E15 別れ雪と母
皆、無事に二荒神温泉郷巡回バス、ひよこ印のおんせんたま号に乗った。
そこそこ空いているので、各々好きな席に座る。
黒樹は、珍しく、ひなぎくや子ども達と離れ、一人ぽつねんとしていた。
今、心の旅に出ている。
自分の生い立ちについて振り返っていた。
黒樹は、偶然にもひなぎくがパリの学生時代に二荒神町を再び訪れたいと話した時に、とても驚いたのを思い出した。
今まで忘れていたが、荒上町、荒下町、神郷町が合併して新しく名を変えたとしても、二荒神町は、俺のふるさとだと思ったからだ。
二荒神小学校にはまだ分校が二つあった頃だ。
当時は温泉などなく、かいてもかいても積もる雪、頬も指先も凍るように冷たくなってしまった母親、黒樹和子の想い出であふれている。
小学校は、最初の二年は分校の米川の辺りにある所へ通っていたが、新しく父が本校のある神郷の辺りに引っ越しを決めた為、三年生からは本校になる。
二年の冬休みに入る時、昇降口で、本校へ行くと決まったと軽々しく喋ってしまった。
分校でいつも同じ教室の友達、六年の畑田隆や五年生の松村友子、飯田久子は、とても哀しそうに黒樹悠と握手して、抱き締めてくれた。
「黒樹のゆうちゃん」
畑田が最初に泣き出した。
「ゆうちゃーん」
松村は、涙がもたない。
「ゆうちゃん……」
飯田は、声までかすれている。
涙が尽きることはないのかと思う程、友達が泣いていたのを覚えている。
でも、その時の黒樹は、別れの限界など知りもしなかった。
広い校庭で、びゅびゅごうびゅっごうとうなる風雪の中、何故、皆が泣くのか、一つも分からなかった。
頬には打ち付ける雪。
まつ毛が瞼でツララになるのではないかと思う程、立ち尽くした。
小学一、二年生と幼かったのに、名前を忘れもしない。
米川の辺りにあった分校は、児童は四人しかいなかった。
たかちゃん、ともちゃん、ちっちゃん。
それにみどり先生こと、深見緑先生。
先生は、職員室など殆ど使わないで、お弁当の時間も皆と一緒に食べてくれた。
昼休みは、テストの丸付けなどよりも、一緒になわとびや鬼ごっこをしてくれた。
いつも優しい先生だ。
先生の方から家庭のことも相談に乗らせてと声掛けもされた。
春になり雪もまだ残る頃、ボケっとしたまま本校へ行ったら、何と黒樹と同じ学年の子がいたので驚いた。
三年生が一クラス三十五人で、梅組と松組の二クラスととんでもない規模だった。
分校でやらなかった遊びが一つだけある。
花いちもんめだ。
あれは、人数が要るものな。
本校は、大体、一学年に七十人位いた。
だから、六学年で、四百人位はいただろう。
どうして分校なんてあったのか、あまり疑問に思っていなかった。
遠いのだ。
遠く遠く遠く遠く、果てしなく遠く、本校と分校とは、そんな距離にあった。
浮世のとうとうと流れるこの川は米川と呼ばれており、人口よりも田んぼの方が何枚と多いのだから、人より田んぼが何より大切にされている。
黒樹には母もいたはずだが、一緒にいたのは父が多かった。
大がかりな田植えや刈り入れ時以外、常日頃田んぼをやっていたのは母で、家事をやっていたのも母だったのに対して、父は決まった時間に行って帰って来る団体職員だった。
八時にご飯を食べて帰宅は五時、そして、晩酌をするのだから、ご身分としてはいい方だと思う。
だから、うちは晩ご飯が早かった。
晩ではなくて、夕方の五時半には食べるから、これこそ夕ご飯だろう。
お隣から打ちたてのお蕎麦をいただいた時、皆、その夕ご飯を食べ終わったばかりで、苦笑いしながらも別腹だと食べたのを覚えている。
そうだ、ひなぎくはどんな小学校でどう過ごしたのだろう。
劉樹と虹花は澄花への学校でのイジメをかばってくれているようだ。
皆の暮らしぶりが、ここへ来て気になるようになった。
今まで、パリで放っておいて、父親面していたなんて恥ずかしい。
今度、じっくりと聞いてみよう。
今度、必ず、聞いてみよう。
「どうかしましたか?」
「いいや、何でもないさ。何でもない」
バスがとこりとこりと連れて行ってくれた。
「プロフェッサー黒樹、私ね、思うの。最後には月や火星にだって行けるのではないかと思った位、素敵な旅だったわ。まだ午前中だというのに、湯けむりの中を行くと、蒸気機関車の気分になれました」
ひなぎくは、黒樹の隣にちょこんと来て、口元に手を当てる。
「もっとも、隣町では単線ながら観光の為に蒸気機関車を実際に運行しているしな。ひなぎくちゃん」
「この蒸気機関車気分のバスの旅は、中々いいと思いますよ。これをプロデュースできたら、呼びものとして期待が大きいでしょうね。U科学博物館では、入り口に蒸気機関車やシロナガスクジラの模型がありましたよ」
模倣は創造の母なり。
しかし、真似るのは、高等な技術がいるということも念頭に置かないとならない。
プパープーと、おんせんたま号は、米川を横切って更に上流にある二荒社前で皆を下した。
ここが、分校に一番近いらしい。
間もなく、皆、噂の高い米川の分校へとやって来た。
黒樹の記憶にも埋もれてしまって、こちらの校舎は、見覚えがあるのかないのかさえ分からなかったが、少なくとも建て替えたばかりには見えなかった。
「あのー、私が見て来ましょうか? プロフェッサー黒樹」
「いや、いいよ。俺が父親だから、行って来る」
薄い頭を搔いている。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ、劉樹」
かがんで劉樹の愛らしい瞳を見つめる。
「パーパー、虹花がついているよ」
「パパ……。無理しないで」
虹花も澄花も先程のことがあってか、心細くも応援している。
目を細めて、うんうんと黒樹が頷く。
子どもに背中を押されていては仕方がない。
漢だ。
腹をくくろう。
「そうよ、女将がついています」
まさかのひなぎくが、ぽいーんと胸を叩いた。
「女将、とうとう、自身の口から。Eカップ湯けむり美人ひなぎくを唱えたか」
「そそ、それで構わないから、がんばって参りましょう」
女将が言葉通りに黒樹の背中を押す。
「いや、一人で行く。皆を怖い目に合わせたくない」
「ええええええええ、怖いの?」
「ええええええええ、怖いの?」
虹花と澄花のハーモニーで、場は固まった。
「大丈夫」
後ろを向いたまま手を振って、校舎へと消えて行った。
待っている方がじれったくなる程時間が経った。
また、こちらにやってくる姿が見えた。
結果はどうだったのか、皆、落ち着かない。
「大歓迎だってさ」
一言目にそれであった。
黒樹は、青ざめているどころかほっとしていた。
「それで、今すぐには全部は学校の荷物が揃わないから、暫く時間をいただけるかな?」
「大丈夫でぴく」
「はい、パパ」
劉樹と虹花は元気を取り戻したようだ。
「パーパー」
「虹花ちゃん、泣かないで」
しがみつくので、スーツはよれよれのしみしみになった。
「ひなぎくちゃん。虹花は涙もろいところがあるのですよ」
黒樹が抱き上げた。
少ししたら、もう泣かないと決めたようだ。
「よし、皆で、米川分校へご挨拶に行こう」
快い返事が聞こえた。
分校へ通うとなると、住まいやアトリエは程々の距離がいいのか?
ひなぎくは、アトリエの場所に今になって困り始めた。
そして、ここは、温泉郷でもあった。