第一章・遠い日の旅立ち
海を見下ろす小高い丘の上に、白い平屋の家が在ります。
その家は、どの部屋の窓からも海を眺めることの出来る家でしたが今は住む人もなく、この家を知る人達に羨ましがられた寄木造りのテラスの床は、雨風に晒され朽ち(く)果ていて、雑草まで生い茂っています。
家具も調度品もそのままの室内は、蜘蛛の巣があちこちに出来ていて、主人の居ない家はひっそりと静まり返り、訪ねて来る人など居る訳もなく、物悲しさをいっそう掻き立てています。
五年ほど前の事だったでしょうか、この家の主人、ロバート・コスナーさんは八十五年の生涯をこの家で静かに終えました。
そのあと、この家に住んだ人は居ません。
天候に恵まれた日には、テラスに置いた揺り椅子に腰掛け、パイプを愉しみながら、海を眺め、本を読み、音楽に浸り、穏やかな晩年をこの家で過ごしました。
コスナーさんの波乱に満ちた生涯の中で、この家で暮らした日々は間違いなく幸せな時間だった筈です。
あの悲しい出来事が起きるまでは…。
なだらかな丘を上り切った処に建つその家の周りは、麦畑が拡がっていて朝日が昇る時と夕陽が沈む時と、一日に二度、麦畑は黄金に燃え上がります。
同じ色の様でも、朝日と夕陽では創りだす色は微妙に違っていて、その光景の見事さは、喩様もありません。
毎日のように眺めている彼でさえ、大自然の荘厳な儀式はその度に息を呑むのです。
テラスの向こうは、切り立った崖が、その下の砂浜へ落ち込んでいるのですが、テラスからは見る事は出来ません。
テラスから見えるのは、何処までも続く海だけです。
その碧い色は、沖へ向かって色を変えながら、外洋の辺りは、雄々しい群青の拡がりが続き、あちこちで波頭が白く弾けて、特に春の季節は、海が水平線のところで空と溶け合っているように見えるのです。
海は、四季折々の表情を見せてコスナーさんを楽しませてくれるのですが、冬の海だけはコスナーさんは好きになれませんでした。
灰色の空の下に拡がる闇のような色の海、一瞬の間も、穏やかさを見せる事の無い海面は、怒り狂う魔物か、世界の果てにそびえ立つ、人間を寄せ付けない山脈の連なりのように見えます。
風は凍りついたように冷たく、砂や氷の粒が混じり合い肌を刺します。
羽根いっぱいにその浜風を受けながら、高く低く位置を変えて、餌を探す海鳥達の姿が、何故かコスナーさんの心を哀しみの色に塗り潰してしまうのです。
暖炉の薪がパチパチと音を立てている暖かい家の中から硝子越しのそんな風景を眺めているコスナーさんはきっと幼い頃、遠い北の国から両親達と一緒に貨物船の船倉に隠れて、この国を目指した日を思い出してしまうからなのでしょう。
船着場の突端で弱々しく灯るブリキで出来た外灯の笠は、強風に煽られ、カタカタと音を立てて、今にも吹き飛ばされそうでした。
猛り狂う波は、防波堤を越えて港の中へ入り込んできます。
幌を付けたトラックの荷台に何十人もの人達が乗り込み、息を殺して彼等が国外へ逃げる為の貨物船がやって来るのを待っていました。
まだ六歳に成ったばかりのコスナーさんにとって、この夜の経験は鮮烈に彼の脳裏に刻み込まれたのです。
軍隊や警察の目を盗んでの脱出です。
危険な命懸けの旅が始まろうとして居ました。
