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四章


 ――眼下に巨大な道が広がっている。


 周囲は暗く、街灯もないから見えるのは足元二、三メートルが限度。遠くを見ようとすれば五メートルは見通せるかもしれないが、視点はしかし、その場に固定されていて、辺りを見渡すことは不可能だ。

 足元は、ブロックを敷き詰められたような道。視点だけが動くから、直進しているのかもわからない。ただ、浮いた視点が道の上を滑るように進んでいく。

 ……どこに向かっているのか。

 なんてことは思考しない。ただ、

 ……まだか、まだか。

 と、焦燥にも近い渇望だけが、この視点を支配している。

 ――そう。

 目的地は決まっている――。

 この道の、どこかにそれはある。いや、どこかという漠然な(しるべ)ではない。この道を歩む者にとって、それは間違うべくもなく、定まった目的地。だが、ただこの暗い道だけを眺めていたら、方向なんてわかりはしない。どこまでも続く、同じ足元。流れる路面は、どこも同じで違いがわからない。

 ざあああああぁ、と。

 風の音が聴こえる。顔の上を、冷たい風が撫でていく。足元を照らす明かりは月の光だと、ようやく気づく。不意に視点が切り替わると、そこに半円の月が浮かんでいる。満月を過ぎ、新月へと向かう途中の、下弦の月。

 ――…………。

 (かす)かな、吐息の音が近くで聴こえた。周囲に人がいないことを、この視点の持ち主は知っている。だから、この音は自分が出したモノだと、そう了解した。

 ニイイィ、と横に開いた唇。その(あい)から覗く、剥き出しの歯。その隙間から漏れだす吐息は、昂奮を抑えきれなくなった、渇望。

 ――ああ。

 と。

 その視点は声を上げたい衝動に駆られた。だが、いくら人目がないとはいえ、ここは外。無闇に声を上げてはいけないと心得ていたから、(それ)は喉元までせり上がってくる声を呻きに変えて耐える。

 ()い月だ――。

 月は魔性を奮い起こす。ゆえに、月は人を狂わせると、昔から信じられてきた。

 ヒト…………?

 (たま)らず、視点の下から笑い声が漏れる。抑えようとして、しかしこればかりはどうすることもできない。

 なにが、ヒトなものか。この呪われた一族に、真っ当な人間などいるわけもない。どいつもこいつも、どこかしら奇形を持っている。

 そう――。

 ――……………………。

 視点は思考を止めた。無駄なことばかり考えて時間を浪費してはいけない。別に月光浴をしに外へ出たわけではない。……(それ)にはちゃんと目的がある。

 道が流れ、肌の上を風が過ぎていく。ざあああああぁ、という音と、冷たいその感触が、(かえ)って自身の内側を(たぎ)らせる。

 ……はやく、はやく。

 と、その衝動は止まらず、もはや暴れ出しそうなほど度し難くなっている。


 ――道の上に扉が現れる。


 どれくらい歩いたのか、時間を意識していなかったのでわからない。ただ、不意に現れたその扉に、(それ)は堪らなく昂揚していた。

 ……いや、不意打ちでもなんでもない。

 なぜなら、この場所こそがその視点の目的地なのだから。だから、ようやっと辿りつき、安堵と歓喜が()()ぜになっているだけ。――それだけのこと。

 ……はあ。

 と。

 荒く、滾った息を、一つ吐く。

 やっと、やっと着いたのだ。はやく、はやくヤってしまおう。

 この飢えを満たすモノ。この渇きを満たすモノ。満たす、満たす、満たす満たす満たす満たす…………!

 ――この。

 衝動を満たす――。


 鼓動が、大きく跳ねるような感触。ドグンと、肋骨を砕き、胸筋を引き裂いて跳び出してしまいそうなほど、心臓が荒く猛っている。

「――――ガァ」

 そのあまりの激痛に、(さい)は無意識のうちに息を漏らした。普段から感覚を遮断している彩にとって、こんな不意打ちの激痛は初めてだ。

「ハァ――――ッ」

 一度大きく深呼吸して、彩は視界を塞いで息を止める。……意識は、闇に沈み込むイメージ。ドボン、と深海に意識が失われていく。

 なにも感じない。あらゆる感覚が失せて、そも、肉体という存在すら、希薄として意味を失う。この世に接地している場所はなく、ゆえに自身はなにものでもない。

 ……感覚を遮断する、慣れた行為。一呼吸ほどの間に、彩は激痛から解放される。

 半眼で周囲を眺める彩。いつも通りの彩の寝室。だが彩はそんな現実の情景よりも、自身の肉体(からだ)、そしてなにより、夢で見たものに意識が向く。

 ――昨日も嫌な夢を見たが。

 昨日見たものは、まるで意味不明だった。ただ、なにか良くない夢だと、それを漠然と感じ取れるくらい。

 だが、今日見たものはそれなりにはっきりしていた。といっても、見えたのは見知らぬ道ばかり。

 なのに――。

 ――俺は、あの場所を知っている?

 既視感、というのか。見知らぬはずなのに、見覚えがあるような。そんな違和感、現実と認識のズレ。

「はっ」

 と、彩は吐き捨てる。

 ……所詮、夢は夢だ。

 そう意識を切り替えて、彩はすぐに着替えを済ませる。起きた時間は、これもいつも通りで朝の四時。とりあえず朝食の時間まで読書に専念していよう。……どうせ、お茶の時間は当分、ないだろうから。


 昨日は検査をしただけ、薬も出ていないから、(あざや)の容体は当然、良くなってはいない。お茶の時間はもとより、朝食の時間になっても、鮮は食堂に姿を現さない。だから食堂の席に着いているのは、彩と(かおる)の二人だけ。

 いつも食事中はお喋り厳禁だから、静かな朝食でもおかしなところはない。なのに、彩の隣の薫は(しき)りにキョロキョロして落ちつきがない。そんな薫を、しかし彩は無視を決め込み食事を続ける。

「彩様」

 そうやって、いつものように自室に戻ろうと食堂を出た彩を、呼び止める者がいた。振り返ると、いつもは厨房で片付けをしているはずの(れん)がそこにいた。多少息が乱れているから、慌ててやって来たらしい。

「彩様。少しよろしいですか?」

 息もろくに整えず、連は立ち止った彩に訊ねる。

 彩は怪訝に見下ろしながら、一応、訊き返しておく。

「なんだ?」

「はい。これから、鮮様にお食事を届けようと思っています」

 いまの連は、しかしなにも持っていない。おそらく、彩が自室に戻る前に引きとめておこうとした結果なのだろう。そうまでして彩を鮮のところに連れて行きたいという連の思惑を、彩は即座に理解する。だから、連が何事かを口にする前に、彩は先んじて手を打っておく。

「ああ、任せる」

「彩様!」

 振り向き、もう用はないとばかりに立ち去ろうとする彩の前に、連が立ち塞がる。キッと見上げてくる連は、昨晩に引き続いて険しい表情をしている。

「鮮様はご病気なんですよ?心配ではないのですか?」

 叫び出すのはなんとか(こら)えているようだが、それでも、連の激情は抑えがたいものになっている。

 射殺さんばかりに睨みつけてくる連を、しかし彩は無表情のままに見下ろすばかり。

「用があるんだ。人手がほしいならおまえの兄にでも声をかけろ。あるいは、薫なら喜んで手伝ってくれるぞ」

 それで用は済んだとばかりに、彩は連の脇を抜けて立ち去る。連の声が背後から聞こえるが、もう、これ以上は彩も相手をしない。

 ――もっとも。

 用があるというのは、本当だ――。

 洗面台から、連がお盆を持って二階に上がっていくのを見送って、彩はすぐさま地下へと下りていく。

 ……SLE(エス・エル・イー)。……全身性エリテマトーデス。

 それが、(ひびき)鮮の病名。

 昨日のうちに、(さい)から鮮の病状は聞いている。さらに詳細なところ、また、今後の検査結果によってどんな治療が行われるのか、今日の午後三時になれば医者が来て、直接聞くことができる。

 ――その前に。

 彩は、地下図書室の、医学書の棚に直行した。幼い頃から勉学に励んできた彩でも、医学の知識だけはない。響家は医者の家系なのにも関わらず、だ。

 ――父さん(あいつ)がわざとやったんだろうが、な。

 幼少の頃、彩に与えられた部屋。そこには、彩が自学をするのに必要な大量の本が置かれていた。が、医学の書物だけは、一冊もなかった。響の屋敷を追い出されたあとも、彩は特別、医者になりたいとか、そんなことは思わなかったから、ことさら、医学の知識を得ようとはしなかった。あくまで、高校から大学の一般教養までの知識。だから、彩の医学の知識は、素人も同然。

 ……だが。

 鮮がSLEなんていう病気にかかったというなら、話は別だ。彩が彼女を治せないにしても、正しい知識くらいは得ておいたほうがいい。そのほうが、医者の話もわかるだろうし、医者に意見することだって、できるかもしれない。……彩が地下の図書室に直行したのは、ざっとこんな理由。

 幸い、昨日のうちに図書室の全ての棚を歩き回ったから、どこにどんな本があるのか、ざっと把握している。

「まずは、どれを読めばいいのか探すところからか」

 医学書だけでも、本棚一つを占拠している量。全部なんて、とても半日では読み切れない。目次を見て、それらしい項目がないか、まずはあたりをつける。そうやって候補に上がった本を、今度はパラパラとめくり、彩の望む記述があるかを確認する。最終的に残った何冊かを、今度は真剣に読み進めていく。

「――なにをしているの?」

 不意に聞こえた声に、彩は反射的に振り返っていた。本棚と垂直に伸びた通路の上に、その少女は昨日の姿のまま、彩を無感動に見上げていた。


 表面上は平静を装っておきながら、しかし彩の内心は穏やかではいられない。

 ……どこから出てきた?

 読書に集中していたとはいえ、少女に声をかけられるまで、まるで気配がなかった。いや、こうして直視している現状でも、周囲に溶け込むように存在しているから恐ろしい。静止して、ただただ無感動に見上げるその少女の姿は、絵画かなにかのようで、存在として認識しづらい。

 少女は、やはり昨日と同じ恰好――白いシーツをワンピース代わりにしているような、そんな粗末な姿。

 彩は溜め息に似せて大きめに息を吐き、自身の動揺を静めてから、緩やかに口を開く。

「読書だ」

「なんの本を読んでいるの?」

「棚の前に書いてあるだろ」

 少女――(みこと)――は覗き込むように体を傾けて、棚の側面に掲げられた分類に目を向けた。「医学書」と短く呟いているのが聞こえて、文字は読めるのか、なんて感想を彩は抱く。

「医学書なんて、あまり読書、って感じがしないけど。なにか調べ物?さっきからずっとこの棚の前にいるもの」

「……見てたのか?」

 うん、と命はあっさり頷く。

「いつから?」

「あなたがこの棚の前に立つ少し前から」

 要するに最初からだ。彩は怪訝に顔を曇らせたまま、低い声のまま問う。

「どこから?」

 最初から見られていたのに、彩は命の存在に気づけなかった。それが気に入らなくて、彩は続けざまに問いを投げた。

 命は、考えるようにわずかに俯いて、自分の中で整理がついたのか、再び顔を上げ、変わらぬ表情で彩を見上げる。

地下の図書室(ここ)には、隠し通路がある」

 なんて、あっさり言ってのける命。彩は怪訝と目元を険しくするが、命のほうは特に気にせず、淡々と言葉を続ける。

「色々、理由はあったと思う。例えば、ここは地下だから、もしものことがあったときに、脱出経路が必要になる」

 地震や火事、なんてときに、出口が一つだけだと脱出できない場合がある。地上の窓の変わりが、その隠し通路、というわけか。

 だが……。

「もう一つの理由は、立入禁止に近づくやつがいないかの、監視か」

 どちらかと言えば、こっちのほうが重要だろうと、彩は低く返す。一方、命のほうは「そういう理由もある」なんて、全く動じない。表情が変わらないからわかりにくいが、もしかしてわざとか、と、彩は(いぶか)しむ。

 ――だって、そうだろう。

 ただ地下から脱出するだけなら、図書室の様子が見える必要なんて、ないのだから――。

 図書室の内側からは、その隠し通路とやらの存在はちっとも見つけられないが、きっと、向こうからはこっちのことが丸見えなのだろう。そんな不平等(アンフェア)、監視以外の理由を見つけることのほうが難しい。

 その事実を突きつけられて、しかし彩は反って開き直ることができて、それを了解したうえで、彩は口を開く。

「……で、おまえはずっと、俺を監視していたわけか」

 命からの返事はなかった。肯定も否定もしないその姿勢に、しかし彩はかまわず言葉を続ける。

「図書室に来るぶんには、問題ないだろ?」

 うん、と今度は即座に、命は頷く。

「問題ない。あの場所に近づかなければ、別に問題ない」

 でも、と言いかけて、しかし命は唐突に言葉を切る。俯いて十秒近く沈黙した後、ようやく命は顔を上げる。言いかけた言葉をなかったことにして、命は直前までと無関係な話題を口にする。

「あなたは、一昨日の昼間にもここに来ている。確か、連と一緒だった」

 思いの外動揺せずに、彩は命の言葉を聞いていられた。昨晩以前のことを指摘されたのはもとより、連の名前が出てきても、彩の内心は平静を保っている。

 ……鮮や(たかし)の名を知っているのだから、連のことを知っていてもおかしくはないか。

 そう、納得することができた。

「そのときは、本を借りていった。今回も、借りていく、ではいけないの?」

 疑問を投げておきながら、しかし命は表情も、身動きにも変化がない。ただ、じっと無感動な瞳を、彩へと向けているだけ。

 …………なるほど。

 内心、一つ確信した彩は、それを確かめる策略を瞬時に練り上げ、実行に移す。

「俺がここにいるのは、なにか都合でも悪いのか?」

 命から、返事はない。ぴたりと止まったまま、彩の問いそのものを黙殺するように、硬直している。

 想定内の命の反応に、彩は畳みかけるように問いを連続する。

「おまえの都合か?それとも、別のやつの都合か?」

 なぜ、命は彩の前に姿を現した――?

 今日は、立入禁止の場所には近づいていないのに、だ。

 ――簡単だ。

 彼女たちにとって、彩という存在そのものが、不都合なのだろう。

 そもそも――。なぜ命は彩の前に現れた?彩を立入禁止に近づけたくないなら、一昨日の夜のように、あの得体の知れない影が現れていればいいだけだ。

 一度とて、彩の前に正体を現さなかった謎の影。最後の一瞬でさえ、彩はあの影の正体を看破できなかった。ただ、強烈な眼光にやられて意識を失った。だから、あの影が一体何者なのか、彩はまだ知らない。

 昨日だって、目の前にいる少女ではなく、あの影が現れても良かったんだ。そうすれば、彩は再び返り討ちに会っていたかもしれない。例え、彩が一昨日の襲撃を警戒していたとしても、その原理(カラクリ)がバレていないのなら、そんなものはなんの意味もない。

 ……それでも。

 彼女たち(こいつら)は、同じ作戦をとらなかった……。

 それはなぜか?――様々な可能性があるだろうが、彩はその中で一つの有力な可能性を挙げている。

 ……一昨日の襲撃が、実は失敗だったとしたら?

 彩の命は、もしかしたらあの時点でなくなっていたのかもしれない。しかし、彩は自分のベッドの上で翌朝を迎えていた。目覚めるまでの記録は抜けているが、その間に、彩はこいつらの襲撃から逃れていたのではないか……?

 都合のいい解釈だとは重々承知だが、それを確かなものにするために、彩は攻める勢いで問いを投じた。

 ――長い長い静寂、沈黙。

 一分以上も静止したまま、しかし結局、命は彩の問いには答えなかった。ただ……。

「あまり、ここに長居してほしくない」

 無感動な瞳、動揺の色を見せない声音からは想像しにくい、悲痛を訴える言葉だけを、口にした。

 彩は(つい)の言葉を失って、押し黙った。その、少女のあまりにも素の言葉(ひょうじょう)に、彩は無意識に攻撃の手を止めてしまった。

 と。

 つい、と――。命は彩から視線を外し、本棚の影に隠れてしまった。

 しばし呆然としていた彩は、やがてハッとし、少女の後を追った。少女は、別段急ぐ素振りも見せず、緩やかに歩きながら通路を進んでいく。彩は、追おうかどうしようか、躊躇して、その自身の弱腰に()れたように、その場で声を張り上げた。

「おい。そのくらい、教えてくれてもいいだろう?」

 本棚十列分を過ぎたところで彼女は足を止め、緩やかに彩のほうへと振り返った。

「…………あなたは、もう気づいている」

 淡々と。少女は無感動に彩を見返したまま、返す。

「なのに、訊いてくるのは、卑怯」

 その平坦さには不釣り合いな、感情の吐露。

 その表裏のあまりにも決定的な断裂に、しかし彩は混乱などしなかった。むしろ、その一瞬だけ見せる彼女の素の感情に、次の言葉を失ってしまうほどに……。

 それ以上は、しかし彼女も表情を隠す。もう彩には言うだけ言ったのか、彩に再び背を向けて歩き始める。

「ついてこないで」

 堪らず一歩踏み出した彩に、まるで後ろに目でもあるように、命はぴしゃりと言い放つ。前を向いたまま、歩を止めぬまま……。

真実(こたえ)が欲しいなら、いまの当主――鮮――に訊くこと」

 鮮が答えるなら、あたしも応える――。

 それだけ残して、命は本棚の間に隠れてしまった。それ以上、彼女を追うことを、しかし彩はしなかった。気配もなく、もとより足跡も殺した彼女の姿は、彩の視界から完全に消えてしまい。

 ――そして。

 その存在は、図書室の内側から、完璧に消失してしまった――。


 その後、彩は必要な本の貸し出し処理を済ませて、自室に戻ることにした。見るべき本の選り抜きは済んでいるのだから、どこで読んでも変わらない。別段、図書室に居座る理由もない。命にあそこまで言われて、特別意地を張る気もないので、彩はすぐに地上に戻ってきた、というわけだ。

 部屋に戻るまでの間、誰かとすれ違うことはなかった。連あたりは、いまも鮮の部屋にいて、看病を続けているのだろうか。

「……鮮に訊け、か」

 ベッドの上に横になると同時に、彩は口を開いた。

 地下の図書室にあった、立入禁止の場所。その先には、きっと響家の秘密が隠されている。しかし、それを知りたければ響家当主――響鮮――の許可が必要だと、謎の少女――命――は頑として譲らない。

 まったく、と彩は嘆息気味に吐き捨てる。

 ――訊ける状況なら、とっくにやってる。

 いまの鮮は、病を(わずら)って床に()している。とてもじゃないが、話ができる状態ではない。

 もちろん、そんなものは無関係と、無理に訊き出すこともできるかもしれない。しかし、彩はそこまでやろうとは思わない。所詮、彩の個人的な興味だ。そんなものに病人の鮮を巻き込むのは、あまりにも勝手すぎる。

 ……そんなことより。

 彩はようやっと、両手で抱えていた本を開く。図書室からまとめて五冊、借りてきた。一冊一時間のペースで読めば、午後の三時に医者が来るまでにギリギリ読み切れるが、読み切れるかは怪しい。斜め読みをやっては意味がないので、できるだけ、と、彩はいつものペースで読むことにした。


「お姉様の具合は、よくなるでしょうか?」

 昼食の時間、食堂に下りた彩を迎えたのは、すでに自分の席に着いた薫だけだった。もはや当然のように、正面は空席のまま。一人きりが耐えられなかったのか、食堂の扉が開くのを聞きつけると、薫はすぐさま振り向いて、その幼い顔に言葉通りの不安の色を滲ませて、彩を見上げてきた。

「さあな」

 自分の席に座りながら、彩は応える。

「今日の三時に医者が来て、色々と処置をしてくれるんだろう」

 寝たきり老人でもないのに医者が来るなんて、大昔か人口の少ない田舎でもなければ、普通あり得ないだろう。そんな、普通じゃないことを平然とやってのける響という大富豪に、彩は内心で呆れている。……変な意地など張らず、医者の言うとおり入院すればいいのに。

 薫の問いかけに応じたと、それ以上、口を()かない彩に代わり、薫は不安そうにぽつぽつと言葉を続ける。

「午前中、お姉様のところに行ったんです。僕の部屋からお姉様のお部屋までは近くなので、すごく、気になって……」

 いま、この屋敷に住んでいる人間は、それぞれ本館の二階に自室を持つ。響姓で彩だけが西側だが、鮮も薫も、ともに東側。近くと言えば、まあ近くだ。もっとも、彩は二人の部屋配置までは把握していないが。

「やっぱり、まだ具合が良くないみたいで。無理をさせてはいけないので、途中で抜け出してしまいました……」

 なにかを口にするたびに不安を募らせるのか、薫の言葉は、最後のほうでは沈んだように聴き取りづらい。冬休み直前の、誕生日会のときの姿とは、まるで別人のよう。あんなにハキハキ、明るく振る舞っていた薫が、いまは口を開くたびに苦いものを噛むように俯いている。

 そんな薫を、彩は横目に眺めながらいつもの調子で返した。

「医者が来れば、どうせ診察や治療なんかで、また騒がしくなるんだ。それまで、静かに休ませておけばいい」

 彩の素っ気ない言葉に、薫はしゅんとして俯いてしまう。そんな薫を、しかし彩は慰めの一つも口にしない。――表面ばかり繕っても意味はないと、そう彩は判じたからだ。

 二人が席に着いてから、かなりの時間が()つというのに、昼食は一向に運ばれてこない。連が鮮の面倒を看るあまりに、彩たちの食事の支度が遅れてしまったのかもしれない。彩自身は、一食抜いても死にはしない、くらいにしか考えていないので、気長に待つことにしているが。

 不意に生じてしまった、長い間。その沈黙を埋めたいとばかりに、視線を(せわ)しなく動かしていた薫が、ようやっと口を開く。

「お兄様は……」

 不自然に硬直してしまった口を気にしてか、薫は一度口を閉じてから、再び言葉を紡ぎ出す。

「昨日今日と、なにをなさっているのですか?」

 無理に笑おうとする薫。しかし、それが無理に作ったものだということを、彩も即座に気づく。気づいてはいるが、特に指摘することはせず、変わらず素っ気なく返した。

「なにも。読書で時間を潰しているだけだ」

「学校の宿題は?高校でも、冬休みの宿題は出ますよね?」

「休みに入る前にやりきった」

 薫は驚愕を表すように、何度か瞬きして彩を見上げた。

「すごいですね」

 その表情通り、感嘆の声を漏らす。彩が無表情のまま見下ろす隣で、少し笑って見せようとして、しかしその微笑はどこか乾いて見えた。

「僕はまだ終わっていないので、休み中にやらないといけないんです。あ、ちゃんと毎年、休み中に終わらせてますよ。普段の家での勉強のほうが難しいから、それほど苦ではないんですけど。でも、ついつい後回しにしちゃうんですよね」

 それで一呼吸入れるように、小さく笑って見せる薫。

 直前までの雰囲気を払拭するために、苦肉の策で閃いた話題なのかもしれない。しかし、そのあからさまな転換は、だからこそ余計に浮いてしまう。……ただの逃避だと、すぐに見透かされてしまう。

 そんなものは無意味だと、そう理解している彩は、だから薫の言葉に応じない。ただ、薫が満足するまで語らせればいいと、無表情のまま黙して、小学生の彼を見返すだけ。

 その、反って際立ってしまった沈黙に、薫の造りモノの笑みにひびが入る。それ以上、笑い声を漏らすこともできず、薫は困惑したように俯いてしまう。……なんとか、続きを口にしようと必死な様子で。

「……お姉様も、お兄様のように宿題はもう終わってるんでしょうか」

 その、何気なく呟いてしまった自分の失態に気づいて、薫の表情が即座に凍りつく。違う違う、と何度も、自身に言い聞かせ、(たしな)めるように。そして、彩さえ隣にいなければ頭を抱えていただろうに、代替行為、あるいは自制の結果なのか、薫は何度も頭を横に振る。

「そんなことを話したかったんじゃなくて……!」

 小さく(うめ)く薫。そんな憐れな薫の自傷行為を、しかし彩は冷やかに見下ろすばかり。

 ……だって、そうだろう。

 中身のない優しさに、なんの意味があるだろう。形ばかりの慰めに、一体どれほどの価値が生まれるのか。

 それは――。

 ――無意味だ。

 そう、彩は判じてる。……だから、彩は優しさも見せず、慰めもせず、ただただ現実を突きつける。

「余計なことを口にしたくないなら、黙っていろ。俺は静かなままでも、なにも困らない」

 なにか、重たいものを抱えているとき、人の口は軽くなる。隠したい、隠し通しておかなければならないほど、その反動か、人はつい口を滑らせる。――秘密は暴かれる、それを自覚していないときは、なおさらだ。

 恐縮か、委縮か、薫は俯き、視線を彩から外したままぼそぼそと呟きを漏らす。

「すみません。でも僕は、なにもしないのは、落ちつかなくて」

 誕生日会のときから、そうだった。人の中に入って、誰でも隔たりなく話しかけて、輪を形成する。……それを、普通とやってしまう人間。

 彩とは、あまりにもかけ離れた存在。できる限り他者の群れには近づかず、一人、静寂を尊ぶ、響彩とは……。

 それじゃ、と。彩は口調も改めず、縮こまった薫に問いを投げる。

「午後も、鮮のところに行くのか?」

 正直な薫は、苦笑を浮かべることなく、沈み気味の声で、しかし、今度は真っ直ぐ彩を見返して、

「本当は行こうと思っていたんですけど。でも、お兄様の言うとおり、お姉様に無理をさせてはいけないので、午後は自分の部屋で勉強をしています」

 冬休みの宿題も終わってませんし、と、最後だけは苦笑を見せた。

 一方の彩は、ただ「そうか」と短く応じただけで、すぐに薫から視線を外す。薫も、今度は不必要に会話を長引かせることなく、黙って正面に向き直る。……二人して、ただただ静かに、昼食が運ばれるのを待った。


 いつものように静かな食事を終え、彩はすぐに自室に戻った。朝と同様、連から鮮お見舞いに誘われたが、これもまた、彩は断り、さっさと奥へと引っ込んでしまった。

 ……やることが、終わっていないからな。

 午前の続きと、彩はベッドの上に寝そべったまま、積み上げられた本から一冊を引き寄せる。現在、二冊目を読み切ろうとしているところだから、ペースとしては遅いほう。だが、無理に速度を上げて理解度を落とすわけにはいかないから、いまのペースで続けるしかない。

 SLE――Systemic Lupus Erythematosusの略で、Sが全身、Lが狼、Eが紅斑(こうはん)を意味する。狼に噛まれたような紅の痕が顔の周辺にできることが、名前の由来になったらしい。

 その特徴的な紅斑から、最初は皮膚病の一種とされていたが、のちに皮膚だけでなく内臓にも障害が診られること、また皮膚に病変がなく、内臓に障害が現れるケースもあることがわかってきた。

 SLEの実態は、おおざっぱに言えば再が話した通り、免疫異常の病気だ。本来、体内に侵入した異物を攻撃して身体(からだ)を守ってくれるはずの免疫力が、なんらかの異常で自身を攻撃してしまう。その異常がなぜ起こるのかは、完全には解明されていない。紫外線やウイルスといった外部の影響、遺伝や性別など、様々な因子が挙げられているが、これという特定までには至っていない。

 遺伝がまったくの無関係とはいえないが、それでも家族でSLE発症者がいる人といない人では、そのリスクの差は一%にも満たないため、必ず遺伝するというわけでもない。

 男女比では一対四と、圧倒的に女性が罹患(りかん)しやすく、発症年齢は二〇歳から三〇歳がピークだというデータが出ている。

 以前は死亡率が高く、また特定疾患という、いわゆる難病に指定されているため、危険な病気という印象があるが、いまでは医療技術が進歩し、SLEが原因で亡くなるケースはかなり減ってきている。

 ――もちろん、治療方針が決まって、適切な治療が行われていれば、の話だが。

 SLEは全身の様々なところで症状を起こすのが特徴で、顔周辺の紅斑や、日光を浴びることで皮膚症状が悪化する光線過敏、高熱や倦怠感、関節痛、息切れや胸の痛み、血液異常や腎障害、神経障害などが挙げられる。しかし、ここに挙げた全ての症状が現れるわけではなく、どれが現れるかは個人差や進行度によって異なってくる。

 SLEのように、免疫異常によって全身の至るところに障害を呈する病気はいくつか存在するが、SLEにはSLEに罹患していると診断するために十一の基準が設けられている。そのうち、四つが該当すれば、SLEと診断することができる。

 ――鮮の場合、紅斑と、腎障害、血液異常の最低三つはわかっている。医者がSLEと診断したんだから、他にもなにかあるんだろうが。関節痛か?光線過敏か?あるいは、自己抗体か?

 自己抗体とは、自分を攻撃する免疫のこと。自己抗体はSLE以外の病気でも見られるため、自己抗体があれば必ずSLE、とは判定できない。が、自己抗体の検査で問題があれば、少なくとも免疫異常系の病気であるということはわかる。

 検査としては、問診以外に尿検査と血液検査、胸部のレントゲン、心電図、生検などがある。

 尿検査では、蛋白と潜血から腎臓の異常と、そのていどがわかる。自己抗体で腎臓が壊れていると、正しく老廃物などの濾過が行えず、蛋白や潜血が出るというわけだ。

 SLEでは白血球・赤血球・血小板などの血球全般が減少傾向になるため、血液検査は必須となる。他にも、血液検査では自己抗体や、自己抗体によってどれだけ身体が傷ついているのか、体内の炎症の度合いを見ることもできるため、非常に重要な検査だ。

 自己抗体によって、心臓や肺が傷つき、炎症が起こる場合がある。その影響を見るために、レントゲンや心電図を用いる。

 生検は、炎症を起こしている組織を採取して、状態を見るもの。紅斑があればその部分の皮膚を採取し、腎臓の障害が疑われれば腎臓に針を刺して細胞を採取する。

 こういった検査の結果を総合して、病状の重度を判定して、治療方針を確定していく。といっても、SLEの治療はほとんどステロイド投与で、あとは量や期間をどのくらいにするかを決めるのが主となる。ステロイド以外の薬物もあるようだが、ほとんどが補助として使われるだけで、やはりメインはステロイドになってくる。

 ステロイドは人間の体内の中でも作られている成分で、炎症や免疫を抑える効果がある。SLEなど、免疫異常系の病気に多く用いられ、ステロイド治療によって、SLEなど免疫異常系の病気に対する生存率が格段に上がっている。そのため、SLEではステロイド投与による治療が当たり前となっている。

 だが、ステロイドには同時に強い副作用があるため、ステロイド治療に抵抗を示す人もいるらしい。もちろん、医学においてステロイドの副作用は知られていて、治療においても、副作用を最低限に抑えつつ、治療効果を最大限に引き出す工夫が行われている。

 基本的には、ステロイド投与は治療が進むにつれ、その量を減らしていくのが常道だ。あとは、最初の量と減らすペースを決めるのが肝要で、そのために種々の検査、そして経過観察が必要になる。

 副作用としては、免疫力を抑えるため、風邪など他の病気に(かか)りやすいことが挙げられる。そのため、感染症予防の薬が一緒に投与されることがある。他にも、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)予防の薬や、胃酸を抑える薬が投与されるのも、副作用を考慮してのことだ。

 ――胃酸については、ステロイドは無関係だ、って言ってるのもあるようだがな。

 SLEにおいては、完治というのはほとんどなく、症状が安定している時期と活性化している時期を交互に繰り返すらしい。だからSLEの治療も、病気が活性化している期間をなるべく短縮して、安定している期間をできるだけ長くするようにする、というのを目標にしている。一生付き合う病気、ということになるが、それでも医療技術の進歩により、SLEが直接の原因で死亡する、というケースは稀になっているとのことだ。

 ――つまり、最初の見極めが肝心だ、ってこと。

 どう治療するのか、そしてその治療をどう続けていくのか。それを決めること、そしてその決定が正しいかを観察していくこと。

 ……なら。

 なんで鮮は、入院を拒否した……?

 実際には、自宅でも検査のための作業はできるようだから、鮮も響の自室にいられるわけだが。それでも、経過を見るのであれば、入院したほうがいいのではないか。

 ――といっても、ずっと心電図を監視しないといけないとか、そういうのではないようだし。

 なら、経過を見るのは、検査結果を見るというレベルか?例えば、尿検査や血液検査。蓄尿だけは例外だが、別に毎日血を採らなければいかない、というわけでもないだろう。レントゲンも、同様か。必要に応じて通院して、そこで検査をして、検査結果を報告する。そこから、治療方針を告知して、本人の同意を得る。それができれば、入院は必須ではなかった、ということ?

 ……だが。

 医者が勧めるのだから、それなりの理由や根拠があるはずだ。病院だって、無限に患者を受け入れられるわけではない。必要な患者には、入院という手段も講じる。それを理解したうえで、鮮の担当医は入院を勧めたはず。

 ……だったら。

 やはり、その思考に立ち戻る。

 なぜ、鮮は自宅にいることを選んだ……?

 その判断は患者に委ねられる。もちろん、入院にはそれなりの費用がかかる。だが、響という大富豪の一族に、金銭を気にかける必然性は認められない。

 ……なら。

 彩は思考する。

 鮮は……。

「――――彩様」

 自分を呼ぶ声に、彩はハッとして顔を上げた。

 ……寝室の扉を開けて、連がじっと彩のほうを見ている。

 一体いつ入って来たのか、彩は全く気がつかなかった。……こういうとき、自分の集中力と感覚遮断が(わずら)わしい。滅多にないことだが、彩はそんなふうに内心で舌打ちした。

「…………なんだ」

 自身の失態からくる動揺を見せまいと、彩は極めつけに低い声で連に返した。一方の連は、しかしまるで意に介さず、ただただ不思議そうに首を傾げるばかり。

「やっぱり、こちらにいらしたんですね。何度もお呼びしましたのに少しもお返事がなかったので、少々心配になりました」

 なんて、感想を漏らすだけの余裕がある始末。彩はいよいよ、憮然と小さく息を吐き出した。

「彩様。なにをそんなに熱心に……」

 みなまで口にすることなく、彩の手にしている本を覗き込んだ連は、その本の正体に気がついた。――一昨日、彩が借りていった本ではない。――しかし彩の部屋にはあるはずのない、医学書。

「…………」

 (ぼう)と、連は導かれるように首を曲げて、テーブルの上に積まれた本に視線を向ける。

「――――」

 その山がどんな種類の本なのかを理解して、連は息を呑むように両目をわずかに見開いた。

 そんな連の態度が気に入らず、彩は読みかけの本を閉じてベッドの上に置いて連に再度訊き返す

「で、なんの用だ?」

 ハッと、連は彩のほうに向き直り、彼の存在を思い出したように「あっ……」と声を漏らす。

「お医者様がお見えになったので、彩様をお呼びしに参りました」

 チラと、彩は目線を柱時計のほうに向ける。……三時を五分ほど回ったところ。約束の時間きっかり、というわけだ。

 そうか、と返し、彩は立ち上がる。……集中のあまり、いろいろと抜け過ぎた。時間を意識してなかったこともだし、連が部屋に入って来たことを気づかなかったのもだし…………。

「その医者は?鮮の部屋か?」

「はい。鮮様の診察と、あと今後の治療のことで、お時間がかかるそうです」

 本当は入院するような重病なんだ、相応の設備を、鮮の部屋に持ち込むのだろう。時間がかかって当然だ。

「全て終わりましたら、彩様とお話できるそうです。それまで、彩様はリビングでお待ちしていただけますか?」

「わかった」

 彩は素直に連のあとに従う。医者の処置が終わってからまた呼んでもらうこともできたが、本もあらかた読み終えた。さっきの本は読みかけだが、大体のことは彩も理解できたので良しとする。……なにより、読んでいる本の種類を連に知られて、そのまま読書を続ける気にはとてもなれなかった。

「彩様」

 寝室を出て、部屋を出ようとした、直前。連は扉に伸ばしかけた手を引っ込めて、後ろの彩へと振り返った。

 怪訝と、彩は冷やかに見返す。

「なんだ」

「医学書が必要でしたら、鮮様の部屋にあるもののほうが良いと思います」

 なんでもないふうに返す連に、彩は正直戸惑った。そんな彩の内心など知らず、連はそのまま言葉を続ける。

「響家はお医者様の家系です。響家を継ぐのに必要な書物は、三階の当主様の書架に集められています。――そのうちの何冊かは、鮮様のお部屋にあります」

 地下の図書室以外の、別の書架――。そんなものがあるのかと呆れかけ、しかし彩はその実態を納得する。彩が幼少の頃に与えられた本の数々……。あれは、響家当主の所有というわけだ。

 でも、と連は目尻を下げて微笑する。

「鮮様からお許しを頂く際には、鮮様のお身体に障らないよう、ご配慮ください」

「…………ああ」

 憮然、と。溜め息混じりに承諾する彩。そんな彩の仏頂面に、しかし連は一層笑みを深くする。くるりと振り返り、扉を開けて部屋を出る際に、良かった、なんて小声を漏らして。……背後でつい耳にしてしまった彩は、ただただ憮然とするしかなかった。


 医者が下りてくるまでの間、彩は一人、リビングでなにもせずに待ち続けているしかなかった。連は部屋を出ていき、どこへ行くかは訊かなかったが、調理場で夕食の支度をしているのだろうか。いや、連の性格だ、鮮の部屋にでも戻っていったのかもしれない。……だったら、一人待たされている彩は莫迦みたいだが、いまはぐっと(こら)える。重病人の前で本人の病状を聞かせるのは、さすがに酷だ。

「……」

 ただ待っているだけの間、彩は感覚を遮断したまま、目を閉じる。時間の経過すら意識から外すから、こうやって全ての情報を遮断して沈黙に浸る。

 感覚を切っていたから、どれほどの時間が経ったかは知らない。だが、やがてリビングの扉が開き、中にいる彩に声をかける者がった。

 彩は目を開けて、その人物を見て内心がざわつくのを自覚する。リビングにやって来た医者に、彩は見覚えがあった。……いや、彩が忘れるはずなど、なかった。

 彩の記録は記録として、完璧な形であり続ける。記憶のように感情を挟まないから、過去であっても現在と変わらず、見ることができる。

 無論、年月を経た人間が記録のままでいることは不可能だ。着慣れた白衣の上に乗った顔は、以前にも増して疲労の色が濃い。彼の気苦労の多さが、その微笑から見て取れるよう。

「――――染衣(そめい)

 十年前、彩が事故で入院したときに担当をしていた医者だ。

 彩がその医者のことを覚えているように、染衣も響彩のことを覚えていたらしい。疲労の濃い微笑に一層強い笑みを浮かべて彩を見る。

「覚えていてくれたんだね、響彩くん。まさか、君とまた会えるなんて」

 その線の細い、作り物めいた笑いは、彩の記録にある通り、変わらない。――髑髏を連想させる、薄っぺらな笑い。

「……しかも、こんな形で」

 大きく、溜め息でも吐くように、染衣は肩を落とす。さも、やれやれと言いたげに体を揺すり、染衣は彩の前のソファーに腰を下ろした。

「それは、お互い様だね。普通、医者にはなるべく関わりたくないものだろう。医者に会う必要が出てくるのは――大小は違っても――命に関わる事態が起きた、ということだからね」

 自嘲なのか弁解なのか、どちらともとれる言い訳。……そんなふうに、彩は思った。

 彩はいつもの無表情を作ろうとして、しかしいつもと違って、内心がざわつくのに耐えながら、口を開いた。

「どうして、おまえが?」

 あまりにも、出来過ぎた邂逅。その不自然さを、だから彩は問い(ただ)す。

 ……対して。

 染衣は一層、気味が悪いほどに笑みを強くして、彩に応えた。……満足しているのか、自嘲しているのか、判別し難い口調で。

「君の声を聴くのは、もしかしてこれが初めてかな。……いや、いまは思い出話に花を咲かせる場合じゃないね。彩くんは、まだ知らされていないのかな?でも、君の今後にも関わることだから、知っておいたほうがいいだろう。わたしから話す、というのも妙だけれど、響家の主治医は染衣家、というのが昔から決まっていてね。いまの染衣家で正式に響家の人たちを診断できるのは、わたししかいないから、こうしてわたしが、鮮さんの担当になっているんだ」

 その回りくどい喋り方に、彩の半眼は一層冷えていく。そんな吐き気を誘う染衣の口調に、しかし彩は感覚というものを遮断しているから、内心がざわつくことしかわからない。

 低く、吐くように、彩は問いを続ける。

「じゃあ、父さんのことも診たのか?」

 響家専属の医師だと告げる染衣。彩は小学校に上がる前の交通事故に診てもらっているから、かれこれ十年以上。いまも鮮の担当だというのなら、一カ月前、響崇の病気も診ているはずだ。

 途端、染衣はあからさまに表情を曇らせ、さも嘆き悲しむように俯きがちに首を横に振る。

「――崇さんのことは、残念だった。崇さんも、わたしが担当していたんだ。わたしも、できる限りを尽くしたんだが、あまりにも容体の悪化が速くて、とても対処しきれなかった……」

「そんな話はいい」

 内心のざわつき――つまり、苛立ち――に耐えきれず、彩は無理矢理、染衣の言葉を打ち切る。そんな乱雑な扱いを受けても、染衣のほうは苦笑を浮かべるだけだから、彩はさらに冷たく、目を(すが)める。

「鮮の容体はどうなんだ?」

 まだ彩は、病気で寝込む鮮の姿を見ていない。再が病院へ連れて行き、連が鮮の身の回りの世話を焼いている。鮮とは部屋が近い薫まで、鮮のことが心配と、見舞いに行ったらしい。

 そんな、すでに大概のことはやり尽くされた状態で、彩が鮮の部屋に行ったところで、どうしようもない。医学の知識も経験も乏しいので、診察も助言もできやしない。

 医者が来るというから、なら、その医者に診察やら治療やらは、任せておけばいい。……医者から現状と今後の話ができれば、それで十分だろう。

 それが、響彩の理解であり、判断。――ゆえに、彩は目の前の医者に、まずは現状を問う。

 そんな、彩の低く簡潔な問いと刺すような視線に、しかし、染衣は苦笑して肩を竦める。

「いま診ているのは鮮さんだから、鮮さんの容体のことが一番気になることだね。でも、崇さんのことも話しておいたほうがいいと思うんだ。なぜなら――――――――崇さんの症状と鮮さんの症状は、非常に似ているからね」

 ドグン――――。

 と。

 警告(こどう)が、鳴る。

 ……ここから先へ、進んでは、いけない。

 なのに……。

 目の前で、染医が微笑(わら)っている。髑髏のように慈愛に満ちた、極上の微笑(えみ)を。

「病理解剖というのを知っているかな。亡くなられた方の病状や治療効果、死因などを解明する目的で行う解剖のことだ。崇さんの病気はあまりにも速く悪化したから、こちらでも気になることが多かったんだ。そこで、鮮さんに許可を貰って、その病理解剖を実施することになったんだ」

 人間が生きている間に、その体内の状態を把握しようとするには、血液検査や尿検査、レントゲンといった手段を講じするしかなく、直接、腹を裂いて(なか)を見る、なんてことはできない。だが、すでに遺体となっていれは、各臓器の状態、病変の勢い、そしてなにが直接の死因なのか、などを、解剖することによって直接()ることができる。大昔から、遺体を解剖して病理を明らかにし、それがいまの医学の発展に大きく寄与している。

 もちろん、それは医学の都合であって、人の倫理の問題からすれば、無闇に遺体をバラバラにされては、遺族の気分も良くない。だから、病院側は遺族にお願いして、協力を得られた場合でも、その気持ちに敬意を払い、亡くなられたかたを丁重に扱うのが常だ。

「当初、崇さんはSLEの疑いがあるとして検査していた。ああ、SLEというのは免疫異常の病気でね、様々な部位に……」

「鮮もそうなんだろ?もう聞いてる。顔に紅斑ができるとか、腎臓が悪くなる場合もあるとか、そういう病気だろ」

 説明を先取りされた染衣は苦笑気味に頷く。

「崇さんも、鮮さんと症状はほぼ同じ。頬に蝶形紅斑があって、首に円板状紅斑がある。崇さんは日光によって皮膚症状が悪化する光線過敏が出ていたけど、鮮さんの場合はまだわからない。昨日の初診では帽子を被って、しっかりと対策していたようだし。まあ、だからといってSLEの可能性から遠ざかる、というわけでもない。SLEと診断するのに十分な他の症状もあったからね。検査をしてみると、蛋白尿・潜血尿が出ていたから。あと、白血球・赤血球・血小板といった各種血球が基準値を下回っていた」

 染衣は足元の鞄から数枚の印刷用紙を取り出す。

「こっちが、崇さんの結果。こちらが、鮮さんの結果だ」

 そこには各検査の結果が記されている。尿検査、血液検査。それぞれでわかる各成分、赤血球、白血球、蛋白、潜血……。染衣は説明しながら、各成分の値に印をつけながら説明していく。さすがの彩でも、数値どうこうで結果はわからない。――わかるのは、それが思わしくない結果だということ。

「亡くなられた崇さんについては、解剖した結果、主たる原因は腎不全によるものだけど、肺や心臓も悪化していたみたいだ。一応、ウイルスや細菌などの感染症も疑ったけど、それらしいものは見つからなかった。鮮さんの結果はまだ出ていないけど、いまのところその恐れはあまり重要視していない。それらしい症状が出ていないからね」

「結局、父さんも鮮もSLEで間違いない、と?」

 SLEは女性に多い病気だ。鮮はともかく、男の崇までSLEに罹っていたというのは、珍しい。

 彩の問いに、染衣は曖昧に苦笑する。

「SLEには診断基準があって、判定に必要な最低四つは崇さんも鮮さんも満たしている。崇さんだけ、光線過敏と、あと関節痛もしばらくして出てきたかな」

「鮮の場合、紅斑と腎障害、血液異常と、あとなんだ?」

「紅斑は二種類あって、頬のにできる蝶形のものと、円板状のもの。鮮さんは首周りに円板状紅斑が出ていた」

 なるほど、と彩は頷く。

「自己抗体はどうだ?」

 SLEは免疫異常の病気。だから、自分自身を攻撃する抗体――自己抗体――が現れるはずだ。

 その彩の当然の問いに、染衣はわずかに頬を引きつらせる。

「……そこが、少し引っかかっているところだ」

 怪訝と彩が見る前で、染衣はテーブルの上に差し出された崇と鮮の検査結果を、一枚めくって見せる。そこには、抗二本鎖DNA抗体、抗Sm抗体など、彩も本で見かけた自己抗体の名前が記されている。


「崇さんも鮮さんも、自己抗体はどれも陰性なんだ」


 彩は染衣が印をつけていく紙面を眺めながら、染衣の言葉を聞いた。愕然と、彩は染衣の顔を直視する。

「陰性……。問題が、ない……?」

 一つ溜め息を吐いてから、染衣は言葉を続ける。

「免疫異常系の病気とはいえ、自己抗体が認められるのは百パーセントではない。だから、自己抗体が見つからなくても、他に目立った症状があればSLEだと判断はできるんだけど……」

 染衣は眉を寄せながら、疲れたような苦笑を浮かべる。

「崇さんも鮮さんも、正直、症状としてはかなり重度だと予想できるんだ。少なくとも、初診の段階でね。腎障害も出てるし、崇さんは最終的に心臓や肺まで侵されているから、抗体検査で引っかかってもいいと思うんだけど」

 一度息を吐き出してから、しかも、と言って染衣は続けた。

「崇さんも鮮さんも、病気の進行が異常に速い。二人とも、身体に異常を感じたのは初診の前日だと話していた。なんとなく怠くて、夕方頃に熱っぽくはあった。――そして、翌日起きたら病状は悪化していて、三八度以上の高熱に全身の倦怠感、歩いたり喋ったりするのも辛い、といった状態」

 彩はここ数日の記録を引っ張り出す。昨日、連が大声を上げて、そこで初めて鮮の体調が悪いことを知った。彩自身は、鮮の容体を直接は見ていない。だが、再や、そしていま染衣が話したように、高熱や倦怠感、紅斑が顔に出て、また腎臓も不調を訴えているらしい。

 ――その前の日は、どうだった?

 薫の誕生日パーティを祝った、その翌日。鮮は、珍しく寝坊した。朝飯を抜いて、もう昼食だっていつもならとうに終わっている、という時間になってやっとだ。それでも、鮮は眠そうにしていて、欠伸を堪えているふうだった。……単に、その前日に夜更かししたからだろうと思っていた。特に、怠そうとか、そんなふうには見えなかった。

 彩は一度首を振ってから、染衣を睨みつける。

「SLEは慢性的な免疫異常だろ?何年っていう期間(スパン)で悪化するもので、そんな、一日二日で急激に悪くなるような、そんな病気じゃないはずだ」

 ウイルスや細菌による感染症なら、短期間のうちに急激に悪くなるというのは理解できる。だが、響崇からそれらの類は見つからず、鮮も同じなら、感染症の可能性は、ないはずだ。

 染衣は苦いものを噛んだように口元を歪める。

「SLEの症状は患者によって様々で、多岐に渡るから、一概には言えないけど。確かに、短期間で増悪するようなことは、珍しい。だが、崇さんは急激に病状が悪化して、こちらが治療を開始する間もなく亡くなった。SLEは病状に応じて治療方針を決めるから、検査にもそれなりに時間がかかる。本当にあっという間で、わたしも、どうしようもなかった」

 申し訳なさそうに俯く染衣に、彩はただただ苛立ちを募らせる。もちろん、これは染衣にぶつけるべきものではないことくらい、彩だってわかっている。だが、話を聞けば聞くほど、鮮が治る可能性は、絶望的に思えてならない。

「…………何日だ?」

 ぽつり、彩は震えそうになる声を抑えつけて、吐き出した。

「父さんが亡くなるまで、おまえが診察を始めてから、何日だった?」

 その問いを、染衣も予想していたのか。数秒、間を置いてから、重い鉛でも吐き出すように、答えた。

「――十日。それだけだった」

 彩は愕然とした。十日……。それは、あまりにも短い……。

 一度息を吐いてから、染衣は続けた。

「崇さんの場合、最低限の検査結果が揃って、さあ治療を始めようとしたところで、亡くなられてしまった。もう少し詳しい検査もやりたかったんだけど、病気の増悪速度があまりにも速いから、すぐにでも治療が必要だと判断したんだ。……それでも、間に合わなかった。治療を始めて、その効果が出る前に、限界が来てしまった」

「感染症の疑いは、本当にないのか?」

「わたしも疑ったよ。あまりにも増悪が速いから。だけど、まず崇さんからは、原因となりそうなウイルスや細菌は見つかっていない。また、鮮さんの他に、同じ症状を呈した人は、わたしのいる病院では見つかっていない。あと、この屋敷にいる人たちもね」

「それでも、SLEだと?自己抗体はないのに?」

 また、染衣は疲れたように溜め息を漏らしてから、応える。

「自己抗体は、わたしも気にしているんだけどね。さっきも言ったように、自己抗体が陰性でも、SLEであるケースもあるんだ。少なくとも、SLEの診断基準は満たしている。ただ、これもさっき言ったけど、崇さんも鮮さんも、かなりはっきりとした症状が出ている。重症、といってもいいだろう。それでも自己抗体が出ないというのは、正直、気になるんだけど」

 目の前で染衣が眉を寄せても、彩はさっきほどの苛立ちを覚えなかった。いや、内で(くすぶ)っているものは、まだある。だが、それは荒れるような苛立ちとは、少し違う。

 ――父さんは、十日だった。

 ――鮮も、父さんと同じ病気。

 ――あまりにも勢いが強いが、感染症ではなさそう。

 ――SLEに見えるが、自己抗体は見つからない。

 彩には、わからない。

 ――十日。たった、十日……。

 彩の思考は、それ以上、先には進まなかった。なのに、口は勝手に動き出していて、まるでこのまま止まっていることに、耐えられないとばかりに、どうでもいいことを喋っている。

「…………これから、どうするんだ?治療は?」

「もう少し、検査をしておきたい。昨日の段階で、早朝尿と蓄尿をお願いしている。早朝尿は今日持ち帰って、検査に出しておくよ。蓄積尿は三日間をお願いしていて、今日が一日目だから、明後日に持ち帰って、これも検査する。ああ、あと、明後日に早朝尿もお願いしたから、それも同じく、明後日に持ち帰る。一番気になるのは、腎臓の病状だからね。尿検査が、一番いいんだ」

 それから治療のことだけど、と染衣は言葉を続ける。

「検査の結果次第、ってところはあるけど、おそらく入院してもらうことになるかな。今日から一週間以内かな。パルス療法をやることになるんじゃないかと思ってる」

「三日間、ステロイドを点滴するやつか?」

 SLEの治療は、基本的にステロイド投与だ。その中でも、一度に多量のステロイドを投与する治療として、パルス療法が有名だ。普通は飲み薬だが、その量が多すぎて、飲み薬では対応が難しい場合に、点滴を用いる。パルスとは、ここでは衝撃という意味で、一度に大量のステロイドを投与して一気に治すというニュアンスからきている。

 そう、と頷いてから、染衣は苦笑を浮かべる。

「できれば腎生検をやっておきたいけど、崇さんのことを考えると、結果を待っていられないかもしれない。その分、入院時に他の検査を十分に行うことで対処しようと思っているけどね」

 どっと疲れを振り落とすように、染衣は肩を落とす。

「それまでは、自宅で様子を見てもらう。そのことは、すでに猪戸(ししど)さんたちに話してあるから、大丈夫だと思う。彼らにも話しおいたけど、もしも鮮さんの容体が急変したら、すぐに連絡してほしい。――治療の前倒しも検討するから」

 そう締めて、微笑(わら)って見せる染衣。心配するな、とか、任せておけ、とか、そういう意図なのだろうか。

 ……なんて、無意味。

 だが、いまの彩には、反抗を示すだけの余裕などない。もうこれ以上の語らいは、それこそ無意味だろうと、適当に相槌して、終わりにした。


 夕食後、彩は早々に自室へと戻っていった。連から、朝・昼と同様に、声をかけられるのを背中越しに聞いたが、彩は応じることも、振り向くこともせず、早足にその場を立ち去った。おかげで、連に前を塞がれることなく、誘いの言葉も聞かずに済んだが、そんなことをしみじみ思っていられるような状態ではない。…………そんな余裕など、ない。

 後ろ手で寝室の扉を閉め、いつもならベッドに直行する彩も、しかし今日は扉に(もた)れたまま、しばらく動けなかった。

 ……だって、そうだろう。

 鮮の容体は、思いの外、悪いらしい。まだ、彩は鮮の様子を見ていない。それでも、再と、そして染衣から聞いた限りで、十分に過ぎた。

 ――ほんと、本なんてあてにならないな。

 チラと、ベッド脇のテーブルに積まれた本に目を向ける。地下から持ち出してきた、医学書の数々。そこに、鮮が罹っていると思しきSLEについて、十分な記述がある。

 一昔前なら、生存率の低い、かなり危険な病気だった。しかし、いまは医療技術の進歩により、SLEが原因で亡くなる、ということはほとんどない。

 ……はっ、どこが。

 つい、吐き出してしまいたかったが、それは心の内で呟くのに留めた。

 いまでも、SLEの原因はわかっていない。遺伝か、環境か、ホルモン、ストレス、あるいはそれらが複合的に絡み合って。様々なことが言われているが、その発症原因は、いまも不明。

 とりあえず、免疫異常を起こして、自身の肉体を傷つける自己抗体なるものが現れる。それが身体、各種重要な臓器を壊して、倦怠感や腎不全などを引き起こす。

 ――その自己抗体が、ない。

 彩が数時間のうちに詰め込んだ知識では、もうどうしようもないレベルだ。仮にステロイド治療を始めたところで、効果が出るかは、怪しい。ステロイドの効果は、免疫力を抑えるもの。なのに、自己抗体はない。だったら、それは意味があることなのか……?

「ハッ……!」

 つい、悪態が漏れる。そこに、意味なんてない。彩も、それは重々に承知している。その、はずなのに…………。

 やることもなく、彩はベッドの上に沈み込む。感覚は、しない。思考も、もはや放棄する。

 どのくらいそうしていたのか、不意に、思い出したように、彩は視線を横に向ける。小さなテーブルの上に置かれた、本の山。

 ……もう、必要ない。

 ごろりと、反対側に寝転がる彩。

「そうか、父さんは病死だったのか」

 いまさら、そんな事実を彩は知った。葬式にも呼ばれず、葬儀もなにも終わってから、三樹谷家でその連絡を受けた。あくまで、響崇が亡くなったという訃報だけだったから、死因がなんであったかは、これまで知らされていなかった。

 その病気で、響崇は十日で亡くなったという。たった、十日――――。

 ――――鮮も、同じ病気。

 衝動的に、彩は手を振り上げた。そのまま振り下ろしてしまうつもりだったのか、だが彩は咄嗟に気づいて、その手を止める。

 ……何秒、堪えただろうか。

 やがて、

「チッ……」

 舌打ちとともに、緩やかに手を下ろす。

 ……ほんと、無意味だ。

 ふと身体を仰向けにして、見上げた先の柱時計を見ると、まだ十時になったばかり。規則上は消灯時間で、猪戸兄弟が屋敷の見回りを始める時間。

「いつもなら、全然寝る時間じゃない、か」

 ほとんどが、日付が変わるまで読書で時間を潰すのが常で、そこから真夜中の散歩に出かけるのか、丑三つ時の手前まで読書を続けるのかは、その日の気分次第だ。

 が……。

 ……気が乗らない。

 医学書の山に隠れて、地下の図書室から借りてきた小説がテーブルの上に置かれているはずだが、彩は手を伸ばそうともしない。珍しいことだが、もう寝てしまおうと、そう決めた。さっさと寝巻に着替えて、ベッドの中に潜り込む。

 意識を手放す前に、彩はついと窓のほうに目を向ける。カーテンは開いていて、冬のこの季節では、冷気が流れ込んでいるのだろうか。しかし、平生から感覚を遮断している彩はなにも感じない。

 見回りをしているだろう、猪戸兄妹(きょうだい)の足音も、特別聞こえない。目を閉じれば、完全にこの世界から隔絶することができる。……そのとおり、彩は全てを断絶した。


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