をしたことがあるとはいえ、ほぼ初対面に近い。そんな人物にいきなり頼れるほど、ユカは他人に対してすぐには心を開けないのだから。
「え、えっと……江合さん、あたしは1人で帰れますから……」
取り繕おうとするユカに、なるみは真顔で首を横に振る。
「そんなに顔を真っ白にして、説得力なんかないわよ。それに……山本さんには支倉さんもお世話になったから、これくらいさせて頂戴」
「いやあの、でも……」
「じゃあ、東口のロータリーまで車を回してくるわね。支倉さん、さっきの場所まで山本さんの案内、お願いね」
そう言ってくるりと踵を返すなるみに、ユカは二の句を継げないまま……颯爽と遠ざかっていく背中を見送ってしまった。
そんなユカの隣に立つ瑞希が、苦笑いで肩をすくめる。
「突然スイマセン……でも、私も、今の山本さんは1人で帰らない方が……いいと思います」
「あたし……そげん具合悪そうに見えます?」
ユカの問いかけに、瑞希はオズオズと首を縦に動かした。
「上手く言えないんですけど……何か、1人で抱えてこんでるみたいに思えたんです。この間までの私が……そうだったから」
「支倉さん……」
「でも私は、山本さんや皆さんに助けてもらいました。そのおかげで、今があります。だから……私も、困っている人の力になりたいんです」
瑞希はそう言って、ユカに向けて手を伸ばした。
「その荷物、持たせてください。歩けますか?」
「……ありがとう、お願いします」
ユカは観念して瑞希に持っていたカバンを預けると、彼女の先導で歩き始める。
捨てる神あれば拾う神ありだな、と、心の中で苦笑いを浮かべながら。
その後、仙台駅東口のロータリーでなるみと合流したユカは、彼女が運転する車の助手席に乗って、国道45号線を塩釜方面へ向かっていた。
「山本さん、お大事になさってくださいね……」
最後まで心配そうだった瑞希にもう一度「ありがとう」と告げると、彼女が少し安心した表情で、はにかんだ笑みを向ける。
前に会ったときは、張り詰めた表情が多かった瑞希。彼女がこんなに柔らかく笑えるようになったことが、素直に嬉しい。
ユカはシートの背もたれに体重を預けて、一度息を吐いた。そんなユカになるみが住んでいる場所の地区や、目印を尋ねる。
「山本さんは今、どこに住んでいるの? 仙石線沿いで良いのかしら?」
「え、えぇっと……」
具合が悪いこともあり、頭が回らず上手く説明する自信もなかったため……ユカは住所をそのまま伝えた。一度車を路肩に止めたなるみは、手元のスマートフォンの地図アプリで場所を特定してから「あぁ……」と呟き、再度車を走らせる。そして、助手席に座るユカに話しかけた。
「山本さん、政宗君の家の近くに住んでいるのね」
「江合さん……政宗の家の場所、知ってるんですか?」
「まぁ、一応ね……そっか、やっぱり知らないか……」
車が赤信号で停車したところで、なるみが苦笑いで肩をすくめた。そして、訝しげに頸をかしげるユカをミラー越しに確認した後、あえて言葉を選ばずに、その理由を告げる。
「私と政宗君、少し前に付き合ってたの」
「へ……?」
意外な人間関係の発覚に、ユカは思わず間の抜けた声を出していた。その反応が面白かったのか、なるみが思わず吹き出して軽く肩を震わせる。
「やっぱり気づいてなかったか……私は一発で分かったんだけどなー」
「え? えっと……何のことですか?」
心当たりがないなるみの発言に、ユカが顔をしかめて首をかしげた。ミラー越しにその表情を確認したなるみは、軽く首を振って前を見つめる。
「何でもないわ。とにかく、過去にそういう関係だったから、彼の部屋にも行ったことがあるの。勿論逆もあるけどね」
「そうなんですか……」
「あら、意外と冷静なのね」
どこかからかうように告げるなるみを、ユカは若干面倒だなと思いつつ……心の中にある正直な感想を口に出した。
「いや、だって……その、そうですかとしか言いようがないというか……そうなんですね、っていうしかないというか……」
政宗となるみが過去に付き合っていた。その事実を知ったところで、今のユカには何も関係ない。
過去のことなど、今を生きるユカには……どうしようもないのだから。
そう、過去はどうしようもない。
自分が一時的に成長して、自分の知らない時間を過ごしていたことも。
自分が、政宗に対して好意的だったことも。
――政宗が、自分に嘘をついていたことも。
全てが事実。そして、全て終わったこと。
今更、どうしようもないのだ。
黙り込んだユカをチラリと見たなるみは、信号が変わったことに気が付いて車を走らせた。県道を道なりに東へと向かいながら……無言で外を見つめているユカへ、こんなことを尋ねる。
「山本さんは、政宗君と古い知り合いなのよね。昔の彼は、今の彼と変わってない?」
「え……?」
質問の意図が分からずに、ユカが彼女の横顔を見つめた。
なるみは前方を見つめてハンドルを握ったまま、先程の問いかけを補足する。
「私と付き合ってた頃の政宗君って……行動力もあるし、大人の中ですごく頑張っていたけれど、自分のことに関心がなかったの。体調を崩しても見ないふりして頑張っちゃって……急に九州に呼ばれたから行くとか、そんなことばっかり。支局長っていう立場なんだからもっと自分を大切にしなさいって、何度かぶつかったわ」
「そうなんですか……」
この言葉に、ユカは何となく、今までの彼を思い返してみて……確かに、4月の一件では起死回生の一手として自分の『因縁』を切って、統治にレンタルしていたことを思い出す。
「今度こそ、3人で乗り切るんだ。俺たちの底力、麻里子様に見せつけてやろうぜ!」
あの時そう言った彼の表情には、何の迷いもなかった。
彼がずっと、並外れた度胸で自分たちに向けて話をしてくれたから……ユカも統治も、あの突拍子もない計画に乗せられてしまったと思っている。
それにきっと、6月に自分が倒れた時も、色々と無理をさせたんだろう。あれだけ外を走り回っている政宗が自宅勤務をするということは、その前後にかなりしわ寄せがあったのが容易に想像出来る。ちゃんと覚えていないけれど。
言われていることはよく分かる。けれど、それをほぼ初対面の女性に語られると……少しだけモヤモヤがたまってしまうのは何故だろう。
あたしの方が、彼と過ごした時間は……長いのに。
心の中に去来した感情にユカは頭をふると、一度、息を吐いた。
そして口元に苦笑いを浮かべると……肩をすくめる。
佐藤政宗という稀代の逸材に振り回された彼女への、同情も込めて。
「……分かる気がします」
ボソリと呟いたユカの横顔を、なるみは一瞬一瞥した後――カーブに沿ってハンドルをきる。
そして、前を向いたままこう言った。
「政宗君がそこまでやったのは……何のためだったのか、知ってる?」
「それは……知りません」
ユカは言いかけた言葉を飲み込み、首を横に振った。
本当は分かっていた。
彼が頑張ってくれたのは、仙台に3人の居場所を作るため。
3人で一緒に働きたい、10年前にそういった自分の願いを叶えるためだ。
分かっている。
分かっているからこそ……彼がユカに対して嘘をついていた、その事実をすぐに受け入れられない。
信頼を裏切られた、そんな気持ちを拭い去れないから。
知らないと言って再び窓の外に視線を向けたユカに、なるみはそれ以上何も言わず……黙って車を走らせた。
途中、なるみのはからいで、道すがらに見つけたドラッグストアに立ち寄った。そこで食料なども調達してから……車はユカが拠点にしているワンルームの駐車場に到着。今は車が停まっていない駐車スペースへ、一時的に車を停める。
シートベルトを外したユカは荷物を持って姿勢を正し、改めてなるみへと頭を下げた。
「何から何まで……本当に、ありがとうございました」
「いいのよ。私がそうしたかったんだから」
なるみは笑顔を向けると、財布から名刺を1枚取り出した。そしてそれをユカに手渡す。
「私の携帯番号とメールアドレス、そこにあるから。何か困ったことがあったら連絡してね。政宗君達と喧嘩してるんじゃ、頼りづらいこともあるでしょ?」
「え? あ……」
そんなことまで話をした覚えはない。ユカが思わず目を開いて彼女を見つめると、なるみはいたずらっぽく笑ってこう言った。
「山本さんは仕事に対して真面目な人だって、支倉さんからの話やあの一件で分かっているから、ちょっとやそっとの体調不良じゃ帰らないと思ったの。それに……あの政宗君や名杙君が、いくら仕事が忙しいとはいえ、体調不良の女性を1人で放り出すのも疑問だった。だから……2人に頼れない何かがあったのかしら、ってね。図星?」
「……」
ユカの無言を肯定だと捉えた彼女は、こう、言葉を続けた。
「私が踏み込めない領域の話かもしれないから、無理に話そうとしなくていいわ。山本さんが本当に信頼出来る人を思い出して……少し、楽になれるといいわね」
こう言ってむやみに踏み込まない、その態度が今はとてもありがたくて。
「ありがとう……ございます」
今は……そう言うのが精一杯。
深く頭を下げるユカに、なるみは笑顔を向けながら……浅く、ため息をついたのだった。
その後、部屋に戻ったユカは、自分のスマートフォンを確認して……特に誰からも着信や連絡が入っていないことに安堵すると、電源ボタンを押して画面を暗くした。
そしてそのままベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。
分からない。
何も分からない。
自分に一体、何が起こったのか。
どうして彼らは嘘をついていたのか。
どうして『あの時の自分』は、彼のことが――
「……気持ち悪い……」
最後の疑問が脳裏をかすめた瞬間、言いようのない不快感と、苛立ちが……募る。
ユカはベッドから立ち上がると、テーブルに置いていた500mlペットボトルのスポーツドリンクを手に取った。キャップを開いて中身で喉を潤し、呼吸を整える。
考えたって、意味がないじゃないか。
1人では何も分からない、これが結果だ。
ユカはそのままテーブルにつくと、統治から受け取った昼食用のお弁当を開く。
本当ならば、3人で話しながら食べていたはずの食事。牛タンにカキフライなど、ユカの好きなものが並んでいるはずの食事は……味がよく分からなかった。
食事を終えて一息ついていた時、手元のスマートフォンが2回震える。同時に画面へ表示された通知を見たユカは、その内容に思わず身構えてしまった。
送り主は統治。
内容は――今日の夜、政宗の部屋で、伊達先生を交えた話をするということが記載されていた。それ以上の内容は、通知画面では見ることが出来ない。
「っ……!!」
ユカは荒くなる呼吸を整えながら画面を操作して、メッセージの内容を確認した。
「え……?」
そして、予想外の記載に目を丸くした後……彼らなりの心遣いに肩をすくめて、了承の返事を送信する。そして、ゴミを片付けた後……再びベッドに転がって、天井を見上げた。
全ては、今夜。
そこで――全てが、分かるから。