I55 想い出を遺そう
――黒樹とひなぎくは、アトリエデイジーの仕事で、再びパリに来た。
シテ島のノートルダム大聖堂、名は聖母マリアを指す教会が焼け落ち、ひなぎくも心配していたと言うのもある。
それを受けて、アトリエ展示物のレプリカ制作旅行となった。
あれもこれもと回って、三日目には俺でもしんどい。
手術後の経過は順調なようで、そこも見落としてはならない。
ご婦人のこと、大切なこと、なるべくフォローしなければと思う。
それから、暫くとはいえ、残して来た子ども達とも逐一スマホで連絡中だ。
「ひなぎく、気分転換に行ってみるか」
「あなたの行く所なら、ご一緒しますわ」
喧騒の中、ひなぎくに手を繋がれると、危なっかしいヒヨコみたいな風船に感じる。
手放しては駄目だとね。
「わあ、素敵!」
パリのビュット・ショーモン公園は中々に広い。
随分とひなぎくと散策をして、いい写生スポットを探していた。
ひなぎく愛用の一眼レフが、夏の眩しさに埋もれない。
だが、もう夕暮れが迫り、虫が鳴いている。
幸福のシンボル、蝉に似ているが、果たしてその姿は見えなかった。
蝉シャワーを浴びながら暫く地を踏む。
どちらからともなく切り出した。
「そろそろ、一休みしない」
「そろそろ、一休みしよう」
ブランコが沢山あった筈だ。
大きな湖を後にして、空色のポールが立ち並ぶ所へ抜け出た。
「いつもは、親子連れで賑わっているのに」
「おう、腰掛けようか」
俺が右、ひなぎくが左と隣り合って座った。
白いジーンズから細い足首を出して、ひなぎくが地を蹴る。
「おっと」
俺は反動で回転しそうになる。
踏ん張ってブランコを立ち乗りした。
二人して、揺られていた。
ずっとこのままでもいいとさえ思う。
だが、そうも行くまい。
今朝からずっと、ひなぎくの様子が変だ。
本来なら、もっと明るいのに、翳りが見える。
だから、ビュット・ショーモン公園に彼女を誘ってみた。
カメラ大好きだからな。
「あなたは、どんな子供時代だったのかしら」
「どんなって。んん、よく覚えてないかな。勉強には精を出していたけれども」
破顔一笑する。
何だ、そんなことか。
一つは、断言できる。
明るくてかわいいひなぎくとは、真逆の子どもだっただろうとね。
「私ね、特に高校生の頃を好きだとは思えないのよ。トラウマだわ」
「俺もだ。小学生の分校で別れを知ったとき、口の中が苦くなる思いをしたよ」
彼女のブランコが、引潮に誘われるように消えて行った。
どうした!
心の中で瞬時に叫んだ。
「あなたに、話せないし、話したくないこともあるの」
ひなぎくは、ブランコを前にこぎ出して、綺麗に降りた。
振り向いた顔は、眉間に皺まで寄せている。
「むむむ。悩みは、太陽系で言うとどれ位大きな惑星なんじゃ」
些細な事で悩む癖があるからな。
直径が四八八〇キロメートルの水星位だといいが。
「俺は、今のひなぎくが……。心まで真っ白で綺麗だと思っているよ。傍にいるだけで、幸せで斃されそうだ」
「でもね、本当の私を知らないわよね。あなたが思ってるような人か心配だわ」
細く息を吐いたのが、隣の俺にも分かる。
「あなたは、私の昔話を聞きたいと思うかしら。それとも、要らないとか思う?」
「んん、Iカップばかりに目を奪われては、いないんじゃもん」
ごまかそうとしても駄目だ。
俺は、ひなぎくが抱えていた古傷を分かっていたのか。
何より、幸せの最中で、探そうともしなかったのだろう。
辛かっただろうな、ひなぎく。
古傷を知らなくてもいいと思う自分がいる。
過去はもう流れ過ぎたものだから。
俺は迷っていた。
足元には影が二つ。
昔の傷に触れるか否か、さあ、決めるんだ――。
◇◇◇
「俺は、元妻と結婚するとき、連れ子が二人もいて、父親も二人だなんて知りもしなかった」
ひなぎくが、息を呑んだ。
「要は、俺自身が俺を信頼できない程軽率だった」
「そんなことないと思うわ。誰にだって内緒にしていることがあると思うもの」
俺もブランコから降り、軋み揺れる音を止める。
蝉は、荒々しく対抗していた。
「でも、よく分からないけれども、俺を父親だと思ってくれてな、そりゃあ嬉しかったもんだ」
飛行機に乗るときは、小さなアルバムを持ち歩くことにしている。
全ての写真に『四葉のLОVEクローバー』を刻んでだ。
「元妻との子、劉樹、そして、虹花と澄花が産まれてからは、絆が深まったと思う程、愛おしかったよ」
「よかったわね」
やはり、ちとお冠だな。
これだから、飛行機でひなぎくが眠らないと四葉は拝めない。
「勿論、ひなぎくに授かった静花ちゃんも愛おしいさ」
ん?
薄っぺらい台詞に聞こえたのか。
本気なんだがな。
「よし、これが俺の告白だ。さて、ひなぎくの番だ」
◇◇◇
「私はね、ノートルダム大聖堂で、あなたの元奥さんを見掛けたわ。それを見つめるあなたもね」
「そのことかい」
元妻とは関係がないが、二年前のニュースで見た大聖堂は、火災が起きて大惨事だった。
この国の人々の心を焦がしてはいないかと思ったものだ。
そこで、ひなぎくが再燃か。
「うううん。昔の話は、もう少し遡らせて貰うわ」
「無理はするなよ」
「檸檬画材店の上にある……。喫茶店で、その……」
これは、大聖堂がお怒りだろうか。
マリア様の悪戯にも感じられる。
ひなぎくが、苦悶の表情で声を失っている。
「駄目だ! それ以上は、語らないでくれ」
俺は、肩を掴んで懇願した。
いけない。
この娘は、メンタルが弱いんだ。
「あなた。でも、私も語らないとアンフェアだわ」
「告白は、勝ち負けでも何でもない。何かに感謝したとき、ふと心の奥から零れ出るもの。俺はそれだけでいい」
もう、まるっとひなぎくを抱き締めていた。
壊れて欲しくないんだ。
愛も情も伝える術を知らない。
そのファインダーで俺の気持ちだけを切り取ってくれ。
「あ、あなた……」
「なんじゃい」
ひなぎくの甘い香りが、最後の蝉と重なった。
「あのね、楽しい想い出にしたいの。今度、その喫茶店に一緒に行ってくださいね」
きゅうん。
俺、仔犬でもいいかな。
「お願いしますわ!」
「お、おう。ゲラゲラ笑えよ」
ひなぎくは、ふふふと笑った。
折角来た公園だ。
もう少し、ブランコに揺られてから、帰ろう。
◇◇◇
――飛行機が地面を蹴ってからまだ二時間も経っていなかった。
「疲れていたのかい」
毛布を掛けようとしたが、猫パンチで振り払われた。
俺の顔面にジョーのジャブが入る。
寝相大虎め!
彼女の寝息が俺の男を擽って仕方がない。
可愛いって、自覚がないよな。
無自覚も辛いんじゃもん。
「ふう、約束が一杯になってしまったな……。白咲のご実家へのお披露目、友人のいすみ 静江さんとの面会、檸檬画材店での喫茶店デート、と」
俺ってこんなにモテたっけ?
とにかく、俺も長生きして、ひなぎくの傍にいなければならないということが分かった。
支えるんだ!
今度の愛する人こそ、軽率だったなどと悔やまないように、俺らしく大切にするんだ。
そして、飛行機は、成田へと滑り降りた。
「一安心だな」
アナウンスなどもあって賑やかだったろうに、まだ眠っている。
どんな夢を見ているのか。
檸檬画材店の上にあった喫茶店、実は潰れていると知っているんだ。
その代わりにレストランになったらしいぞ。
「奮発するから、精の付くものを食べてくれ」
牡蠣の亜鉛とかいいな。
あ、そのまま、食べるなよ。
ジンクホワイトとか、亜鉛の王様だからな。
いやさ、魔王か。
「あぷう……」
「おう、日本だぞ!」
「ふへえ、もう――?」
タラップへと手を取った。
眠っていたので、ほっほっとあたたかいのじゃもん。
このまま、仲睦まじく……。
一生な。




