表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/11

五章


 ――灯かりの無い部屋。


 一条の光も締め出された部屋、しかし、この視点の持ち主はその部屋の細部に至るまで感覚することができる。

 ――そう。

 何度も訪れた(ばしょ)――。

 身体(からだ)の奥底から、飢えが溢れて止まらない。この渇きを満たせと、(シン)から這い出してくる、衝動。

 にやり、と口元だけ笑みの形を作るが、それ以上の気配を、(それ)は出さない。音を立てない笑い声、昂ぶる心音も周囲に気取らせない。滑るような足取りで、部屋の中心へと進む。

 ……灯かりなどなくとも、この部屋の造りはよく診える。

 基本的には、なにもない部屋だ。天井近くにある柱時計が(かす)かに音を立てているが、人の睡眠を妨げるほどの力はない。机と椅子はあるが、一人が座れば埋まってしまうような、本当に小さなモノ。目の前に扉、振り返ればカーテン。……どちらも、この時間に人が駆けつけるにはか細い存在。

 ついに目的に辿りつき、視点はそれを見下ろす。一人用のベッド、そしてその上にいるのは、正しく一つの肉の塊。

 ――……………………。

 にやり、と。(それ)は音のない笑みを漏らす。

 もう、何度繰り返してきただろうか。幾夜、毎夜、人知れずこの祭壇の前に足を運び、この牲を喰らいにくる。

 ――そう。

 ココは、――祭壇。

 コレは、――牲。

 (それ)のために捧げられた、供物。

 できるなら、一夜のうちに全部頂いてしまいたいが、(それ)は毎夜、己が衝動を自制するのに苦心する。

 ……焦ってはいけない。

 あくまで、この牲の傷は自然のモノに見えなければならない。不用意にヤリすぎて異常が露見してはいけない。……誰にも、牲にも――己にすら――気づかせては、いけない。

 以前は、それがゆえに失敗してしまった。いや、成功ではあったのか。だが、それは中途のうちに妨害された。――――己が衝動に、身を()くようなこの渇望に任せて暴れたせいで、この肉体に鉄槌を下す者が現れた。

 ――そう。

 (それ)は、覚えている――。

 仮に壊れた記録であろうと、意識をもっているときには認識できないような断片と化しても。……この、衝動の(なか)の〝視点〟であるなら、(いにしえ)の記録も認識することができる。

 ――……………………。

 (たま)らず口を開きかけた(それ)は慌てて、しかし音は立てないようにして閉じる。

 ……まだだ。

 確かに、視点はベッドを上から見下ろす位置にある。少し手を伸ばせば、十分に届く位置。

 …………だが、念には念を。

 眼を凝らす――耳を澄ます――鼻と口に空気を潤滑させる――――――感覚を、研ぎ澄ます。

 毛布の上から、牲の肢体を透かし見る。規則的な寝息と心音から、熟睡していることがよくわかる。その肢体から、肌から、毛髪からも、(かぐわ)しい香りが漂いくらくらしてくる。

 ――アア。

 (なか)から、昂ぶりが抑えられなくなる。

 指の先まで、喉元まで、この度し難い衝動が出口を求めて暴れている。いっそ、この身を掻き毟ったほうが楽ではないかと、そんな妄想をしてしまう。


 ■■シタイ――――。


 この衝動に、精神が爆ぜてしまいそう。

 ギリギリのところで自制して、視点はぐらりと牲の上に覆い被さる。


 夢から醒めたことを、響彩(ひびきさい)は正しく認識していた。視界は彩の記録にある通り、彼の寝室を映し出している。彩の身体の上には布団があり、遠くに部屋を隔てる壁、扉、天井。そして柱時計が(とき)を刻む様まで、彩には見て取れた。

 ……が。

 身体が、動かない……?

 視点は定まらず、ぼやけるというよりも歪んだ景色を彩の意識に伝達してくる。身体を動かしたくても、まるで神経が筋肉に接続されていないように、固定されたまま。

 さも、意識の半分は夢の淵に微睡(まどろ)んでいるかのよう。

 ――いや。

 無意識の領域から、無数の手が彩の意識を引きずり墜とそうしているような。少しでも気を抜けば、再び彩は夢の(なか)に沈み込むような――――悪夢(ゆめ)の底に、沈められるような――――。

 その悪意から逃れようと、もがこうとして、しかし身体は動かない。ただ、視界だけが突きつけられる。彩の意識の介入を許さない、一方的な、歪んだ映像。なにも聴こえないはずなのに、誰かが、なにかが、耳元で囁いている――いや――囁こうとしている、そんな得体の知れない気配。感触のない無数の手が、ペタペタと彩の身体を触れまわる。頬を、首筋を、腕を、脇腹、太腿、足首に至るまで。それは、背後から優しく抱きよせるような、そんなおぞましい愛撫。

 ――まるで、永遠にも似た拷問。

 実感としては、一分ていどか。突然、ぷつりと糸が切れるように、彩の意識が肉体(からだ)に染み渡っていく。ようやく身体が自由になり、

 途端――。

 ――遮断されるはずの感覚が、そのひと刹那のうちに雪崩(なだれ)こんでくる。

 意識が身体に染み渡るにつれ、肉体に隠れ潜んでいた感覚が一気に逆流してくるよう。同時多発的に発生した激痛が脳髄に警告(アラーム)を上げ、それが大いなる一撃となって痛覚を痛めつける。

「――、――ッ。――――、、――――、、、、、――――――――ッ」

 度を超えた激痛か、はたまたいままで感覚を遮断してきた反動か、彩はそのあまりの感覚に声を上げることもできず、身を丸め込む。ベッドの上で小さくなり、布団とシーツを力任せに引き寄せる。

「――――――――ッ」

 感覚を遮断しようとして、大きく息を吐き出す。

 動悸(どうき)がする。心臓がバクバクと跳ねている。まるで、血管そのものが踊り狂ってるかのよう。灼けた血液が肉に流れ込むにつけ、ギリギリと締めつけられるような激痛。その、細部に至るまでの激痛が蓄積され、何度も何度も、彩の脳髄を灼き滅ぼそうと打ちつけてくる。

 ……くそッ。

 内心、彩は悪態を()く。

 いつもなら、一呼吸のうちに感覚を遮断できるのに、今日に限っては、うまくいかない。

 そんな彩の無様を嘲笑うように、激痛はいよいよ酷くなる。頭の直上から頭蓋、脳髄に向けて杭を打ち込まれるように、それは鈍く、鋭くを繰り返す。

 (たぎ)った血潮が出口を求めて、筋繊維を裂き破ろうとしているかのよう。刻々と高まった鼓動が、そのうち破裂するのではないかと思えるほど、酷く荒れている。

「――――――――、――――――――、――、、、、、、――――、、、――――――――ッ」

 再度の、感覚遮断。

 彩の意識に這いより、(すが)りつき、這い上ってくる有象無象。それを片っぱしから振り払い、あるいは、自身という接地点を(ことごと)く無効化して、自身の意識が肉体に感覚する箇所を無にしていく。もはや、彩という意識、認識は、肉体にすら依存しない。ただただ、外側から全てを眺めるように、それは遠く、遠く…………。

「…………」

 ようやく、あらゆる感覚が消えて失せ、彩は残り滓を出し切るように小さく吐息して、身を起こした。

 (ぼう)と周囲を眺め見る前に、彩は自分の手に視線を落とした。――白い手袋――いつものように、身につけて眠ったらしい。

「金縛り、ってやつか……?」

 別に、彩は幽霊や呪いの(たぐい)を信じない。金縛りというのは、要するに睡眠障害の一種。眠っているとき、人はレム睡眠とノンレム睡眠を交互に繰り返す。眠っているつもりでも脳が活動状態なのがレム睡眠、脳も完全に眠るのがノンレム睡眠。人間が夢を見るのは、脳が活動しているレム睡眠状態。このレム睡眠状態で目を醒ますと、身体は眠ったままなのですぐには動かず、しかも夢を引きずりやすいため、幽霊やなにかを見たと錯覚しやすい。

 過度な疲労やストレスなどで、一時的に金縛りになることは知られている。だから、完全に覚醒したときの激痛も、それほどおかしなことではない。彩は普段、感覚を遮断しているから、自身の肉体にどれほど負荷がかかっているか、あまり意識しない。

 ……疲れてる、っていうのか。

 あるいは……。

 彩は手元から視線を外し、周囲に目を向ける。いつもなら、柱時計で時間を確認するのに、今日は真っ先に、ベッド脇のテーブルに目がいった。小さなテーブルに積まれた本の山。冬休みの間の暇潰しに借りた小説は奥に隠れて見えず、すぐ目につくのは、山と積まれた医学書の数々。

「…………」

 はあ、と吐息する彩。この医学書も、もう彩には必要ない。別に彩は医者を目指しているわけではないから、不要なら不要で、さっさと片付けてしまおう。

 ……そのうち、な。

 と、彩は普段通りに無表情に立ち上がる。起きたのだから着替えを済まして、一日の活動を始める。……それが、彩のいつもだ。


 そう、いつもの行動をする。

 ……はずが。

 彩は着替えを済ませると、自室を出てリビングに向かった。朝食までの時間を読書で潰す、どころか、テーブルの上の本には触れることも、手を伸ばすこともなく、彩はさっさと部屋を出ていった。

 ――そんな気分じゃ、ない。

 起きたのは四時の早朝だから、リビングに下りるまで誰ともすれ違うことはなかった。それでも、使用人の猪戸兄妹(ししどきょうだい)はもう一日の仕事を始めているのだろうか。

 ……どっちでもいいか。

 彩は深く、ソファーに沈み込む。しかし、意識にその感触は、いれない。……昔はそれでかなりの騒ぎを起こした。いまは、修練を積んだから、ちょっとやそっとじゃ感覚することもなく、だから『壊す』こともないのだが。

 ――そう。

 彩にできるのは、壊すことだけ――。

 感覚する、それが引き金(トリガー)となって、あらゆるモノが壊れていく。彩の意思など、全くおかまいなし。十年前の事故から酷くなり、入院中はベッドも衣服も、ボロボロに崩れていった。

 その性質を抑えてくれたのが、彩の両手を覆う白い手袋――――。十年前、病院の丘である人から渡されたモノ。手袋越しに触れたモノは、その隔たりゆえに、彩の感覚が及ばないらしい。当然、手袋そのものにも、彩の感覚は影響しない。

 だからこそ、成長した彩は感覚を遮断することができている。慣れたのか、あるいは慣らされたのか、その順序は、もはやどうでもいい。ただ事実として、いまの彩は無闇やたらに、モノを壊さない。

 だが……。

 その性質が、消えて失せたわけではないと、彩も心得ている。

 感覚すれば、きっと壊してしまう。響彩ができるのは、壊すことだけ。どんなものも関係なく、それがどれほどの価値があろうと、無関係。

 ……直すことはもちろん、治すことも、できやしない。

 これまで溜めてきた記録の、一体なんの意味がある?それが無駄だとわかった以上、そんなものに、なんの価値もない。

 はあ、と、重い(よど)みを吐き出して、

「――珍しいね」

 不意にかけられた声に、彩はサッと顔を上げた。リビングの扉はいつの間にか開かれて、使用人の(さい)が扉の内側に立っていた。

 ……昨日といい。

 いつやって来たのか、彩はまるで気づかなかった。そんな自身の失態に内心で舌打ちしつつ、彩は冷めた目で再を見返す。

「なんだ」

 一方で、リビングに入ってきた再は微笑を浮かべ、その冷たい視線に応えた。

「なんだ、とはひどいね。僕はただ、カーテンを開けに来ただけだよ」

 その言葉通り、再はリビングのカーテンを開けていく。時間は五時を五分ほど過ぎた頃。十二月のこの時期では、まだ暗さのほうが勝っている。……彩の記録では、この時間でカーテンが開いていたことなど、ないのだが。

 彩の向かい側のソファーまで戻ってきて、振り返った再がにこりと微笑みかける。

「お茶でも持ってこようか?」

 渋い顔のまま、いらない、と彩は即座に返す。その返答を再も予想していたのか、取り立ててなにか言うこともなく、彩の向かいのソファーに腰掛ける。

 ところで、なんて、自然と会話を始める。

「昨日、お医者様からはなんて?」

 対する彩は、息を吐き出すついでのように返答した。

「どうでもいいだろう」

「どうでもよくはない。我らが王の容体だからね」

 いくらか大げさな言い方だが、昔から時折、再は気取った喋り方をするので、彩も気にしない。はあ、と小さく吐息を漏らして、彩は平生と変わぬ調子で返した。

「明日まで蓄尿。おまえも聞いてるだろ」

「他は?入院のこととか」

「検査の結果次第だが、一週間以内に入院するかもしれない。おそらく、パルス療法をすることになるだろう、って」

 再だって、病院で医者から話を聞いているはずだ。彩の回答に、だから再は力なく頷くだけ。

「やっぱり、話は同じか」

「一日二日で変わる話じゃないだろ」

「……わかってる」

 疲れたように、再は溜め息を吐き出す。

 ……わかってる。

 少しでも、(あざや)の容体は良くなっていないか、あるいは、なにかしらの朗報はないか、そんな淡い期待を持ってしまう。それでも、現実は無情で、好転するなんて、あり得ない。それを思い知らされて、わかりきっていることが、こんなにも重たい。

 苦笑のまま、再は立ち上がる。

「じゃあ、僕は仕事に戻るよ。屋敷のこともだけど、鮮様のお世話もしなきゃいけないからね」

 もとより、再に油を売っている暇はない。意図せず彩を見つけてしまって、相手をしていただけだ。早々に切り上げて、自分の仕事に戻らないといけない。

 再はリビングの扉を閉めて、外に出ようとする。その去り際――。

「君も君で、やれることをやったらいいんじゃないかな」

 なんて微笑を残していった。

 意味がわからず、彩はただただ憮然とするばかり。

 ……だって、そうだろう。

 (おれ)にできることなんて、一体なにがあるっていうんだ……?


「彩様」

 朝食を済ませ、自室に戻ろうと食堂を出たところで、聞き慣れた声が彩を呼び止める。彩が振り向くと、想像した通り、そこには(れん)が立っていた。

 黙って見返す彩に、連が先んじて口を開く。

「これから、鮮様にお食事を届けようと思っています。彩様も、ご一緒なさいますか?」

 昨日までの刺々しさはそこになく、どことなく不安の影が見え隠れする、本当にお伺いを立てるといった連の態度。その心境の変化がなにに起因するかなど、しかし彩にはどうでもいいこと。五秒、思考のために沈黙し、それから彩は連に返答した。

「そうだな。そうしよう」

 途端、連の顔にぱあっと喜色が広がる。

「本当ですか!」

 ほとんど叫び出している連の反応に、彩は内心で一歩引いた。一応、疑問の形をしていたので「……ああ」と肯定を示すと、連は感極まったように両手をパンと合わせる。

「では、いまから鮮様のお食事を持って参りますので、少々お待ちください」

 それだけ残して、ぱたぱたと調理場のほうへ引き返していく。そんな快活な連に、取り残された彩は脱力気味に溜め息を漏らす。

 ……急に明るくなったな。

 昨日までと打って変わって、連の機嫌が良くなった理由を、彩だってなんとはなしに察している。……不覚にも、医学書を読んでいるところを見られたからだ。

 しかし、見られたものは仕方ないと、彩だって開き直っているところがある。だからこそ、彩は鮮の見舞いに来ないかという連の誘いに乗ったのだ。いまさら繕ったって無意味だし、撤回するなど論外だと、彩も判断している。

 お盆を持った連のあとについて、彩は二階の鮮の部屋に入る。響家に戻って一カ月以上にもなるが、鮮の部屋に入るのは、これが二度目。男が女の部屋に入るのは気が引ける、というよりは、用もないのに他人の部屋に入る必要はない、というのが彩の理由だ。……だから、こうして再び鮮の部屋に訪れるのは、なにか意味があるのだろう。

 連がノックをして、鮮の部屋に入る。部屋の造りは彩のものと同じで、まず普通の――といっても一高校生には広すぎるくらいの――部屋があり、その奥に寝室――十分部屋として機能しそうな広さをもつ――がある。

 病人の鮮は当然寝込んでいるから、最初の部屋には誰もいない。連が素通りして奥の寝室へ向かうのにつきしたがいながら、彩はぼんやりと鮮の部屋を眺め見る。

 彩の部屋よりも棚が多いのは、長年この部屋で生活しているからだろう。ほとんどは書物で、そこには彩の部屋には存在しえない医学書の類も数多く収納されている。また、彩の部屋にないものでは、給湯器や茶葉の缶、ティーセットが揃っていて、部屋の中で休憩が取れるようになっている。他の棚を覗けば、ランタンにも似た円筒状のアロマディフューザーがあり、近くには精油が入っているだろうカラフルな小瓶が何個か並んでいる。

 棚や部屋の中央に置かれたテーブル、背のない小さな椅子などは、彩の部屋のものと同じだが、床に敷かれたカーペットが薄桃色のせいか、部屋全体が明るく見える。また、部屋の隅にカーディガンをかけるハンガーラックが備えられており、女の子の部屋、という印象が強い。

 先を進んでいた連が寝室の扉の前まで辿りつき、ノックとともに中の鮮へと呼びかける。

「失礼します」

 彩は開いた扉の前で立ち止まり、ぼんやりと中の様子に目を向ける。だいたいの造りは彩のものと同じはずなのに、直前の部屋と同様、どこか雰囲気が違って見える。彩の寝室と比べ、タンスの数が一つ多く、また机の隣に化粧台が設置されている。彩の寝室では隅に追いやられている姿見も、鮮の場合はフルに活用できるよう、化粧台の向かい側に配置されている。

 寝室のほぼ中央に位置するベッドへと、連は進んでいく。隣の机にお盆を置き、ベッドの中にいる鮮に声をかける。

「鮮様。朝食をお持ちいたしました。お召し上がりになりますか?」

 病人の体調を配慮してのことだろう、一応、お伺いを立てる連。その問いに応えようと、緩やかに布団が動き、鮮が上半身を起こす。

「ええ。いただくわ」

 たった、それだけの所作。なんの特別性もない、ありふれた行為。

 それだけなのに……。

 ……ああ。

 彩の奥――奥底で、なにかが弾ける。湧き上がるように溢れようとしてくるそれをなんと呼ぶべきか、彩は知らない。

 ――もう、鮮とは何日会っていない?

 彩が響の屋敷に戻って来たのは、もう一カ月も前。そのとき、十年振りに、彩は鮮と再会した。小学校に上がる前に別れて、再会したのは高校生になってから。成長期の頃を全く見ていないから、再会というより、赤の他人と遭遇したかのよう。

 ……でも。

 彼女の面影は、彩だって気づいていた。

 美しく成長し、どんなに気丈に振る舞っていても、彼女は十年前のように、怯え、不安を抱いていた。

 ……ああ。

 覚えている……。

 幼い頃の彩は、本人に会うまで、妹は自分とは違う、祝福された存在だと思っていた。彩自身は西館に追いやられている一方で、妹は本館で暮らし、響の一員として認められている。想像でしかないが、彼女の母親は頻繁に彼女のもとを訪れ、父親もまた、顔を見せているのだろう、と。そんな彼女は――彩とは違い――両親に愛され、だから彼女は祝福されて――満たされて――いるのだろう、と。

 だが、実際に出会った彼女は、彩の思い描いていた姿とはあまりにもかけ離れていた。

 確かに、彼女の母親は毎日彼女に会いに行き、父親とも、時々だが顔を合わせていたらしい。……しかし、彼女の顔は笑っていなかった。

 響彩という存在に怯えていたのかとも思ったが、すぐにそれは違うと気づく。……互いに視線を交わすとき、彼女は真っ直ぐ、彩を見ていた。彩の無言に一瞬気圧されても、しばらくすれば彩の視線を受け止め、応え続けてくれた。

 ……あれが、きっと最初だったんだ。

 周りの使用人たちからは形式ばった対応ばかりされ、母親は人形かペットの相手をするような態度で、父親は会いにくることもなく――――。

 ――彩のあるがままを見てくれたのは、彼女(あざや)が初めて。

 言葉を交わしたことは、なかった。自己紹介のときが、まともに鮮の声を聞いたくらい。

 それでも、十分だった。……いや、彩にはそれが必要だったのか。

 だから、彩はどこか安堵していた。十年振りの再会。互いの姿は、昔とは大分変ってしまったけれど。それでも、彩は鮮の面影を知ることができた。昔の彼女は消えて無くなったわけではないと――彼女(あざや)は、ここにいる、と――――。

 たった二日、会っていないだけなのに。この再会は、十年来の邂逅と同じか、それ以上に、彩にとっては強烈だ。

 ――彼女(あざや)は、ここにいる。

 そう実感しただけで、響彩は棒立ちになっていた。開いた扉を前に、一歩も踏み出せていない。ただ見てる――、()てる――、それだけで――――。

 開いたままの扉を気にしてか、鮮は連に傾けていた首を不意に上げた。……鮮の両目が、驚愕を表すように見開かれていく。

 まるで、時が止まったかのような静寂。二人の硬直とは無関係のように、外野の連は椅子に腰かけて鮮に食事を食べさせる準備をしている。お粥とスープという、完璧な病人食。にこにこと、なぜか嬉しそうに背景に徹する連。当然のように、彩も鮮も、そんな彼女のことなど眼中にない。ただ、対する相手を見ることが精一杯で…………。

「兄さん……!」

 最初に硬直状態を解いたのは、鮮だった。小さく悲鳴を漏らしたかと思うと、ガバッと、鮮は布団を頭から被り、そのまま中に潜り込んでしまう。お(しと)やかなお嬢様とは思えない、俊敏な動きだった。

 さすがの連も笑顔で傍観していたのをやめて、不安に耐えきれなかったように席を立ち、ベッドのすぐ横に膝をついて手を伸ばす。

「鮮様……?」

「鮮。どうした?」

 扉の前で硬直していた彩も、慌てて寝室へと一歩を踏み出し――。

 ――ザッ、と。

 布団の中から手が一本、突き出される。もちろん、布団の中に潜り込んでしまった鮮のものに違いない。あまりに勢いよく突き出したせいか、寝巻の袖がめくれて、白い腕がぴんと突き出している状態。……その手が、連の服の袖を必死と掴む。

「えっ……?」

 なんて、間の抜けた声を漏らす連。彩も、その突然の情景に足を止めてしまう。

 ぐいぐい、と、その白い手が連の服の袖を引く。その勢いに引かれるまま、連の頭半分が布団の中に吸い込まれてしまう。どういう状況になっているのか、傍目から見ている彩にはわからない。時折、連の漏らす「えっ」とか「あ……」とかいうくぐもった声が辛うじて聞こえるくらい。

 十秒ほどして……。やっと連が布団から顔を出したが、腕は布団の中に引きずられたまま。それでも、連は鮮の意図を察したらしく、困惑の苦笑を浮かべて、

「…………彩様。申し訳ありませんが、鮮様の身支度が整いますまで、しばらく席を外していただけますか?」

 わけがわからなかった彩も、ようやく合点がいった。寝室に踏み込んだ足を引き戻して、鮮の部屋のほうへ戻っていく。

「わかった。隣で待ってるぞ」

 はい、と連が心底申し訳なさそうに苦笑する。彩が扉を閉めるまでも、鮮は布団の中に隠れたまま、姿を見せようとはしなかった。


 寝室を出た彩は、結局鮮の部屋で一時間近く待たされた。なにをそんなに時間をかけることがあるのかと思いつつ、女子だから仕方ないか、とも考えたが、病人が化粧をするわけもなし、などとも思い直し、どうやら食事も一緒に済ませたみたいだからそんなものか、むしろ早いくらいと考えたほうがいいのか、なんて、まとまりのないまま寝室に入り直すことになった。

 待っている間、どうせやることもないのだ、いつもならすぐに感覚を切って時間の経過を無視しているのに、今回に限っては、扉の向こう側がやけに気になり、しかし妹とはいえ女子の身支度に耳を傾けるのは失礼だからと部屋の中、特に本棚の医学書あたりに目を向き直したが、鮮の許可もなく勝手に触るのは良くないと…………なんてことで脳内会議をやっていたら、結局、時間の流れから離れるまでに十分近くを要していた。

 ――なにをやってるんだか。

 なんて愚痴も、いまさらというもの。

 彩が鮮の寝室に通されると、入れ替わるように連は出て行ってしまった。「では彩様。あとはよろしくお願いします」なんて言葉を連からもらったから、しばらくは抜け出すこともできないらしい。

 ……つまりいま、彩は鮮と二人きりで彼女の寝室にいるという状況。

 ベッドの上の鮮は上半身を起こして、いくつも並べられた枕を背にしている。脚はベッドの中で、上半身はカーディガンを羽織っている。彩のほうは、隣に備えられた椅子を引っ張ってきて腰掛けている。彩の部屋にもあるので見慣れてはいるが、普段はベッドの上で本を読んでいるばかりでほとんど使わないから、いつも通り、という印象はないが。

 ――それを言うなら。

 直前までのとり乱した姿はすっかり取り払って、そこにはいつものように品良く振る舞う鮮がいる。……振る舞おうとしている、彼女がいる。

 このシチュエーション事態が、普通じゃない、か――。

 どんなに平生を装おうとも、重病患者ではそれも難しい。頬は赤く腫れ、枕にもたれているとはいえ、身体を起こしているだけでも、辛そうに見える。

「すみません、兄さん。ご心配をおかけして」

 微笑を浮かべて口を開く鮮に対して、彩はいつものように無表情のまま。気休めの笑顔なんて無意味だと、それが彩の判断だ。

「病人がそんなことを気にかけなくていい。良くなるまで、ゆっくり休んでいろ」

 はい、と鮮は笑って頷いた。

「でも、兄さんがお見舞いに来てくださって、わたしはとても嬉しいです。兄さんは、最後までお見舞いにはいらっしゃらないような気がしていましたから」

「だったら、その予想はハズレたな」

 軽口で返しながらも、彩の内心は穏やかではない。普段の彩ならどういう態度に出たか、鮮に指摘される以前に、彩自身がよく心得ている。

 そんな彩の内心を見透かしたように、鮮は目を細めて問いかける。

「連が、無理に兄さんを連れてきたんですか?」

「まあ、きっかけはそうなるか。だが、行こうと思ったから、こうして来たんだ」

 隠しても仕方ないと、彩は素直に白状する。もちろん、そのまま本音を出したら恰好が悪いから、嘘にならないていどの飾り立てはするのだが。

 ふふ、と鮮が控え目な微笑を漏らす。

「ありがとうございます。……でも、そう思ったのはどうしてですか?」

「どうして、って……」

 鮮の切り返しに、つい彩は言葉に詰まる。まるで予想していなかった反撃、しかも、鮮はまだ終わらないとばかりに畳みかけてくる。

「わたしが最初に病院へ行ったとき、兄さんはご一緒ではありませんでした。その翌日も、兄さんはお見舞いには来てくれませんでした。同じ、屋敷の中にいるのに…………」

 鮮の顔は、声は、笑っているのに、しかし、その言葉には棘が含まれているように、鋭い。その棘は、彩にはもちろんのこと、鮮自身にも突き刺さるみたいで――――。

「今日、兄さんがお見舞いに来てくださったことは、わたし、本当に嬉しく思っています。でも、どうして今日なんでしょう?その理由が――きっかけが――なにかおありなのではないですか?」

「…………なにが言いたい?」

 つい、平生以上に低い声を出す彩。彩自身、抑えることも隠すこともできなかった。荒れた、まるで八つ当たりのような、棘のある口調。

 ……なんなんだよ。

 内心では正直、吐き捨てたい気分だ。なのに、その苛立ちはループしたように彩の(なか)に戻ってくる。

 無視すれば良かったのに。――できなかった。

 気づいてしまう。――彼女(あざや)がなにを問いたいのか。

 わかってしまう。――その先に、彼女(あざや)はなにを叫びたいのか。

 彩の強い口調にも動じず、ただ、そんなふうに兄を動揺させてしまったことを詫びるように、鮮は言葉を漏らす。

「ごめんなさい、兄さん。意地悪な訊き方をしてしまって。――でも、兄さんも昨日、染衣(そめい)先生からお話を伺ったのでしょう?わたしの病気のことについて」

 彩は表情を凍らせた。どんな色も、気配も見せまいと、ただ平生の無表情を被って、淡々と口を動かす。

「治療すれば、よくなる病気なんだろ。染衣の治療方針にしたがってれば、そのうち良くなるだろう」

 果たして彩は、いつも通りの口調で応えられただろうか。いつもより、早口になっていないか。多少、語気が荒くなかったか。

 だが、それ以上の思考を、彩はここでは保留とする。そんな不安が表情に出るかもしれない。……普段なら、絶対にあり得ない心配だ。

 鮮が、小さく吐息する。まるで、力を抜こうとするように、しかし、(かえ)って体力が抜けたように。それでも、鮮は儚げに微笑む。

「――お父様も、同じ症状でした」

 頭を殴られたみたいな、一撃。たったそれだけの言葉で、彩の身体は動けなくなった。

 鮮は、なおも微笑んだまま、続ける。

「お父様がご病気になったとき、わたし、すぐ近くにいましたから、わかるんです。染衣先生から、お父様のご病気について説明も受けましたし。……なにより。…………わたしの夢は、お医者様になることですから」

 喋り続けることも辛いのか、鮮の息が途切れ途切れになっていく。そんな鮮を前にして、しかし彩は彼女を止めることができない。……そんな致命傷を突きつけられて、(おれ)になにができる、っていうんだ?

 身を起こしていることも辛いのか、鮮が枕の上にどっと背を落とす。呼吸を整えようと何度も息継ぎをするが、重病の鮮では、すぐの回復は見込めない。彩から視線を外し、ぼんやり、天井を見上げる。

「……染衣先生も、隠さなくていいのに。――――わたしも、もうすぐお父様と同じところへ行く、って」

 ぽつり、呟く鮮。それは、誰に対して漏らしたものだろう。――目の前の彩か、それとも自分自身か。

 ――途端。

「なに言ってんだ」

 激情も隠さず、彩は言葉を吐き出す。驚いたように、鮮が彩のほうに首を傾げる。頬は赤く、息も荒く、潤んだ瞳で見上げる鮮。そんな彼女の姿を前に突きつけられて、彩の激情は一層高まり、歯止めが()かない。

「父さんのことがあったから、染衣も早めの対応をしようとしている。早期に治療すれば、治る可能性はずっと高いはずだ」

 らしくない、台詞。彩自身も、単なる気安めに過ぎないと、重々承知している。そして、普段の彩なら、そんな気休めは無意味だと、口にすらしないはず。

 それを理解していながら、彩はいつもの自分に戻れない。

 ……だって、そうだろう。

 こんなの、耐えられるか……!

 重病で寝込む鮮。赤く腫れた頬。少し話しただけで息切れを起こすほど、体力が落ちている。……痛々しくて、とても見ていられない。

 ――それ以上に。

 彩たちの父親も彼女と同じような症状だったらしいが、その父親は治療すら間に合わずに他界した。SLE(エス・エル・エー)だと診断されたが、普通なら、数日のうちに症状が悪化して死に至るような、そんな急性の病気ではない。

 その事実もだが、なにより。

 彼女本人が、そのことに気づいているということが、なによりも耐えられない――。

 気休めが無意味だってことくらい、彩はよくわかっている。そんな彩でも、なにかをせずにはいられない。

 ――なんのために、わざわざ無意味な見舞いになんて来たんだ?

 それでも、彩ができることはこのていど。しかし、こんなものはなにもしていないのと変わらない。……むしろ、彼女を苦しめてしまったのではないか?辛い現実を突きつけてしまったのではないか?

 ……なら。

 彩はギリギリで平静を装って、思考を断つ。これ以上は本当に無意味だと、だから彩は暇を告げる。

「……悪い。長話させたな。もう疲れたろう。俺は出ていくから、しばらく休め」

 椅子を戻して、さっさと寝室から出ていこうと彼女に背を向けた――――瞬間(とき)

「………………待って、ください。兄さん…………」

 不意に呼び止められて、彩は足を止めた。振り向くと、鮮は枕から背を離して、自力で上半身を起こしている。ただそれだけの動きも辛いのか、両手で崩れないように耐えている。

「おい。無理するな。もう寝てろ」

「そこの机の、引き出しから……鍵を、取ってください……」

 彩の言葉を無視して、鮮はベッド脇に置かれた机を指差す。鮮の荒い呼吸を前に、内心舌打ちしたい気分だったが、グッと堪え、彩は言われるがまま、引き出しを開けた。

「これか?」

 それは、小さな鍵だった。扉の鍵というよりは、どこかの戸棚のもののように見える。

「その鍵で……わたしの部屋の…………机の……引き出しを…………」

 彩は寝室を出て、鮮の部屋の机に向かう。一番下の引き出しの鍵穴に差し込んで施錠を解き、中を開いた。引き出しの中には、分厚い本と、小物入れがいくつか。

 どこに鮮の要求したものがあるのか探そうとして、しかし彩はすぐにそれに気づく。――引き出しの中、最奥に放り込まれた、鍵束とメモ用紙。

 寝室に戻って、彩は彼女にその鍵束とメモ用紙を見せた。

「持ってきたぞ。これで合ってるか?」

 しっかりと確かめるように凝視してから、鮮は「はい」と頷きを見せる。

「それを、使って…………見つけて……」

 ください、と掠れながらも言葉を紡ぎ出す。

 弱々しく、もはや語るのも辛そうな鮮に、しかし彩はなおも問わねばならない。

「……なにを?」

 引き出しに鍵をかけてまで守られていた、鍵束。果たして、この鍵はどこに通じているのか。そして、この鍵を使わせて、鮮は彩になにを見つけてほしいのか。鍵束と一緒にしまってあったこのメモ用紙は、そのための(しるべ)なのか。

 一度大きめの呼吸をして、鮮ははっきりと、彩に答えた。

「――――お父様の、遺言を」


 響の当主の階は、本館の三階。階、と呼ぶのは、その三階のほとんどの部屋が当主のモノだからだ。階段を上って、一番近くが執務室、その隣に、地下ほどではないが簡易な図書室があり、さらに隣に、彩や鮮の自室と同様の、当主の部屋が用意されているらしい。

 彩が鮮から渡されたのは、執務室の鍵だ。昼食のあと、三階のその部屋に入ると、構造自体は他の部屋と同じ、奥に扉が見えるから、寝室ではないにしろ、なにかしらの部屋になっているらしい。だが彩は、目的の場所がここだと、すぐに理解する。

 彩の部屋と同じ構造、とはわかっているのに、この当主の執務室と呼ばれる部屋は、どこか雰囲気が違う。印象としては、十年前に彩に割り当てられた部屋に似ているが、ここは、それ以上に徹底している。

 すぐ目の前に高級そうなソファーとテーブルが(しつら)えてあるから、おそらく来客用だろう。ソファーの背後の壁にはそれぞれ絵画が飾られ、その真下に置かれた棚の中には陶器が飾られている。正しく、来客用のスペースとして確保しているらしい。

 だが、問題は、その背後。正面には仕事用のデスクが置かれ、その机を中心に、左右それぞれに本棚が三列ずつ、並んでいる。さすがに詰め込み過ぎだろうと思うのに、しかし部屋の広さか、それともセンスの良さか、さほど窮屈に感じないのだから、不思議だ。

 来客用のソファーとテーブルを超え、デスクに向かう途中で、彩は本棚の中身をちらと確認する。……さすが、響家当主の持ちモノだけあって、医学書が多い。だが、それだけではなく、経済学や法律書なんかも目につく。トップを任されるということは、その手の理解も必要なのか、なんて、彩は深追いせずに視線を正面に戻す。

「これが、父さんのパソコンか」

 机の上にはデスクトップ型のパソコンが一台、デュアル用のディスプレイが一台、置かれている。肘かけと背もたれ完備の椅子に腰かけ、彩は響(たかし)のパソコンを起動する。

 現在、彩の妹の鮮が当主の座を継いでいるが、鮮本人はこの部屋を常用しておらず、まだ二階にある昔ながらの部屋を居場所としている。将来的にどうするかは彩も訊いていないが、鮮の性格なら、しばらくはいまのままかもしれない。

 鍵束と一緒に入っていたメモ用紙に、パソコンのユーザー名とパスワードが記されている。それを入力して、彩はパソコンにログインする。デスクトップには最低限のアイコンがあるだけ、フォルダを開いても、ほとんど空といっていいほど、なにも入っていない。鮮用のアカウントなのだろうか。彩は、さらにメモの記述に従って、そのフォルダをクリックする。

 ……ロックがかかっている。

 だが、これは鮮から聞いていたとおり。だから彩は、鮮に教えられたパスワードを入力する。――『k・4・n・4・D・3』と。

 ――そこには、お父様が執筆していた、響家の歴史書が入っています。

 確かに、鮮の話していたとおり。章ごとにわけた歴史書の原稿が、そのフォルダの中に入っている。また「Scan」というフォルダがあったので開いてみると、なるほど、本として残っている昔の歴史書をスキャンして保存しているようだ。試しに開いてみると、古いもので五百年以上前のものがある。文字自体も違うが、紙も相当傷んでいるらしく、文字の判別から苦労しそうだ。

「よくやったな、父さんも」

 原稿のほうを開いてみると、誰がいつ当主になり、その当主の時代になにがあったか、事細かに記されている。各ファイルのページ数をカウントしていけば、全部で何百、いや、何千ページに至るだろう、という大作だ。

「…………まさか、これを全部読むのか?」

 鮮の話だと、この中のどこかに響崇の遺言へと至る手掛りがある、らしい。とは言われても、これだけの量、一日で見切れる量ではなく、一通り目を通すだけでも冬休み中に終わるかどうか。そのうえで、この中に隠されているという遺言への手掛かりを見つけるなんて、一体何カ月かかる話か。

 ――とてもじゃないが、バカ正直にはやれないな。

 まず彩は、ざっとフォルダの中を見回していく。執筆用のメモファイルがあったのでそれを開いてみると、そこにもかなりの分量が、この文章の記述をどうするか、この章の構成はどうするか、なんて残されているから、どうやら、この膨大な量の原稿も、まだ途中らしい。

 また、その途中の原稿を一つにまとめたファイルがあったから、それを開いて目次を確認する。教科書などと書き方は同じで、年代順に進んでいくようだ。響家、に焦点が当たっているらしく、目次に記された見出しを見ても、いつくらいの出来事なのか、ちっともわからない。

 一通り目次を確認して、最初のタイトルに戻った彩は、その見出しを見て、ぽつり、呟く。

「――響家の生い立ち、ねぇ」

 他の章の、誰がなにをした、なんかより、ずっとわかりやすいタイトルだ。彩は本としてまとまっているファイルと、その章の元原稿、さらに執筆用のメモファイルも起動して並行に眺める。デュアルディスプレイだから、三つ並べても窮屈、という印象はない。

 ――いきなり、彩は最初の数行で眉を寄せた。

 ある一つの大きな一族が、その昔、六つに分かれ、それぞれの家を六家(むつけ)、あるいは御六家(おむつけ)と呼んだ――それぞれ、閲江楼(えっこうろう)、染衣、響、真宮(まみや)久世(くぜ)音儀(おとぎ)

 もとの一族の名は不明で、分裂の理由は内乱かなにかだろう、と原稿のほうにメモ書きされている。

 ……とりあえず、彩が理解できた冒頭は、そんなところ。

 だが……。

 その、最初の一族。全ての始まり。その者たちは――――。

「――――魔術師?」

 用語集なんてものが用意されているから、そちらに目を通すと、次のように書かれている。

 魔術師――。それは魔術を使う者たちの総称。科学より以前に、世界を動かしていた強大な力。万人が使えるわけではなく、魔術師の家系でなければ、その秘術は使えない。ゆえに、魔術師という存在は重宝され、表の治世を裏から支配する権力者だった。

 だが、魔術師たちの目的は人間社会を牛耳ることに非ず。……()の目的は世界に到達すること。この世界はどこから、いつから、なにによって生まれ、そしてその果ては一体なにものなるや。始まりと終わりを記した全知全能、この世の起源へと至る――――それこそが、魔術師たちの起源だ、と。

 しかも、それは大昔の人間の戯言などではなく、現在もひっそりと存在しているという。科学が世を支配するにつれ、魔術の名は裏の最奥に追いやられ、しかし、彼らは完全に消滅したわけではなく、いまだに世界の起源を夢見て、研鑽を続けているとか。

 ……事実、響家もまた、魔術師の一族、だと。

 だが、響家はその希有な魔術の家系の中でも、さらに特殊な――異能の――部類に入るらしい。

 魔術、というものは、科学同様、理論だった学問。例えば、火をおこす魔術を使いたければ、火を生成する理論式――術式と言うらしい――とエネルギー――これが魔力――を必要とする。そんなふうに、理論から結果を引き出す、というのが一般的らしい。

 一方、異能というのは、生まれつき特殊な能力を持った者をいうようだ。……後天的に能力を開く、ないし付与する一族もあるらしいが、響はそれに該当しないため、最初のほうの記述が続く。

 異能の一族は、理論体系を整備するよりも、実験的に肉体に手を加え、生まれてくる子どもを生粋の異能者に仕立てあげることに従事する。――多くの場合、血の純化が採られる。

 家系図を眺めてみれば、確かに、二百年前くらいは近親相姦も当たり前、最近では、それでも親戚と籍を入れるのがほとんどのようだ。

 ……その、唯一の例外。

 彩はその名前を見つけて、奇妙に納得していた。衝撃すらなく、自然と受け入れている、自分がいる。

「――霧峰(きりみね)水花(すいか)

 彩の母親。長男である彩を生んだにも関わらず、正妻と認められなかった女性(ひと)

 ……血統を重んじる一族からすれば、なるほど、部外の血など、受け入れられなかったわけだ。

 それにしても……。

「それを知っていたのに、よく父さんは母さんを受け入れたものだな」

 響家から反対も反発もあったことだろう。事実、二人の子どもである彩は本館には迎えられず、西館の一室に閉じ込められ、人目に触れないようにされていたのだから。

 ……なるほど、これが俺を拒絶していた、理由か。

 そう理解すると同時に、急に彩の頭に疑問が浮かぶ。

 ――響の一族は、魔術師の家系。その中でも、異能と呼ばれる、生まれつき特異な能力(ちから)をもった集団。

 なら、彩の破壊の性質も、それなのか?だったら、それは正しく響の血を引いているだけで、なにも、おかしなことではない。感覚するだけで破壊する、なんてのは確かに異常だが、もとより異能と呼ばれているんだ、異常なことのほうが、普通ではないのか?

 そう、引っかかるものを感じつつも、彩は先を読み進める。いちいち立ち止まっていては、響崇の遺言に辿りつくどころではない。

 異能の箇所で、響崇のメモ書きを見つける。

『響家の秘密については、幼少の頃から知っていた。もちろん、それは書物の中の事柄で、実感などありはしなかったが。というのも、先代の話では、俺は響の秘法を――異能を――引き継がなかったらしい。別段、驚きはなかった。失望の声を浴びせられても、内心は少しも揺らがなかった。――魔術など、異能など。このご時世において、そんな絵空事、幼児の妄想など、平然と語っているほうが、どうかしている。

 確かに、人体にはまだ謎が多い。原因不明の難病、理論だけでは個人差を克服できない。病だけを取り除く薬などなく、どんなものにも副作用がある。それは重々承知だ、いまの科学が不完全だということも、忘れてはいない。

 だが――だからといって――その、現代医学でも克服できない病魔を魔術が――異能が――滅ぼすなど、そんなこと…………』

 響崇は、異能者ではなかったらしい。どれほど血を濃くしても、全てが全て、異能を得るとは限らないのか。当然、誰がどんな異能を持つのか、それを先んじて知る術はない。実際にその能力(ちから)を目にして、こういう効果を及ぼすと、推測するしかない。

 異能は異能でも、響の異能は人体に関するものに限定しているらしい。そんなに都合よく異能を限定できるのか、彩は知らない。医者という職業柄、人の病を治す異能が望ましい、というだけではないのか、とも思う。

 つらつらと魔術や異能についての不信が続いていたが、不意に日付が割って入り、それ以降、響崇の心境は大きな変化を見せる。

『あの事件以来、俺の常識は崩落し、これまで一顧だにしなかった異常がその地位を略奪しつつある。それでも、世間体の前ではこれまで通りの常識でこの恐怖を包み隠さねばならない。

 ……ああ、なんて恐ろしい。

 形にすることも恐ろしいが、しかし不定形のまま己の心の内にひた隠しにすることも、また日々の精神に良くないと思い、こうして書き連ねているわけだ。先代が俺に忠告してきたことが真実だったとは……。

 それを目の当たりにした以上、信じないわけにはいかなくなった。俺のこれまで築き上げてきた常識は、あの事件を契機に、大切なものとともに、失われてしまった。あんな、無残に…………』

 明瞭なことはなにもなく、ただ漠然と悲嘆が続くばかり。だが、彩はそこに記されたキーワードから、あるていどの情景を想像する。

 ……あの事件、って、十年前の?

 メモの日付は、十年前、彩が遭った交通事故から数カ月ていど。なにもおかしなことはない。だが、と、彩の脳裏に疑念が浮かぶ。

 ……あれは、ただの交通事故じゃないのか?

 彩の記録にはない。ただ、教えられただけ。そのために、彩の母親――響水花――は命を落とし、彩だけが奇跡的に助かった、と。

 いや、待て。なにも、彩と水花のことだとは限らない。あのとき、水花と一緒に亡くなった人がいることを、彩だって知っている。

 ――響奏。鮮の母親で、響崇の正妻。正しく、当主の伴侶に選ばれた女性(ひと)

 響奏は、病気で亡くなったと聞いている。詳しくは知らないが、その日、響(かおる)が生まれたことから、彩は出産の影響だと、そう考えていた。……実際に、出産(それ)が原因だと聞かされたわけではない。

 ……そのことを、父さんは言っているのか?

 そのとき、なにかがあった?響崇が事件と呼ぶような、響家が魔術の家系だと――異能の一族だと――能力(ちから)の無い響崇に突きつけるような、そんな一大事……。

 実際にはなにがあったのか、彩は目次を参照して、該当時期を探した――――響崇の、時代――――。

 だが……。

「……無い」

 彩は舌打ちする。未完成の、虫食い状態であることは理解していたが、響崇が当主の座を継いでからというもの、ぱったりと記述がない。

 まったく、と彩は苛立ちを隠さず背もたれに身を沈める。

「自分のことも、少しは書いておけよ」

 いくら昔の代のことを事細かに書き起こしても、自分の時代を書いていないのでは、歴史書としては永遠に完成しない。

 ――もっとも、死人に文句を言っても仕方ないが。

 一秒で切り替えて、彩は再び元の箇所に戻って、読み込みを続ける。

 六家の中に染衣の名があったが、あれも昔は魔術師の家系だったらしい。昔、と書いたのは、いまは知識の継承のみで、魔術師としてなにかをしているわけではない。……ただ、響という異能の一族の事情を知っているので、代々、響の専門医を務めている、とのこと。

 異能は生まれついた能力(ちから)であるがゆえに、人の理解を超えた暴走を起こす場合(ケース)が、多々あるらしい。その暴走を世間から隠すため、響は普通の病院には診せないことになっている。だが、なにかあったときに診る存在は必要だ。――――それが、染衣。

 他にも、響家に関わる者は、なにかしらの役目を追っているらしい。意味があって響家にいた者もいれば、もはや役割を過去に捨て、ただ昔の(よしみ)だけで居座っていた者もいる。……それを、鮮は問答無用で追い払ったわけだ。

 だが、それでも問題はないといったところか。事実、染衣は響家の専門医という重要な役を任されているにも関わらず、昔から別々に暮らしてきたわけだから。

 何度か、響家独特というか、魔術とか異能とかに関わる記述でつまずいたが、もはやそういうものだと、彩も納得しながら読み進んでいく。そんなペースで消化しているのに、あと一時間足らずで夕食になろうとしている。これ以上、速度を落とすわけにもいかない。

 ……ようやく。

 彩は最後のページまで辿りついた。しかし、だからといって安心はできない。メモ書きは、ページ数にカウントされないからだ。そのくせ、崇はメモでも平然と数ページ近いことを書いたりするから、見た目以上に時間がかかる。

「案の定……」

 つい、口に出して呟く彩。

 最後だからと、歴史書としては残せない、響崇個人の思考がびっしりとメモに記載されている。……だが、そういうところにこそ、崇の遺言へと至る手掛りが隠されている可能性が高い。ほとんど諦めて、彩は最後の読み込みを続ける。

 最後のメモ書きは何度も追記したらしく、あちこちで日付が割り込んでいる。それも、ほとんど毎日のように。しかも、日付から察するに、ほとんど死の間際。……死期を悟って、といったところか。

 なら――。

 ――なぜ、ここに遺言を遺しておかない?

 鮮と同じ症状だったと聞いているが、鮮自身、かなり辛そうで、ベッドで身体を起こすだけでも、長時間の会話は無理だった。なら響崇も、そう何度も執務室に足を運べるような、そんな状態ではなかったはずだ。

 なのに、崇は歴史書にメモを残すだけでなく、遺書まで用意したというのか?あるいは、すでに準備していたものの在り処だけ伝えようとしたのか?なら、わざわざ隠さずに、鮮に伝えるタイミングがあったなら、そのときに渡しておけばよかったものを……。

「本当に、父さんはよくわからない」

 生涯、一度も彩の前に姿を現さなかった響崇。屋敷の西館に押し込め、鮮たちがいる本館に近づくことを、暗黙のうちに禁止していた。十年前、彩が事故に遭えば、そのまま勘当して親戚の家に放り込む始末。……しかも、鮮に遺した遺言とやらも、素直に渡さず、どこかに隠している。遺言を見つけたくば、その手掛りを探せ、なんて……。

 だが、そんな愚痴も、その吐き出した言葉とともに、破棄する。もとより、くだらないことは百も承知。それでも、鮮の代わりに彩は見つけ出すと、そう決めたからこそ、ここにいる。……なら、やれるだけのことを、やりきるだけだ。

 連続した日付と、大量のメモ書き。しかし、死の間際、残った体力を振り絞って書き綴ったのか、内容はほとんど同じ。最後のほうに記された文章で、十分語りたいことが現れている。

『俺には、響の異能は現れなかった。しかし、響の呪いからは、逃れることができなかったようだ。そうとも、響の歴史を辿れば一目でわかる。多くの者が若くして病死や自殺でこの世を去っている。事故死とされている者も、詳細まで読み解けば不審な点が多く、単なる不運な事故、とはとても言い難い。

 響の一族は呪われている――。そう、俺は断言しよう。そもそも、異能なんて、そんな怪しげなモノに手を染めた一族なのだ、当然の報いだ。

 俺は、できる限りその呪いを遠ざけようと苦心したつもりだが、実際はこの様だ。このていどでは、一族にとり憑いた呪いを(はら)うことはできなかったらしい。……いや、気づくのが遅すぎた、というべきか。すでに手遅れになっていたところに慌てて手をくだしただけだ。しかも、それが正しいやり方だったかは、俺にはわからない。……異能も魔術も、俺の専門外だ』

 だが、とそれまでの文章とは異なる内容が、そこに記されている。

『この呪いを、放置するわけにはいかない。一族に憑いた呪いだ、俺が倒れても、この呪いは末代まで続いていく。――食い止めねば、ならない。

 ……きっと、俺が原因なのだろう。いままでも、確かに呪いは存在していた。だが、呪いに形を与えてしまったのは、他でもない俺なのだ。それが証拠に、俺は呪いに殺されようとしている。異能を持たないこの俺が、だ。先代の忠告は、単に純血を保つだけではなかったということか。自業自得と、いまだからわかること、だが、あまりにも遅すぎた……。

 いや、後悔ばかり残しても仕方ない。呪いは、まだ生きている。生かしてしまったのだ。

 だから、再び殺さなければならない。次の犠牲者が出る前に。

 これが、俺の残せるコト――――』

 そこで、その日のメモは終わったらしい。らしい、というのは、そこから改行が続き、空白があるからだ。その、改行の果てに――――。

「なんだコレ」

 これまでのような日付はなく、唐突に文章が残されている。量は、あまりない。その簡素なメモ書きに、彩は困惑したように声を漏らした。


『なにも残っていない。

 現在(いま)、できることはやり通した。

 未来は、後世が導いてくれるだろう』


 日付が変わってから半刻が経過した、夜半過ぎ――。

 響彩は自分の寝室を抜け出して、屋敷の中を歩いている。彩にとっては珍しくもない、夜の散歩だ。

 猪戸兄妹の見回りの時間は、当然外している。鮮の看病で変動があるかもしれないと危惧したが、どうやら杞憂で終わってくれたらしい。ただ広く、なんの障害物もない廊下の上には、灯かりの一つも見えやしない。

 いつもの散歩に似ているが、いつも、と違うのは、今日ははっきりと目的地が決まっているということ。――響崇が残したメモ書きから、推測される(ところ)へ。

 崇の意図に気づいたのは、夕食も終わって、自室に戻ったのとほぼ同時。

 ……なんてことはない。父さんが書いた歴史書をもとに、最後の文章を読み解けばいいだけ。

 彩の記録は事実ベースで残るため、忘れて色褪せることはない。だから、数分ほど記録と比較して、彩は自分の推測にほとんど確信を得ている。だから、彩は迷いなく、その目的の場所を目指すことができる。

 ……扉を開け、彩は階段を下っていく。

 地下へと向かう、灯かりのない階段を……。

 つい、彩の口は自然と笑みの形を作っていた。

「冬休みに入ってから、ほんと、よく行くな」

 図書室など、本さえ借りてしまえば、しばらく行かないものだろうに。――だが、今日は本を読むために向かうのではない。

 鍵を開け、明かりを()ける。……当然、彩が来るまで扉は施錠されていて、明かりも点いてはいない。

 ――だが。

 ここを住処とする者がいることを、彩は()っている――。

 ふ、と。彩は小さく笑みを漏らす。

 ……いや、『たち』というべきか。

 地下に広がる、町の図書館にも匹敵する広さを持つ大図書室。ぼんやりと、端々で影が浮くような弱い光に照らされたその下を、彩は無言で通り過ぎていく。

 (シン)、と音は無く――。本棚の隙間を見通しても、人影一つ見つけられない。ただただ、規則的に、同じ模様が続くばかり。耳鳴りを起こしそうな無音、その中を、彩は足音も立てずに進んでいく。

 と……。

 彩は足を止める。図書室の入口から、真っ直ぐ本棚の群れを突っ切って来た、地下図書室の最果て。

 ――その、一歩手前か。

 ここから数歩進んだところに、立入禁止に指定された場所が存在する。まだ階段すら見えないその場所から、彩は中へと呼びかける。

(みこと)。いるか?」

 十秒の、間。しかし、返答はなく、ゆえに、彩は次の台詞を続ける。

「いまの響の当主、鮮から許可を貰ってきた」

 三十秒、彩は待った。しかし、これも当然とばかりに、なんの応答もない。……だから彩は、自身の言葉の証拠を突きつける。

「――おまえたち三姉妹は、響の異能を殺すためにいるんだろう?」

 響に関わる者の中でも、極めつけの異端者――――。

 染衣は、まだ常識の範囲内で事を静めようとするが、彼女たちは響と同様――いや、ともすれば響をも超える――超常の異能をもち、その異能(ちから)によって、暴走した響の異能者たちを抑えつけてきた。

「元々は、異能によって魔術を極めようとした一族らしいが、自分たちが作った魔術に血そのものを呪われ、以来、生まれるのは必ず、三人の女児」

 そして――。

「――それぞれが、過去・現在・未来を司る」

 それがどういう異能なのかは、世代によって異なるらしい。だが、特徴としてそれぞれの事象に関係することだけはわかっている。人間(ヒト)の過去、人間(ヒト)の現在、人間(ヒト)の未来に影響し、自然の(ことわり)()じ曲げる異能。

「そんな呪われた一族だから、この社会で普通に生活することはできなくなった。そんなおまえたちを、昔の響は匿うことにした。……まあ、共生、ってやつか。おまえたちの異常性は、響が隠蔽する。だから、響が異常を来したときには、それを隠蔽、ないし抹殺する、と」

 異能は、単なる能力ではない。特性、特質といったほうが、適切だろうか。異能を持った人間は、その性質に傾いてしまう。それは、例えば倫理を無視し、あるいは冒涜をこそ嗜好し、至高とし、指向する。より生粋となり、異能に純粋である者ほど、その傾向は強くなる。……そして、一度傾きだすと、その異常性を抑えるのは、難しい。

 ――その、抑制の最終手段こそが、彼女たち。

 異能の性質ごと封じ込めて眠らせてしまうか、あるいは、暴走した異能者そのものを亡き者にするか……。

 ……毒をもって毒を制する、ってやつだ。

 自身の血に巣食う異常を表に出さないために、異常そのものを飼う。そんな彼女たちは、決して表に出ることはできず、地下の、さらに禁じられた部屋で一生を送る。彼女たちが外と繋がるのは、飼い主である響の誰かが、異能に呑まれたとき――――。

「それがおまえたちだ。…………なあ、命。これで俺がこの先に進んでいいと、認めてくれるか?」

 この地下図書室には隠し通路があるらしいから、どこかで命は見ていると、彩は確信している。今度こそ、返答がくるだろうと彩は待つ。が、五分()っても返事はなく、彼女が姿を見せることもなかった。

 仕方なく、彩は本来、立入禁止に指定されている場所へと踏み入った。

 ……相変わらず。

 彩は階段の前で一度足を止め、その先を見上げる。踊り場を挟み、階段はコの字に折れている。その、中間地点である踊り場に、人を模した石膏像が配されている。頭を失い、身体中にいくつもの穴が穿(うが)たれ、それでもなおその場に立ち続け、右手を前に差し出して不用意に近づかないよう、警告している。

 ――その警告は、果たしていまは意味があるのか?

 彩は、響家の当主から許可を得た証拠を示した。もちろん、直接、鮮から許可がおりたわけではない。だが、崇のパソコンにあった情報――響の歴史――を知った以上、もはや彩を部外者だとは言えまい。

 その確信に一度首肯して、彩は階段を上り始める。一応、感覚遮断を弱めに設定して、周囲の気配は読めるようにしている。いつでも、命の存在を察知できるように。――あるいは、不意の襲撃に反応できるように。

 踊り場に、着く。視界に入っていた首なしの石膏像を一度真正面に据えてから、彩は次の階段のほうへと首を振る。

 そこにある、もう一つの石膏像――。こちらも、人の形を模しているのだろうか。だが、こちらは頭と首と肩の境がなく、ぶよぶよと醜く肥え太ったその姿は、とても人そのものには見えない。身体中から無数に棘を生やし、両手を突き出して苦痛を訴えている。暗い、空洞のような眼窩(がんか)口腔(こうこう)。皺や髪の線が見えないせいか、溶解した肉体をそのまま固めたようにも見える。

 ――何度見ても、こいつの趣味はズバ抜けてるな。

 一息吐き出してから、彩は次の行く手に目を向ける。この先にある鍵のかかった扉。そここそが、この立入禁止の場所の肝なのだろう。そこは、踊り場からではまだ見えない。

 見上げる、階段の先――。

 そこに。

 ――一人の少女が、ぽつんと立っている。

 頭と手を通すために穴を開けたシーツを被っているような、粗末な恰好。その少女は階段を上がった先、髑髏の銅像のすぐ隣に立ち、彩を見下ろしている。

 彩は驚かなかった。その姿を目にする前から、彼女の視線に気づいていたから。ただ、彫刻のように静止した少女――命――に向けて、声を張り上げた。

「響の当主から許可を貰えた、ってのは、理解したか?」

 うん、と命は頷いてみせた。

「それはわかった。あなたは、ここへ来ても、この先へ進んでも、いい」

 でも、と命は変わらず淡々と、告げる。

「あなたがここに来ないといけない理由は、ない。意味もなくここへ来るのは、ダメ」

 なるほど、と彩は小さく頷く。この先にいるのは、命も含めた、異能の一族。そのあまりの異常性ゆえに、社会から抹消された少女たち。……そんな彼女たちに、不用意に近づくのは危険というもの。

 だが、それを理解してなお、彩は一歩も引かない。

「鮮から――いまの響の当主から――先代、響崇の遺言を見つけるように言われている」

 響崇が隠した遺言――。当主の間にあるパソコンには、遺言へ至るための手掛りがあるだけで、遺言そのものは別の場所に隠されている。

 彩は昼間のうちに、執筆途中だという響の歴史書を読み漁り、崇の残したメモ書きにも目を通して、その場所に当たりをつけた。それが――――。

「――――おまえたちの『過去』が、遺言を持っているんだろ?」

 歴史書に記されていた、響家に関わる一族、代々異能を継承していく呪われた三姉妹。彼女たちと、響崇の残した最後の記述を照らし合わせれば、それは容易に導ける。

 ――あの三行の中で、『過去』だけがなかった。

 そして、そこに該当するであろう文章には、次のように記されていた。――なにも残っていない、と。

 そこから、崇は過去に遺書を渡したのだと、彩は推理した。謎解き自体は簡単だが、いかんせん、歴史書の量が膨大だ。しかも、響に関わる一族は、なにも彼女たちだけではない。染衣のように、他にも多くの者たちの記述があった。その中から、彼女たちのことと、最後の文章に気づけるかが、崇の残した手掛りを読み解く鍵だ。

 ……俺の記録が役に立った、ってわけだ。

 彩の記録は記録として残り続ける。そこに感情が混ざることはなく、忘却の中で色褪せることもない。だから、彩は正確に彼女たちの記述と崇が最後に残した文章を照合することができた。

 その確信をもって、彩は目の前で突っ立ったままの少女へと、一歩を迫る。

「響崇の遺言を、渡してほしい」

 果たして、彩の解答(こたえ)は正しかったのか。命は「わかった」と頷き、奥へと進んでいく。遅れまいと、彩は素早く階段を上り、(ただ)れた皮膚を貼りつけて(わら)う髑髏を素通りして、彼女を追いかける。

 階段を上がった先は、そう広くない。ただ、次の部屋へと続くスペースが一応に用意されているだけ。

 ――その、本来なら鍵がかかっているはずの扉が。

 開かれる――――。

 彩が来ているのを一瞥(いちべつ)で確認してから、命は流れるように扉の向こう側へと消える。見失ってはいけないと、彩は彼女を追って扉の向こう側へと、超える。


 そこは部屋ではなく、先の見通せない通路だった。道幅は成人男性三人分ていど、高さも二メートルから三メートルの間と、それなりの広さを有しているが、クリーム色一色に統一されたタイル張りの通路はどこまでも変化がなく、(なか)に入った者を圧倒するような閉塞感を与える。足元だけでなく、壁も、天井も、完璧なまでに統一されていて、一部の隙もない。

 ――まるで、化物の(はらわた)だ。

 所々に配された灯かりのおかげで、その景観は見て取れるが、灯かりの印象は、図書室のものと同じ、周囲の色を淡く浮かび上がらせ、十メートルも離れれば濡れた影が滲んで見るような、そんな脆さ。ちらちらと、陽炎(かげろう)のようにタイルの境界が歪み、溶けてぼやける。

 どれくらい進んだのか、五分はいかずとも、もう三分近くは同じ景色の道を、ただただ進んでいる。黙々と先を進む命と、その後に従う彩。だが、部屋らしい部屋もなく、それどころか分かれ道すらないから、彩もいい加減うんざりしてくる。

「なにもないのか?ここは」

「あちこちに隠し通路が用意されている」

 しばらく進んだ先で、不意に命は通路の壁に手を伸ばす。命が押すと、壁は内側へと沈み込み、命に引かれるまま、空洞を開ける。その先にも、いま彩たちがいる場所と同じ、タイル張りの通路が広がっている。

「へえぇ、凝ってるな」

 次の通路に移動しながら、彩は感嘆の声を漏らす。彩の後ろで、命が隠し扉の壁を元に戻した。タイル張りのせいか、そこに隠し扉があると知っていても、違いを看破するのは至難だ。

「用のない場所に立ち入らないようにするための、用心」

「どんな場所があるんだ?ここには」

 単純な興味から、彩は命に訊いてみた。対する命の返答は、簡素で投げやりなもの。

「いまの当主に訊いてみるといい。でも、代が変わったばかりだから、知らないかもしれないけど」

 つまり、秘密ということ。

 ……あくまで、必要なところしか案内されないわけだ。

 今回の目的地でさえ、彩は知らされていないが。それも、彩が辿りつければ十分ということなのだろう。命は黙々と通路を進み、必要に応じて隠し通路を開けていく。

「ところで…………」

 もう十分以上、代わり映えのない通路をひたすら歩き続け、無為に過ごすのも無駄だと、彩は再び口を開く。

「『過去』ってのは、どんなやつだ?」

 命が『過去』ではないことくらい、彩だって気づいている。もしそうであるなら、わざわざこんな入り組んだ道を通る必要はない。扉の手前か、人目につきたくないというのなら、扉を閉めた直後に、響崇の遺言を渡せばいい。

 命は前を向いて進んだまま、ぽつり、呟くように応える。

「名前は(こよみ)。一応、あたしたちの長姉」

「一応?」

 うん、と命は頷く。

「暦は若返りなの。(とし)をとるごとに、若く、幼くなっていく」

 若返り……?

 その言葉に、彩は反射的に眉を寄せる。

 だって、そうだろう。どうすれば、老いたまま人は生まれる?それじゃあ本気で、ギリシャ神話の三姉妹じゃないか。少なくとも、その暦という名の『過去』の担い手は……。

 そんな彩の動揺も知らず、命は淡々と解説する。

「最初はお婆さんだったらしいけど、あたしが物心ついた頃には、三十代くらいの若い女の人に見えた。でも、あたしがいまくらいになったばかりの頃は二十代の前半くらいで、いまはあたしよりも小さな子ども」

 命よりも年下に見える、というが、それはかなり幼い。だって、目の前の少女は十歳になったばかりの薫よりも年下に見える。

 ……いや、その直感もあてになるかはわからない。

 若返りとやらで、姉が妹よりも幼く見えるのだ。妹のほうも、真っ当に成長するかは謎だ。

「で、おまえは?」

 過去・現在・未来を司る、三姉妹――――。その一つ、『過去』は暦という名前であることがわかった。なら、目の前の少女は一体……?

「なんだと思う?」

 命は振り返って微笑んでみせた。遊び心でも起こしたのか、これまでの無表情が嘘みたいに、そこには年相応の――見た目通りの――愛らしい少女の顔があった。

 その意表に、だから彩も律義に彼女に応じて、考え込む。

 ――現在か?未来か?

 単純な二択。……ヒントもないから、当てずっぽうでいくしかない。

 五秒ほど悩んでみたが、別に閃くものもない。彩は適当に思いついたほうを口にした。

「……現在?」

「ハズレ」

 命は、なぜか嬉しそうに笑う。いま、彩はどんな顔をしているのか、当の本人は知らない。当然、命もそれには触れず、すぐに種明かしへと移った。

「あたしは『未来』。命は『運命』から来てるんだよ」

 そういう由来か、と彩は内心で納得する。

「未来でも視れるのか?」

 ううん、と命は首を横に振る。

「少し違う。副産物として人の未来は垣間見れるけど、それが本質じゃない」

 そう、説明する命の顔には、もう笑顔はない。これまで通り、無表情で顔を覆っている。

 そうか、と彩は息を吐き出すついでに頷く。それで用は済んだように、黙って命のあとに従う。十秒待って、不信に思ったのか、命は歩きながら小首を傾げる。

「……どういう異能か、訊かないの?」

 じっと彩を見上げる二つの瞳は、無表情を被ってはいながらも、純粋な興味に光っていた。

 ふん、と彩は息を吐き捨てる。

「どうせ、無関係なことは教えてくれないんだろ」

 これまでの経験で、命の対応は大方理解した。こっちがどれだけ訊き出そうとしても、応じる理由がなければ、応えない。彩の投げた質問そのものを無視して、無効にしてしまう。

 ふっ、と、命は無表情を捨てて、笑ったまま声を弾ませる。

「うん。そう。秘密。……でも、暦のことなら教えてあげられる」

「なんだ。過去のところへ行って、遺言書を渡してもらうんじゃないのか?」

 そう、彩は期待していた。もちろん、同時にそれは淡い期待であるということも、重々承知の上で、だが。

 ――当然だろう。

 相手は、異能の一族。そんな彼女たちが、普通に遺言書を持っているなんて、あり得るだろうか。

 ――許可なく手に入れられるような、そんな無防備はないだろう。

 そう、理解はあったから、彩も特段、驚きはしない。念のための、確認で訊き返したに過ぎない。

 うん、違う、と、命は平然と頷きを返した。

「暦は、遺言書なんて持っていない」

 は――?

 さすがの彩も、その返答には思わず声を漏らしてしまった。

 ……遺言書を、持っていない?

 だがその意味を、命はすぐに口にした。

「崇の遺言なら、持ってる。――ううん。暦の異能(ちから)の本質通りに言うなら、遺言を奪った、だけど」

 まだ、命の説明は漠然としすぎていて、よくわからない。だから彩は、怪訝と目を細めて説明を求める。

「…………どういう意味だ?」

「暦はね、人の記憶を略奪するの。記憶を奪われた人は、その記憶を思い出せなくなる。記憶を奪われたんだから、当然だけど」

 記憶の略奪――――。それが『過去』の異能。その人のこれまでを、なかったことにしてしまう。いや、正確を期すなら、それは略奪。奪われた者はその記憶を失い、『過去』はその記憶を『記録』として保持する。

 本当は、と命は振り返ったまま口を動かす。

「起源に呑まれた人に暦を当てる」

「起源?」

「異能の根源、かな。その異能の大元。そこから異能と、あと、異常性が流れ出る。だから、異能に近づく、傾く、っていうのは、起源に呑まれる、ってこと。呪われた血に自我を喰われる、っていうイメージ」

 だから、と平坦な声で命は続ける。

「暦の使う記憶の略奪は、起源に呑まれた心、精神を取り除く。起源に呑まれる、ってことは、その契機となる記憶があるから。それを奪うことで、異常性を排除する」

 でも、と彼女はさらに続ける。

「副作用として、その人は記憶を失うし、なにより、異能の発現に支障が出る可能性が高い。起源に呑まれた部分は、異能のもっとも強く発現できるポイントだから。それでも、かなり効果はあると思う。本当に危なくなったら、暦に任せる」

「そいつが、響崇の記憶を奪ったわけか。それが、遺言?」

 そう、と命は頷く。

「崇は、自分の記憶を後世に遺したかった。それと、それ以外の人には絶対に知られたくなかったみたい。だから、暦に記憶をあげた」

 だろうな、と彩は命の背後で一つ、首肯する。遺言は、過去の異能によって封じられ、彼女を通じてしか閲覧できない。しかも、その事実は公にされず、暗号となって当主の書斎の中に隠されている。

 ――よっぽど、他人には見せたくないんだろうな。

 案内を続ける命に向けて、彩は最後の質問を投げる。

「その記憶を、俺に見せてくれるのか?」

 本来は、当主を継いだ鮮が見るべき、響崇の遺言。なぜなら、当主の書斎に入れるのは、鍵を持っている鮮だけ。そして、崇の遺言が存在することを知っているのも、また鮮だけだった。

 それを――。

 ――(おれ)が、見る?

 十年前、彩は響家を追放された。ようやく響の屋敷に戻ったのは、一カ月ほど前、当主の響崇が亡くなり、鮮が次の役を引き継いでからだ。彩の帰還に死者の意思はなく、ただ、鮮の意志によって果たされただけ。

 ……響崇(とうさん)は、最期まで(おれ)を勘当していたつもりだろうな。

 そんな彩が崇の遺言を見るなど、誰が予想していたか。いや、そもそも遺言の存在を知っている人間は、遺した本人である崇と、それを聞かされた鮮くらいのもの。崇にとっては、予想外の悪夢に違いない。

 前を進む命は、歩行をそのままに、首を(ひね)って彩を横目に見上げる。

「――――いまの当主、鮮から、そう言われたんでしょ?」

 さも当然とばかりに、淡々とした口調。

 ……鮮は、どうだったんだ?

 本当なら、鮮が見るべき、崇の遺言。崇が亡くなってから、もう一カ月以上、しかし、鮮は当主の書斎にある暗号も見抜けず、遺言の中身までは把握していない。

 ――本当に?そんなことがあり得るのか?

 記録する彩は一日でその()()を看破ったが、他の人間だって、一カ月も時間があれば十分に解ける暗号だ。響家の英才教育を受け、次の当主になることが約束されていた鮮だ、とうに遺言を見つけていても、おかしくはない。

 ……なら。

 と。

 命が通路の脇へと手を伸ばす。もう、何度も見てきた光景。次の隠し通路へ至る、その扉が開かれる合図。

 が――。

 命はすぐに壁を押さず、後ろで立ち止まった彩へと視線を向ける。相変わらずの無表情。あまりの平坦さに、なんの意思も介在していない。

 ……だが、(さと)い彩は気づいてしまう。ほんの少しばかりの、違い。見逃してしまいそうな、些細な間。

 それに気づいて、彩は反射的に壁のほうへと目を向ける。これまでと、なにも変わらない壁。周りの壁との違いも見えず、そこが隠し扉など、気づきようもない。

 さあ、と。命は最後の隠し扉を、押し開けた。

「暦に()わせてあげる。――そして、()せてあげる」

 緩やかに、壁が奥の闇へと沈んでいく。彩は、なんとか自制してその様をただ眺めるだけにとどめた。……危うく「開けるな」と、叫びそうになるのを耐えて。


 そこは、さながらアトリエの様相を呈していた。

 彩の腰の高さしかないショーケースが、壁に沿って敷き詰められている。隙間があるのは、彩たちが入って来た側と、ちょうど向かい側、別の通路か部屋へと繋がる隠し扉、それだけだ。

 照明は、これまでの通路と違い、ぐっと光が抑えられている。天井から、橙のランタンが一つ吊ってあるだけで、入った瞬間は、あまりの落差におおざっぱな輪郭しか見えない。

 十秒ほどして。ようやく部屋の暗さに目が慣れ、ショーケースの輪郭だけでなく、その中身まで見通せるようになってきた。

「………………なんだ…………?」

 ショーケースに納められているのは、石膏像の一部だ。腕や足、上半身の一部や、臀部(でんぶ)だけ切り崩したもの。人間を造ろうとして、失敗作を放棄したように、それらはあちこちで粗雑に欠けている。

 ……いや。

 それは、ただ欠けているだけではない。それらのほとんどは、本来の人間(ヒト)の形を大きく逸脱している。

 あり得ない方向にねじ曲がった手足――例えば、手首と肘の間にもう一つ関節があるように、コの字に曲がった腕。バネのように渦を巻く足。骨を失ったように曲がりくねった腕。指先と踵が円く繋がった足……。

 他にも、中央から裂けている手足があり、爪が指と垂直に立っている手があり、いぼかなにかで醜く肥え太った足がある。

 ……それだけで、このアトリエの持ち主は随分いい趣味を持っていると十分に理解できる。

 だが、と……。

 彩は視線を上げた。作品は、なにもショーケースの中だけではないからだ。ショーケースの上に並んでいる、モノたち。上半身や臀部、他、臓器だろうか、心臓や肺のようなモノがごろごろと飾られている。……砕けているが、アレは腸だろうか。

 それらも、真っ当な形を維持しているものはほとんどない。ショーケースの中のもの同様、お世辞にも尋常な在り様、とは言い難い。

 さらに、視線を上げれば、壁一面に人の頭部らしいモノが固定されている。仮面、とは言い難い。仮面のように表面だけのものはほんの一部で、大概は後頭部に至るまで、忠実に再現されている。

 だが、その忠実も、それ以外の要素によってほとんど台無しだ。

 耳や鼻などが欠けているモノ。口が大きく裂けたり、下瞼から一直線に開いているモノ。舌が二十センチメートル以上も垂れているモノ。鼻が異様に肥大しているモノ、あるいは、極端に委縮しているモノ。片眼が肥大しすぎて飛び出ているモノ……。

 ――まったく、イカれてる。

 薄闇なのは幸いなのか、闇で見えない分、反って細部に潜んでいるものが気になってもくる。

 彩は一度嘆息してから、咄嗟の思いつきを口にする。

「…………こいつらは、人間の破片か?」

 問われた命は、彩と同様、正面を向いたまま呟くように応えた。

「あたしたちの昔の代に、人体を石塊(いしくれ)にする人がいたみたい。――ここのモノや、ここに入る前、階段に置かれていたモノは、その人の異能(ちから)で石に変えられた響の人たち」

 命の返答の通り、彩は立入禁止にされていた階段、そこに置かれた石膏像を思い出していた。

 ……頭部を失い、身体中を穴だらけにしながらも、右手を突き出して警告していた男性像。

 ……醜く肥大し、身体中の境を失い、無数の針で身体を貫かれ、救いを求めていた、性別も年齢も判別できない像。

 あの石膏像は、確かに警告だ。――これより先、無闇に近づいてはいけない。もしも理由(わけ)があってこの場所を訪れるなら、覚悟せよ。その(とき)、汝は我らの同類(とも)となろう……。

「扉の直前にあった髑髏の銅像は?」

「あれは……。別の人だったはず。でも、あれはあたしたちの異能(ちから)というより、当時の響の人間の異能が暴走した結果だった、って聞いてる」

 なるほど、と彩は頷く。……どちらにせよ、異能が暴走した人間の末路は、こんなもの。

 そっ、と――。確かめるていどに、彩は右手を握り、また力を抜いて開く。

 そこにあるのは、白い手袋。両手につけたその手袋は、響彩の『破壊』を封じるための、おまじない。

 ハッ、と吐き捨ててから、彩は斜め前にいる命へと視線を落とす。

「――――で。響崇の遺言を奪ったやつは、どこにいるんだ?」

 残骸が積まれた部屋には、彩と命以外、誰もいない。いかに暗がりが降りた部屋とはいえ、あるのは壁を覆うように配されたショーケースだけ。その中には、正しく石膏の破片が飾られているだけで、人が隠れているようには見えない。

 命は振り向きもせず、じっと一点――正面ばかりを見つめている。

「もう、向こうにいると思う」

 つられて、彩も正面の壁に目を向ける。……いや、これまでの経験を踏まえれば、あれも隠し扉か。

 部屋の中、相対(あいたい)するように開いた空白だから、彩でも気づける。もしも向こう側も同様にタイル張りの通路だったら、きっと気づかず素通りしてしまう。

「普段は、暦が監視役だから。あたしたちの動向は、追ってきてるはず」

 当然とばかりに紡ぎ出す命に、彩は怪訝と彼女を見下ろす。

 常なる、監視者……。

 ……それは、もしかして。

「――――暦」

 と。

 彩の懸念を無視して、命は正面の扉に向かって呼ばわる。

「出てきて――――」

 その、平坦な呼びかけに応えるように、


 ゴオォ…………


 隠し扉が、内側へと押し入る。

 ズルズル、ズルズル、と。一定の力で、まるで乱れることなく、部屋の内へと壁が入り込む。

 ガゴン、と。周囲の壁との境から外れて、向かいの通路の光が流れ込んでくる。ぼお、と。後光が広がり、その一枚壁の闇が一層濃くなる。

 ズル――――、と。

 床を這い進んでいた壁が、その動きを止める。理由は明白、もう内に侵入(はい)るのに十分な空隙(くうげき)が開いたのだ。

 誰が、入る――?

 ――決まっている。

 壁の隙間から漏れ入ってくる後光が、冷気のように揺蕩(たゆた)う。なのに、隠し扉は十分に間隙を開けたのに、壁を押したはずの人間は、一向に姿を現さない。

 その沈黙に応えるように、命は淡々としたまま、呼ぶ。

「大丈夫。この人は、あなたを襲ったりしない。この人は、あなたが奪った崇の記憶を見たいだけだから」

 彩は一瞬、命の背中へと視線を落とす。

 ――まさか、警戒されている……?

 その直感に、彩は内心で笑いを漏らそうとして、

 ――――影が、視界の端でブレた。

 その異変を確かめようと、彩は反射的に顔を振り上げた。壁、後光により逆光となった、その隠し扉。だが、すでに壁の背後から見えていた影は消失していて、

 ――――影が、飛び出す。

 危うく叫び出しかけた声をなんとか耐え、しかし、冷静を装っていられるほど、事態はよくなかった。

 命の立つ位置とは反対側から、影が床を這って彩へと接近する。あまりの速さに、それは影か、あるいは残像としか認識できない。ぐるりと背後に周り、ほぼ真後ろに来たところで急接近をかけてきた。

 ――なっ……!

 驚愕を内心に抱えながら、しかし彩も反射的に振り返る。手袋はつけたままだが、もしものために右手を前に突き出して、だ。

 と。

 ――影が跳躍する。

 彩が影を視界に入れる、その直前、影は逃げるように彩の頭上へと消えた。軽やかに舞うようでいて、しかし彩が首を振って追い縋っても、それは常に視界の端に消えてしまう。

 すでに彩は、いつでも戦闘に応じられるように、身構えている。……つまり、感覚を意識に入れながらも近づきすぎない、絶妙な状態。

 突然の襲来に、しかし身体は必要以上に硬直しない。極度の緊張は反応を鈍らせて良くない。かといって、全くかまえないようでは、危機感が欠落する。

 ――動くための筋肉は緩く、だが攻め手となる拳は握っておく。

 足は、反応できるように緩く。それでいて、床を蹴った反動で切り返すこともできるように。

 影が、彩の正面、二メートル先に舞い降りる。着地の衝撃を活かして、影はバネを弾いたように特攻してくる。もはや、撹乱は不要と判断してか、一直線に。

 彩も、遅れまいと手を振りかざし、

「……!」

 と。

 下げた視界の中に、一本の手が突き出ている。静止をかけるように五指を開き、どんなに伸ばしてもその手は彩の胸まで上げるのが限界。それでも、彩と、そして影に向かって待ったをかけるには、十分だった。

「大丈夫」

 命は彩に背を向けたまま、ただ、真正面から突っ込んでくる影に向かって語る。たった、一言だけ。それ以上の余計なセリフは不要と、目の前に迫る影の応えを待つ。

 ようやく、彩は影の正体を観察することができる。間に命を挟んでも、彼女の背丈ではなんの障害にもならない。

 ……こいつが『過去』か。

 若返りの少女。いや、年齢的には老婆とでもいったほうがいいのか。しかし、命が話した通り、その外見は妹である命よりも幼く見える。――現在・過去・未来を司る三姉妹のうち『過去』の異能をその身に宿す、長女。

 まとっているものは、命と似通っていて、白い布切れが一枚。だが、命のものよりも丈が短く、身体のラインがくっきりわかるほど、余分がない。

 まず目につくのは、彼女の髪だ。部屋の暗さもあって、おそらく黒だろうとしか予想できないが、その量が尋常ではない。腰は余裕で通過して、膝裏を越した辺りまで伸びているだろうか。おかげで、顔形は見ることができず、ただ爛々(らんらん)と輝く眼光だけが浮かぶよう。

 加えて、彼女の恰好も、また奇異だ。衣装が、ではない。その体勢、少女は四つん這いの姿勢で、じっと彩と命を見上げている。ぴん、と両手両足を広げ、それでいて関節は十分な曲がりを得て、即座に駆け出すことが可能だ。――まるで、蜘蛛に似た肉食獣を連想させる、異様。

 闇に浮かぶ眼光は、果たして彩のことを見ているのだろうか。獲物を狩るための二つの光点は、確かに蜘蛛か、あるいは車のヘッドライトのように、意思の色が見て取れない。ただ機械的に、周囲の環境を受信しているようにしか、見えない。

「…………」

 その、完璧に停止した時間も、実際には十秒ほど。四つん這いのまま彩と命を見上げていた少女は、するりと身を起こし、まるで犬が待てをするみたいに両足と両手を寄せて、そのまま停止する。

 うん、と。平坦ながらも安堵の息を漏らし、命は背後の彩へと振り返る。

「崇の遺言を、あなたに見せる。暦から、崇の記憶をあなたに流し込むけど、その前に注意。――なにも考えないようにすること。あなたの記憶に直接、崇の記憶を流し込む。つまり、その記憶を意味あるものとして再生するのは、あなた自身。だから、再生側のあなたに余計な情報(ノイズ)が発生すると、うまく再生できない」

 彩自身を、テレビとして扱う。再生できるのは、一つの記憶のみ。彩が保有している記録や、彩自身の感情が混信しては、崇の記憶を再現することはできない。

「あと、これは記憶だから。単に映像や音声、臭いや触感だけでなく、当事者の感情も流れ込んでくる」

「感情……?」

「そう。その人が怒っていれば、その怒りが。その人が悲しんでいれば、その悲しみが。あなたの精神状態に関わらず、流れ込んでくる。でも、それを否定したり、拒絶したりしてはいけない。ただ、再生されるままに流していればいいから」

 もっとも、と命は無表情のまま肩を竦める。

「今回は受信者が本人ではないから、完璧な再現はできないと思う。あるていどフィルターがかかった状態で再生されるだろうから、感情も、思ったより負担にならないかもしれない」

 でも強弱は調節できないからそのつもりで、と命は念を押す。

 そんなものかと理解して、彩は「わかった」と頷いてみせる。……正直、それ以外の返答のしようがない。

 他人の記憶を見る――――。それも、テレビかなにか、外部装置から閲覧するのではなく、自分の脳で直接、その映像を受信する。いや、映像だけでなく、嗅覚も触覚も、その元となった人間の感情まで、ありありと。

 初体験なのだから、指示があるなら、それに従うしかない。彩は命に導かれるまま、犬のように待てを続ける少女の前で膝をつく。膝立ちで背を屈めて、ようやく目の前の少女と目線が合うくらい。……闇の中、ボリュームのある髪の隙間から、白い空白が二点、浮かぶ様が見えるだけ。

「――じゃあ、崇の遺言をあなたに()せる」

 命の言葉を合図に、『過去』が小枝のように細い腕を突き出してくる。ガシリ、と彩の頭部、両脇を抑え、ぐっと引き寄せる。

 あまりにも機敏な挙動に、しかし彩は動じずに済んだ。すでに感覚を切って、なにが起ころうと受け入れる体勢を整えている。このていどでは、もう彩はなにも反応しない。

 互いの距離は、すでに十センチメートルを切ったていど。しかし、相手の髪が多いせいで、それよりも窮屈な印象がある。

 ようやく、彩は目の前の少女の顔を至近距離から観察できた。確かに、外見は命よりも幼いだろう。幼児特有の、丸みの強い顔つき。生まれたばかりの頃は老婆の姿をしていたと聞いたが、とてもそうは思えないほど、一本の皺も見えず、潤いと弾力性に満ちた肌をしている。一方で、腕は見た目に比べて痩せ形で、指先の柔らかさよりも、その細さのほうが印象的。対して、両の目は顔の半分近くを占めようか、というほど、大きく見開かれている。その瞳は――。

 ――と。

 空白の眼光が、彩の網膜、視神経、視覚野、そして脳髄を強打する。あまりの一撃に彩の意識はあっさりと薄れ、掠れ――墜ちていく。

 墜落の中――――カチリ――――と、接続された、感触(おと)

 ――ああ、やっぱり。

 自身という認識が薄れる中、彩は改めての確信を、意識の上に残す。

 ――散歩した夜に見た影は『過去(こいつ)』か。

 三日前、初めて立入禁止の場所に近づき、自室に戻ろうと本棚を見渡したときに、見かけた影。……呆気なく襲われ、意識を奪われた、その張本人。

 その一撃を――。

 ――無抵抗のまま、彩は受け入れる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ