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三章


 ――なにかが流れ込んでくる。


 勢いよく流れ込んでくるそれは、まるで泥のようだ。様々なモノが混ざり合い、もともとがなんであったのか判然としない。黒く濁りきり、その中身を見通すことができない。

 降り注ぐ。浴びるたび、身体(からだ)()けるような――――これはなんだ?

 その得体の知れないモノが自身の内へ内へと手を伸ばし、掻き分け、掻き混ぜ、無粋な手が這い寄り、触れてくる。

 ……息が。

 苦しいのか?熱いのか?痛いのか?

 なにも()えないし、なにも聴こえない。ただ、自分の奥底に入り込んでくる、触れようとする、その正体不明のモノだけがわかるだけ。

 それは、なにに触れる?なにを求める?

 この器に、一体なにがあるというのか。あらゆる感覚を殺し続け、ゆえに感情すら押し潰し続けた、この益体(やくたい)なしの肉の塊。

 ――(いな)

 泥が雪崩(なだれ)込んでくる。身体の上から、肌の上から、皮膚の隙間から、瞼と眼の(あい)から、口の穴から、耳の空洞から、鼻の貫通痕から。

 ……いや。

 それは自身の感覚を辿り、自身の感情を遡り……………………自身の精神まで犯そうとする。

 …………気持ち悪い。

 身体の上から覆いかぶさり、圧迫し続け、口を閉ざし、喉を締め上げる。視えるモノはなにもなく、聴こえるモノはなにもない。ない、はずなのに…………。

 それは、直接、感覚に触れてくる。直接、感情を掻き乱そうとする。――――直接、精神を動かそうとする。

 ……いや。

 本当に……?

 それは、流れ込んでくるだけだろうか。この、どうしようもない嘔吐感はなんだ?この息苦しさは、上から圧迫されるだけなのか?

 ――ぐぎゅ、ぐぎゅ、と。

 鈍い…………音?いや、音かどうかはわからない。ただ、内から外に向かってくる圧迫感のようなものがある。

 ――そう。

 感覚――。

 出ようとしている。溢れようとしている。解放されたい。外へ外へ。この押し潰してくる得体の知れない泥に、しかしこの感覚は迷わず伸びていこうとする。

 ――まるで。

 生き別れた肉親に逢えることに、歓喜するように――。

 外から、内から、せめぎ合うように。たった一つの肉体は、その両者の力に引き裂かれてしまいそう。

 痛み、よりも、苦痛。圧迫感、息苦しさ。――目眩。嘔吐感。

 身体が、壊れてしまいそう。壊れて。壊れ…………。


 ――ナニかが、溢れ出してくる。


 いままで抑えられ続けてきたモノ。それが解放を迎えて歓喜している。求める。欲する。望む。渇望する。

 満たせ満たせ満たせ満たせ……!

 この器を満たせ。この感覚を満たせ。この感情を満たせ。――――この精神を満たせ。

 ナンのタメに、このミはソンザイしている――?

 ――キマッてイル。

 …………。

 ……………………。

 ……………………………………………………………………………………。

 さあ、目覚めよう。肉体に、朝の訪れを報せよう。

 ――また夜が訪れるまで。

 この衝動は、(シン)の奥底で微睡(まどろ)んでいよう――。


 刺すような痛みを頭部に感じ、(さい)の意識は速やかにクリアになっていく。

「……っぅ」

 あまりの頭痛に、彩は(たま)らず奥歯を噛む。頭を抑えるようなことは、しない。目を閉じて、歯の隙間から一つ呼吸する。

 ……感覚を遮断するための慣れた行為。それだけで、彩はあらゆる感覚を無にした。

 平生の無表情をその顔に貼りつけて、彩は一様に周囲を確認する。

 彩の自室、寝室だ。見慣れた光景しかなく、特に変わった様子などない。

 だが……。

 彩は毛布を退けて自分の体に目を向ける。手袋は、外していない。寝るときもつけたままなのは普段の習慣通りだから、いいだろう。

 身につけている寝巻を見て、彩は違和感を覚えるが、顔には出さない。

 ――昨日は、いつベッドに入った?

 彩は昨夜の記録を引っ張り出す。久し振りの、夜の散歩。(れん)から鍵をもらったので、地下の図書室へと向かった。立入禁止と書かれた地下の二階に向かったが、鍵がかかっていたため断念した。その立入禁止の場所に向かうまで、階段を上る間に置いてあった異形の像。頭部のない穴だらけの男性の裸体。性別不明の、醜く膨らんだ針山の人形(ヒトカタ)。半分肉のついた、眼窩(がんか)に眼球を押し込められた銅の髑髏。

 そして――。

 階段を下りて本棚を見て周ろうとしたとき、不意に気配を感じた。その気配が何者なのか、気配を追っていった彩は、結局、

 ――――その眼を、視た。

 彩は一つ息を吐く。

 ……そこまでは、記録している。

 だが、そこから先の記録はない。散歩のときは普段着だったから、彩はいつ着替えたのか。……そもそも、いつ寝室まで戻ってベッドに入ったのか。彩は、まったく記録していない。


 彩が目を覚ましたのはいつも通りで、朝の四時。昨夜のことで気になることはあったが、いつもの習慣通りに、彩は読書で時間を潰す。今日から第二部だが、ここがどうやら以前読んだ『食人国旅行記』に相当するらしく、ほとんど読まずに第三部までページをめくった。第二部が男側の話なら、第三部は女側の物語となる。

 五時半になって、彩はいつもの習慣でリビングまで下りた。だが昨日に続いて、(あざや)の姿はない。

 まだ寝ているのだろうと判断して、彩は台所に寄らず、すぐに自室のベッドへと引き返した。朝食が遅れるかもしれないが、それならそれでかまわない。今度は、声がかかるまで部屋にいようと、読書に集中する。

 ――結局。

 彩が朝食を食べられたのは、六時半をすぎてからと、普段よりも遅い時間だ。もっとも、そうならざるを得ない、ひと騒動があったのだが。

 悲鳴が聞こえて、彩は本から視線を上げた。

「…………」

 連、のモノらしい。誰か誰かと、(せわ)しなく人を呼んでいる。声音から、かなりとり乱しているということがわかる。

「なんの騒ぎだ……?」

 本をテーブルの上に置いて、立ち上がるついでに、彩は柱時計に目を向ける。……六時二十分。いつもの朝食の時間を、すでに過ぎている。

 ――鮮か……?

 昨日、鮮も(かおる)も寝坊して、(ひびき)の姓をもつ者が揃って食事をしたのは、昼からだ。昨日に続いて今日も二人は寝坊したのだろうか。だが、彩はなんとなく鮮が主たる原因ではないかと考えた。昨夜だって、食後のティータイムをふいにしてすぐに引っ込んだんだ。……思った以上に、具合が悪いのかもしれない。

 彩は廊下を突き進み、階段の東側へと向かった。彩が目をつけたように、すでに鮮の部屋の扉は開け放たれていて、中を覗くと、机などが置かれた部屋のほうで連が薫を抱きしめている。

「あっ。彩様!」

 彩に気づいて、連が彩に向かって駆け寄ってくる。彩が反射的に身を引くと、ほとんどぶつかりそうな位置で連が停止する。

「彩様。鮮様が、鮮様が……!」

 息も切れ切れに、鮮が声を荒げる。かなり動転しているらしい、言葉もまともに喋れないし、頬は赤く、今にも泣き出しそうだ。

 だから彩は、冷静なまま低く連に制止をかける。

「落ちつけ。――なにがあった?」

 息を整えようとする連。だが、彼女が落ちつかないうちに寝室の扉が開き、向こうから(さい)が現れる。

「兄さん!」

 反射的に、連が再へ駆け寄る。……もう、連は少しも落ちつくことができないらしい。

「鮮様は、鮮様はどうでしたか?」

「連。少し落ちつけ」

 連の頭に手を乗せて(なだ)める再は、しかしあまりいい顔をしていない。そこにいつもの微笑はなく、ややもすれば眉に皺が寄りそうな、そんな苦痛に耐える表情をしている。

 彩の姿に気づいて、再は言いにくそうに口を開く。

「鮮様の具合が良くない。すぐお医者様に見せる必要があるだろう。あれは…………」

 言いかけ、しかし再は言葉を切る。代わりに、連のほうへと視線を落とす。

「連。鮮様を病院へ連れて行くから。着替えは任せるよ」

「はい!」

 じっとしていられないらしく、すぐに連は鮮の寝室に駆け込み、扉を閉める。やれやれ、と一息吐いて、改めて再は彩のほうへと振り向いた。

「というわけだから、僕や連は鮮様を病院へ連れて行かないといけない」

「二人が行かないとダメなのか?」

「ちょっとね。あの様子だと、一人が支えていないと無理そうだ」

 彩が思っていた以上に、鮮の容体は悪いらしい。それでも救急車を呼ばないのは、そこまで酷くないからなのか、それとも響の名に傷をつけたくないからなのか。

「僕も行く!」

 彩が口を開くより先に、二人の間にいた薫が声を上げる。薫の目は真剣で、少しのことでは諦めない意志の強さが見て取れる。

 再がいつもの微笑を浮かべて、承諾を表すために一つ頷く。

「わかりました。では、外へ出る仕度をしていてください」

 わかった、と薫もすぐに鮮の部屋から出ていった。駆け足が遠ざかり、開いた扉が勢いよく閉まる音が聞こえた。普段なら鮮あたりが注意するような荒っぽさだが、ことがことなので、誰も咎める者はいない。

 彩が扉から視線を外すと、正面の再が微笑のまま、じっと彩のほうを見ている。その期待するような眼差しに、彩は小さく吐息を漏らす。

「俺は残る」

 一瞬、再の表情が驚きに広がり、しかし次には苦いものを噛んだように口元を歪める。

「……まあ、君がそう言うんじゃ、僕は引き止めることができないけどね」

 なんて、独り言のように漏らすだけ。彩のほうも、それ以上はなにも付け足す必要はないと、沈黙を続ける。その静寂を嫌うように、再は一息吐き出してから、続けた。

「朝食の支度をするから、食堂で待っていてくれ。少し遅れるかもしれないけど」

 再もまた、鮮の部屋から出ていった。再は再で、出かけるための仕度があるのだろう。そのうえで、朝食の準備をするらしい。

 ……まあ、朝食自体は連が作り終えているんだろうが。

 なんて、彩は特別意識することもなく、食堂へと下りていった。背後の寝室からは連の慌てた声がひっきりなしに聞こえたが、そんなものは無視して。


 朝食は彩と薫だけで、鮮は食堂にすらやって来なかった。いつものように無言の食卓、だが、彩の前の席は空席のまま。朝食の最中にタクシーが来たらしく、薫は食べ終わる前に、慌てて食堂を出ていった。再から家の鍵を渡されて、彩以外の人間はさっさと屋敷を出ていったようだ。……結局、彩は見送りもしなかったので、鮮とは顔も合わせていない。

 彩は食べ終えた皿を厨房へ運んで流しに並べる。生憎、後片付けなどしたことがないから、彩は歯磨きだけ済ませて、改めて戸締りを確認する。玄関も裏口も鍵がかかっている。ついでに上の階も一通り確認したが、いつも通り、それぞれの部屋には鍵がかかっていて、開かない。

「もっとも、この確認もどれだけ意味があるのかわからないが」

 そう呟きを漏らした彩の向かう先は、地下の図書室。彩の昨夜の記録が確かなら、あそこには『なにか』がいる。――彩が一人残ったのも、そういう理由。昨日は不意をつかれて意識を失ったらしいが、今度はそうはいかない。

 ――とはいえ……。

 不意をつかれなければなんとかなる、という保証もない。そもそも、どんなカラクリで意識を失ったのか、彩にはわからない。……気づいたらベッドの上で、しかも着替えまで済ませていたのだから、まるで理解できない。

 それでも、と――。

 彩は地下の図書室の前に立つ。ここも確認すると、鍵はかかっている。そして、自分の手の中には、地下室の鍵がある。

 一通り屋敷を確認してみたが、誰か、得体の知れない存在が隠れているようなところは、見当たらなかった。なら、相手はなおも図書室の中にいて、

 ――昨夜、彩は一人で寝室に戻ったのか?

「そんな器用な真似が……」

 できるわけがない――――。その言葉を、結局、彩は口にしない。それでは、まったく夢遊病ではないか。あるいは昨日、地下の図書室に下りたという、その認識そのものが夢なのか。――――それを、確かめる。

 彩は連から渡された鍵を、鍵穴に差し込む。間違いなくここの鍵である証明に、施錠されていたはずの扉は難なく開き、彩は図書室の中へと足を踏み入れる。


 午前中いっぱい、図書室の探索に使ったが、その時間はただ浪費されただけで、なんの成果も得られなかった。それこそ彩は、端から端まで、全ての列に足を運んだが、これといった異変もなく、当たり前のように本が敷き詰められた本棚を眺めるだけだった。

 これ以上は無意味だろう、というよりは、そろそろ鮮たちも帰ってくるだろうと、彩は見切りをつけて地上へ戻った。……だが、彩の予想は外れていた。一階から二階まで歩いたが人の気配はなく、ようやく彩は玄関の傍の電話のランプが点滅していることに気がついた。

 留守電を再生すると、再の声が聞こえた。

『彩?すまないが、午後まで検査がかかりそうなんだ。昼は冷蔵庫のものを適当に温めて済ませてくれないかな?』

 留守電を消去して、彩は軽く息を吐いた。

 ……午後まで検査?

 冬休みだから人が多いのか。それにしたって、検査で午後までかかるというのは、異常だ。

 ――本当に、重病か?

 いささか(いぶか)しんだが、しかし彩はそれ以上の思考はしないで、厨房へと向かう。彩は家に残ると決め、鮮のことは再たちに任せたんだ。なら、彩は余計なことを考えず、この広大な屋敷の留守番をしていればいい。

 午前中、ほとんど歩き通しだったが、彩は少しも疲労を感じない。身体そのものの不自然さもないから、確かに疲れもないのだろう。空腹も感じないが、それでも昼食をとったほうが体にとって都合がいいことを知っているので、冷蔵庫の中から適当に見繕って、さっさと食事を済ませる。

 ――で、午後はなにをするか。

 図書室を探索したが、結局、収穫はなし。鮮たちもまだ病院にいて、帰ってくるのは夕方か。

 自室に戻って読書をする、というのでも良かった。だが、滅多にない、誰もいない機会だ。最後まで利用しようと、食堂を出た彩はすぐさま地下室へと向かう。

 ――なぜなら。

 午前は、立入禁止の場所へは行っていないのだから――。


 彩は地下の図書室の、立入禁止になっている場所の、すぐ近くまで来ていた。まだ、階段は見えない。だが、それも数歩進めば、彩の視界に入ってくる。……あの不気味な石膏像を、また見ることになる。

 いや、と彩は小さく息を吐く。あの像そのものが危険なのではない。彩が求めているのは、あんな見かけだおしの、動かないお飾りではない。

 ――彩を見下ろしていた、あの闇と眼光。

 彩はその記録を一瞥(いちべつ)しただけで、すぐに現実へと視界を戻す。……記録越しでも、あの存在は異常だ。あまり見ていると、目をやられてしまいそうだ。

「…………」

 なにか口にしようとして、しかし彩は結局なにも発しない。できるだけ、相手に気取られないほうがいいと、そう判断してのことだ。

 二階へと続く階段の前に立ち、彩は一度、上り始める前にこれから向かう先を見上げてみた。踊り場があり、一度向きを変えているから、先までは見通せない。そして、踊り場の上には、昨日と変わらず、人の形を模した石膏像が置かれていた。――精巧に人間を(かたど)っておきながら、それは決して人形(ヒトカタ)にはなれない、異形の象徴。

 頭のない、穴だらけの裸体。醜く肥え太り、体の内側から串刺しにされた絶叫。そして二階に辿りつけば、(ただ)れた皮膚を引きつらせながら哄笑(こうしょう)する、無数の眼球。

 相変わらず悪趣味――なんて言葉も、今回ばかりは口にしない。二階に着くと、すぐさま彩は扉の前に立つ。この場所自体はそれほど広くないが、しかしこれだけ広い図書室だ、きっとこの奥が、このフロアの主たる部屋なのだろう。

「まあ、開いてないがな」

 何度ドアノブを回しても、扉が開く気配はない。昨日も鍵がかかっていたのだから、当然といえば当然。

 だが、と。

 彩は自分の右手に視線を落とす。――白い手袋に覆われた、自身の右手。

 あらゆるモノを破壊する、彩の感覚。直に触れ、その感覚を彩が認識すれば、目の前の扉だって、簡単に壊れてしまうだろう。

 ここまできたら、あとは実行に移すだけ。彩は右手の手袋に左手を伸ばそうと、

「――いけない」

 不意の、声。

 ハッと、振り返る彩。この場所は、そう広くない。振り返っただけで、大概は見通せる。階段の前に備えつけられた髑髏の銅像、その隣に――――少女が一人、ぽつんと立っていた。

「それ以上、そこにいてはいけない」

 続けざま、少女は彩に告げる。その瞳はじっと、彩を無感動に見上げるばかり。


 彩は咄嗟に口が()けなかった。柄にもなく驚愕したのがその理由だが、それも無理からぬことだろう。

 ――いつの間に……?

 まるで、気配なんてなかった。声をかけられるまで、少女の存在を少しも知覚できなかった。

 ……いや。

 いま目の前の少女を直視している間にも、彩には少女という存在が希薄にしか捉えられない。

 姿が透けている、というわけではない。現実味がない、とまでもいかない。ただ、普通の人間とは、どこか違うような気が…………。

 彩は扉から離れ、少女のすぐ前まで移動する。少女から二メートルていどの距離で足を止め、その少女を見下ろして子細を確かめる。

 ――幽霊、ってわけではなさそうだが。

 もちろん、彩は幽霊など見たことがないし、幽霊という存在がどういうものなのか知っているわけでもない。ただ、外見上は普通の人間と変わらない、ただの少女だと、そう認めたにすぎない。

 少女は、実に粗末な恰好をしていた。ワンピースというよりは、シーツに穴を開けて被っている、といった印象。しかも長年使い続けているのか、埃色に汚れ、皺だらけだ。

 背丈は彩の腰のあたり。薫より少し背が低いていど。――昨夜見た影より、ずっと背がある。

 だが、と彩は警戒を怠らない。そも、こんなところに少女がいること自体、異常なのだから。

 少女は、ただじっと彩を見上げるばかり。時折瞬きをするから、やっと生きた人間だと気づけるていど。

 その、彫像と大差ない恰好で直立している少女に、彩は目を(すが)めて問うた。

「誰だ?おまえ」

「あたしは、ミコト」

「ミコト?」

 うん、と少女は頷く。

「『命』と書いて、ミコト」

 ふーん、と彩は平静を装うように息を漏らす。まともな応答はできるのかと、彩はあんまりな感想を抱く。

「あなたは?」

 今度は逆に少女――命――のほうから彩へと問いを投げる。

 彩は数間、答えに遅れた。こんなみすぼらしい恰好をしていて、しかも突然現れるような相手に、まさかまともな質問をされるなんて思っていなかったから。

 だが、と。そんな動揺を気取らせないように、彩は平静を装って応じた。

「響彩だ」

「響……?」

 命の無感動な瞳が、わずかに大きくなる。瞼を開けてまじまじと彩を見上げる様は、どこか興味を惹かれたように見える。

「じゃあ、あなたは響の人間なのね」

 なにか納得するように命は目を細める。でも、と命はまた無感動に瞳を沈めて口を開く。

「あなたは、ここに来ることを許されていない。響の当主から、あなたのことは聞かされていない」

 そう、平然と言ってのける命に、彩は一層不信の目を強める。

「おまえは、響(たかし)からここの門番でもやらされているのか?」

 ううん、と命は首を横に振る。

「崇は、もう死んだ。いまの当主は、鮮」

 あっさり返す命に、彩は言葉に詰まった。

 響は、この辺りでは有名な大富豪だから、名前を知っていること自体はおかしくない。だが、当主の名前まで知っているのは、さすがに普通ではない。……つまり、この少女は響家の内情を把握している、ということ。

 そんな動揺をできる限り隠して、彩は無表情のままに問いを続ける。

「……で、おまえはなんでこんなところにいる?なんのために?」

 彩の直球に、しかし今度は命も答えない。まるで彩の質問自体が無効であるかのように、命は無感動な瞳のまま口を開く。

「あなたは、ここに来ることを許されていない」

 淡々と語る命に、彩はハッと小馬鹿にするように吐いた。

「どうしてだ?ここには、なにか見られちゃまずいものでも隠してあるのか?」

「……それを知らないのだから、あなたはここに来る資格がない」

 彩は口を閉じた。どうやら、響の当主から許可が得られなければ、この先は通れないらしい。それは、重々に理解した。

 だが……。

 ……鮮は、このことを知っている?

 一カ月ほど前に、前当主の響崇は亡くなり、いまは彩の妹――響鮮――が当主の座に就いている。なりたてとはいえ、当主は当主だ。響家の全権を握っているのは、鮮。そして――――響家の秘密を知っているのも、鮮――――。

 不承不承と、彩は大きめの溜め息を()く。

「わかったよ。鮮に話して、もう一度、出直してくる」

 まずは、鮮がこの場所のことを知っているのか、問い詰める必要がある。そして、もしも鮮が知っているなら、彩がこの禁じられた場所に立ち入ることを許してもらわなければならない。

 だが、と……。

 最後に、彩はこれだけは問うておかなければならなかった。

「ここには、おまえ以外にも誰かいるのか?」

 なによりも彩が気にしているのは、昨夜の影。あの得体の知れない影は、しかしこの少女とは背丈が一致しない。もちろん、命が背を屈めれば、あのくらいになるのかもしれないが。

 その彩の問いに、

「それも、響の当主に訊いてみたらいい」

 なんて、命は平然と返してくる。

 ――他にも、いるな。

 そう、彩は確信する。……もしも命以外に誰もいないなら、彼女は素直にそう答えればいいのだから。

 彩は小さく息を吐いて、了解を示した。

「わかった」

 これ以上の収穫が得られないのなら、この場所に長居は無用だ。彩は彼女の脇を通り過ぎ、階段を下りていく。踊り場で振り返ると、まだそこには彼女の姿があった。汚れたシーツのような衣服を身にまとった小柄な少女は、やはり無感動の瞳のまま、彩を見下ろしている。彩はすぐに彼女から視線を外し、あとは振り返ることなく階段を下りていった。


 鮮たちが帰って来たのは、結局、夕食より一時間早いくらいの時間だった。朝から出かけたのだから、ほとんど一日という長丁場。その時間には彩も自室に戻っていたが、鮮はすぐに自室に引っ込んでしまったため、会うこともなかった。

「お姉様の具合は良くなるでしょうか?」

 食堂の席につき、料理が運ばれてくるまでの間に、ぽつりと、薫が漏らす。独り言で流そうかとも思ったが、隣に座った薫がゆっくりと彩のほうを見上げてきたので、それもできなくなった。

「酷い病気でないんなら、しばらくすれば治るだろう」

 医者に行けば薬をもらえるが、厳密な意味で身体を治す薬なんてものは存在しない。身体を治すのは、本人の免疫力だ。医者が出す薬は、気分を楽にするようなものでしかない。

 中には、風邪から肺炎を引き起こして人を死に至らしめるような危険なケースもあるから、そういうときに医者の診断が必要になる。……それが、病院に行く意味だ。

 隣の薫が(すが)るように彩に顔を近づける。

「そうですか?お姉様の病気は、酷いものではないのですか?」

「知るか。病院に行ってきたのはおまえだろ」

 嘆息混じりに低く返すと、薫はしょ気たように俯く。ぽつぽつと、俯いたまま口を開くが、それは一応、彩に向かって話していると解釈していいのだろうか。

「僕は、お医者様とは直接お話ししなかったので。再やお姉様は、なにか話をしていたようですけど」

 それはかなり重症ではないかと、しかし彩は驚かない。検査で一日もかけるなんて、普通はしない。昼にかかってきた電話の時点で、なんとなく予感はあった。順番を待たされていて昼までかかっているなら、まだいい。しかし、検査だけで午後までかかるなど、それは重度の病気だと疑っていい。

 もし、本当に危ない病気なら、子どもの薫に簡単に話せるものではないだろう。それを、薫は自覚しているのかいないのか、思ったままを口にしていく。

「僕は、ただ見ていただけなんです。僕では、お姉様を支えることもできない。お医者様のお話を聞いても、僕みたいな子どもでは理解できないんです」

 一人では歩くこともままならないという話だったが、まさか十歳の薫に高校生の鮮を支えるなんて、できるわけがない。大方、連が鮮の傍に立っていたのだろう。それを、薫はただ見ていることしかできなかったと、そう語る。

「なにか薬でも出たのか?」

 気休めでもなんでも、医者にかかれば薬が出る。もちろん、本当に酷い病気では薬の出しようもないのかもしれないが。

 いいえ、と薫は首を横に振る。

「薬は出ていません。明日からお医者様がお見えになるとか、確かそんなことを話していたと思います」

 彩はふーんと曖昧に声を漏らして、視線を正面に戻す。もちろん、目の前の席は空席のまま。

 なんとか、彩は眉を寄せることなく、表情に出さなかったと思っている。だが、薫に表情を読まれずに済んだと、そんな感想を抱く暇なんてありはしない。

 ……それは、かなり大事じゃないのか?

 医者が家まで来るなんて、そんなもの、自宅療養を希望する患者への病院側の対処ではないのか。介護老人ならともかく、鮮はまだ高校生だ。

 ほどなくして料理が運ばれてきたが、彩には、その数十秒の間でさえもどかしいほどだった。

 ……食事の時間は、いつものように無言のまま消費された。

 薫はすぐに自分の部屋に戻り、彩もまた自室に戻ろうとしていた。当然だ、鮮が寝込んでいるのに、彩だけ食後のティータイムなど、あるわけもない。

「彩」

 食堂を出てすぐのところで、彩は再に呼びとめられる。振り返ると、再はいつものように微笑を浮かべていたが、その表情は、いつもより少し硬く、引き締まって見えた。

「ちょっといいかな」

 それだけで、お互いになんのことかわかるのだから、嫌になる。彩が承諾すると、再はリビングに彩を案内して、扉を閉める。いつもなら薫の後にしたがう再だが、事前に言い含めてあるのか、薫がやってくる様子はない。連は厨房で皿洗いでもしているのか、ティータイムの仕度がいらないのは了承済みだと思うが。

「一応、報告はしておかないと、と思ってね」

 ソファーに座るなり、再はそんなふうに切り出した。彩も予想していたことだから、再が次の言葉を口にする前に、彩のほうから割り込む。

「明日、医者が来るんだろ」

 再の口元がわずかに(ほころ)ぶが、やはりいつもより表情が硬い。

「話が早いね。…………そう。思った以上に容体が(かんば)しくなくてね。お医者様から入院も勧められたんだけど」

 まるで上司から無茶を言われて疲弊したサラリーマンのように、再は首を横に振る。

「鮮様がちっとも、首を縦に振ってくれなくてね。お医者様も無理強いはできないから、本格的な治療が始まるまでは自宅でいい、ってことになった。明日の午後三時にお医者様が来てくれるそうだ。……その間に容体が悪化すればいつでも呼んでくれ、とは言われているけどね」

 軽く笑って見せる再。もちろん、その笑顔は渇ききっていて、人の心を潤すにはほど遠い。

 そんな再の不完全な気遣いも、しかし彩は一向に興味を示さない。そんな遠回しな内容よりもと、彩は即座に核心を問う。

「――で、病名は?」

 低く短い彩の問いに、向かいの再も笑顔を消す。再はすぐには答えず、三分近く沈黙していた。どれほどの葛藤があったのか、ようやく再はその重い口を開く。

「――――SLE(エス・エル・イー)。日本語だと、全身性エリテマトーデス、っていう病気らしい」

「どういう病気だ?それは」

「人間には免疫力があるだろう?病原菌が体内に侵入しても、その免疫力によって僕らの体は守られている。風邪をひいたときに咳が出たり熱が出たりするのは、体の免疫力が病気と闘っているから起きるんだ」

 それくらい、彩だって知っている。だが、再からその致命的な意味を聞きだすために、彩は口を挟むのを止めておいた。

「SLEは、その免疫系が異常を来して起こる病気。簡単に言うと、本来守るべき肉体を、免疫力が誤って攻撃してしまうこと。自分で自分を攻撃してしまい、体中で炎症が起きる」

 自分で自分を破壊してしまう病気――――。炎症などというが、それは表面的に見える結果でしかない。要するに、少しずつ身体を壊していって、生命活動を自ら台無しにしてしまう、そういう病気だ。

「鮮様に出ている症状は、全身の倦怠感――怠いとか疲れやすい、ってこと――と高熱、それと顔の紅斑(こうはん)。あと、検査でわかったのは、腎障害と血液異常。蛋白尿と尿潜血があるから、腎臓に問題がありそうだ、っていうのと、白血球・赤血球・血小板が標準よりもかなり少ない、っていうのも危ないサインだって」

 腎臓は、血液中から老廃物や余計な水分を濾過して体外に排泄する、重要な器官だ。そこに異常が出るというのは、生命活動に大きな影響を及ぼす。

 血液の異常もまた、見逃すことはできない。白血球は体内の異物を排除するため、赤血球は身体の各細胞に酸素を供給するため、血小板は身体の傷を塞ぐため、どれも欠かせない存在だ。その、血液中の各成分が不足するのは、あまりいい状態ではない。

「顔にできる紅斑っていうのが、SLEの有名な特徴らしい。顔中が真っ赤に腫れているみたいで、ほんと、痛ましく見ていられないよ」

 彩はまだ、そんな鮮の容体を見ていないから、それがどれほどひどい状態なのかはわからない。だが、話を聞いているだけでも、ちょっと風邪を引いたとは違うレベルで、あまり軽視できるものではないということが理解できる。

「治療はどうするんだ?薬は出ていないんだろ?」

 うん、と再は疲れたように頷いてみせた。

「病名は決まったけど、このSLEっていう病気は、重度に応じて治療方針を決めるらしい。だから、鮮様にはどういう治療がいいのか、もう少し検査が必要だって。……それがわからないから、薬も出ないんだ」

 一息ついて、再は肩を竦める。

「検査をするために入院を勧められたんだけど、鮮様が断ってね。家でもできるでしょう、って。鮮様はどういう検査をするのか知っているのかな。お医者様が説明する前に早々に断っていたから。……お医者様も、少しはネバってたんだけどね。入院していたほうが経過を診れるし、なにかあったときに対処できるから、って。それでも、鮮様は承諾してくれなかったんだけど」

 やれやれ、と小さく首を振ってから、再は説明を続ける。

「診ておきたいのは、腎臓の様子。で、これを診るために、蓄尿をお願いされた。言葉通り、尿を溜めること。そこから、蛋白と潜血の平均値を診たいんだって。一回だけだとバラつきがあって正確なことがわからないから、だそうだ。それを三日間。あと、明日は早朝尿も採るように言われている。それも重要なことなんだって」

 二階のトイレを鮮様専用にするからしばらく使わないほうがいいよ、と再は締めた。

 わずかな沈黙、しかし、特に質問を受け付ける合図はない。わからないことは明日、医者に直接訊けということだろうか。だが、これだけは訊いておきたいと、彩は素早く口を開く。

「なんで鮮は入院しない?そんな病気なら、医者の言うとおり入院しないとダメなんだろ?」

 医者が入院を勧めたというなら、きっとそのほうがいいのだろう。医療費なんて、響の人間が気にすることでもないはずだ。

 そんな彩の疑問に、再は苦笑の息を漏らして肩を竦める。

「鮮様のお気持ちを()んでやってくれ、としか僕には言えないね」

 その返答は、彩にはまったく意味がわからない。

 ――鮮の気持ち?

 そんなことを言っている場合か?医学の知識は乏しいが、いま聞いただけでも、かなりヤバい病気だってことは、彩にもわかる。そんな病気なら、医者の勧め通りに入院するべきだ。

 それを断るなんて――。

 ――まるで。

 一つ大きな息を吐き出して、再はソファーから立ち上がる。

「僕から言えるのはこれが全部だ。あと聞きたいことがあれば、明日いらっしゃるお医者様か、鮮様に直接聞いたほうがいいだろう。……あまりお身体に障るようなことは、しないでほしいけどね」

 本当にそれで全部なのか、再は振り向きもせずにリビングから出ていった。一方の彩は、なにも言い返す言葉が見つからず、開け放たれた扉を見ることしかできなかった。


 ようやくリビングから出た彩は、その後、入浴を済ませ、いまは自室のベッドの上で読書に(ふけ)っている。鮮が大変な状態にあるということは理解したが、だからといって、彩になにができるだろうか。薬は出ていない、入院を勧められたが当の本人がそれを断った。なら、明日医者が来るまで、こちらは待つしかない。

 そう結論付けた彩は、だからいつものように読書で時間を潰す。無意味で無益な心配なんてものほど無駄なものはないと、そう彩は心得ている。

 その静寂を、不意に乱す者があった。ノックする音に適当に返事をすると、扉が開いて連が入って来た。

「失礼します。彩様、ベッドメイキングに参りました」

 ペコリと一礼する連。日中は外に出ていたから、ベッドメイキングどころか、掃除も済んではいないだろう。

 今日は忙しかったのだから休んでもいいのに、とは思ったが、きっと連は耳を貸さない。だから、彩は黙って隣のテーブルのほうへ避ける。

 今朝はかなりとり乱していたようだが、さすがにいまは落ちついたらしく、無駄もミスもなく、綺麗にシーツを取り換えていく。

 無駄口一つなく完璧に仕事をやり終え、シーツを抱えてようやく出ていく、そんなタイミングで、連は彩のほうに振り返り、その場に静止する。

「彩様。わたしからこのようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが」

 なんて、いつもとは違う、まるで別人のように硬い口調で連が口を開いた。数秒待っても続きがないので、彩は本を開いたまま視線を上げる。その口調の通り、彼女の表情もまた、普段では見かけることのない恐い顔をしている。()(てい)に言えば、どこか怒気を孕んでいるような。

 かまわず、彩は低く訊き返す。

「なんだ」

「はい。彩様。どうか鮮様に、一目お会いしていただけませんか?」

 言葉遣いは丁寧だが、そこにはいつもの連らしい柔らかな音が失われている。その表情も、お伺いを立てるといよりは、是非そうしてくださいと、強く命じるような色がある。

 そんな強気な彼女に、しかし彩は少しも動じるところを見せず、さらに訊き返す。

「なぜだ」

「はい。鮮様は大変なご病気で、心身ともにお疲れです。わたしたち使用人が看病いたしましても、そのご負担を軽くすることは到底できません」

 連の言いたいことがなんとなくわかってきた。――鮮の傍にいろと、連はそう要求したいのだ。

 その理由も、なんとなく察しがついたから、だから彩は(かえ)って冷めていく。

「ですから……」

「関係ない」

 連の言葉を遮って、彩は自身の結論を突きつける。

「誰が看病しようと、病気の治りは変わらない。病気はあくまで、本人が治すものだ」

 鮮の場合に限って、それは真実ではないと、彩だって理解している。しかし、だからといって彩にできることなどないと、それは変わらず正しい。

 もっとも、連は鮮の病気がどういう(たぐい)のものか、正確には知らないらしい。だから彩の一般的な見解を、連は少しも否定しない。

「ええ、そのとおりです。病気を治すのは、ご自身の力です」

 ですけど、と連の言葉がわずかに震える。強気に出た連が、気丈に振る舞った彼女が、つい、感情を吐露してしまった瞬間だ。

「病気で辛いとき、誰かが傍にいれば、その辛さをいくらか忘れることができるのです」

 それが、と震える声にさえ気づかないまま、彼女は訴えを続ける。

「――特別な人なら、なおさらです」

 そう、連は断言する。

 対する彩は、しばらく(ぼう)と、彼女を見返していた。……彼女の気迫に圧倒されたわけでは、もちろんない。

 ただ……。

 その、どうしようもなく感情的で。ゆえに、彩とは一片もわかり合えないのだということをまざまざと理解するにつけて。

 ……ふっ、と。

 笑みが零れる。

 とても、堪え切れなかった。声を上げて笑うことだけは抑えられたが、逆に、つい皮肉を漏らしてしまうのだけは、どうしようもなかった。 

「じゃあ、新当主様のために、素敵な旦那様を見繕ってやらないとな」

「彩様!」

 叫び声を上げる連を、彩は反射的に睨み返した。彩に睨まれて連はすぐに口を閉じたが、しかし、その激情だけは抑えきれないらしく、いまでも反抗するように、彩を凝視していた。

 ……いまにも泣きだしそう、というより、すでに泣いているような、そんな涙を溜めた()で、連は彩を睨んでいる。

「…………」

 あからさまに、大きく息を吐き出す彩。そのまま、視線を戸口で立つ連から手元のハードカバーに落とす。もう連など相手にする必要もない、とばかりに。

「もう用は済んだろう。なら、さっさと次の仕事を済ませろ」

「…………」

 しばらく無言だったが、やがて「失礼しました」なんていつも通りに返して、連は扉を閉めて消えてしまった。扉を閉めるまでは平常心を保てたようだが、廊下に出て人目がなくなると、途端に歩調が乱れていく。走り去っていく足音が消えてなくなっても、しばらく彩は椅子に座ったままで読書を続ける。

「……ったく」

 目は紙面の文字を追ったまま、つい、彩は吐き捨てる。

「なにを考えているんだか」

 その言葉は、一体誰に向けてのものか。しばらく彩は、視線を上げることも、連が綺麗にしたばかりのベッドの上に身を委ねることもできず、不慣れな椅子の上で読書を続けた。


 カチカチカチカチ…………。時計の音が耳につく。

 日付はすでに変わり、時刻は一時半を少し回ったところ。彩がいるのは、自室のベッドの上。今日は散歩にも行かず、大人しく読書をして時間を潰している。

 散歩に出かけることも考えたが、どうも外の音がいつもと違う。見回りがいつもより長くかかったようだが、きっと猪戸兄妹(きょうだい)のどちらかが、鮮の面倒を見ていたのだろう。まさか寝ずの番をするわけではないだろう、とは彩も思っているが、完全に否定しきれないから恐ろしい。

 ……あの連なら、やりかねない。

 そんな、いつもとは様子の違う屋敷の中を歩き周ろうとは、彩も思わない。今日は大人しく自分の寝室にこもって、いつもの寝る時間になったら意識を手放そう。

 ――(おれ)にできることなんて。

 枕に背中を預けたまま、彩はハードカバーのページをめくる。彩の両手には白い手袋がはめられ、寝るときでも彩は手袋を外さない。

 ――彩は、感覚したモノを壊してしまう。

 そこに選択性はない。『感覚』というただ一点で、その範囲も威力も、見境がない。十年前の事故のときにその特性は顕著になり、あの頃なら、いま彩が寝そべっているこのベッドだって、簡単に破壊してしまうだろう。そこに指向性はない。ただ『柔らかい』と、そう彩が感覚するだけで、ベッドはバラバラに砕けてしまう。

 それは、いまだって変わらない。十年間、ひたすら感覚を意識から外し、常に感覚を意識に置かないようにし続けた果てに、いまの彩があるだけ。よほど意識しなければ、もはやなにも感覚しない。だから、日常の中で彩はなにも破壊せずに済んでいる。

 ……だが。

 たった、一つだけ。一つ、感覚するだけで彩は。

 壊してしまう……。

 そんな、危うい均衡のうえに、彩はいる。少しでもバランスを崩せば、たちまち全てが崩壊する。ほんの少しの気紛れで、いつもの行動を外れてしまえば、それが引き金になり得る。

 だから彩は、いつも通りのことを続けている。余計な行為は、それだけで破壊を呼び込みかねない。……だから、特別なんてあり得ない。

 ――それに。

 結局のところ、彩にはなにもできやしない。どれだけ勉強ができても、すでに高校の学問を終え、大学の知識まで一通り揃えても、彩は鮮の病気を治せない。

 響家は医者の家系――。だが、彩は十年前からその事実を知らされず、医学書を読む機会もなかった。様々な学問の書物が並んでも、唯一、医学書だけは置かれなかった。だから、彩には医学の知識などない。

 ……仮にあったところで、なんになる?

 治療しようというなら、道具や薬が必要になってくる。それを知識だけで、研修もないまま初めて実践しようなんて、無茶もいいところ。

 ――病気はあくまで、本人が治すもの。

 それが、本来の在り方だ。医者なんて必要ない、なんて極論も吐けるかもしれない。だが、それは不可能だ。特に、鮮の病気に対しては…………。

 免疫異常なんて、自然に治るようなものではない。そこには、なにかしらの治療が不可欠だ。だったら、治療は医者に任せておけ。彩が出る幕など、ありはしない。

 なのに……。

 ――病気で辛いとき、誰かが傍にいれば、その辛さをいくらか忘れることができるのです。

 なんて、感情論。

 響彩は、そんな感情論を受け付けない。ただ感覚しただけであらゆるモノを破壊してしまうような悪魔に、そんな人間らしいことを要求すること自体、間違っている。

 ――そう。

 間違っている――。

 カチカチカチカチ…………。時計の音にふと彩は視線を上げる。

 あと数分のうちに、時刻は二時になる。――草木も眠る、丑三つ刻。

「…………」

 切りよく本も読み進めたので、今日はもう寝よう。明日も、まだ休みは続く。なにもすることがない彩は、ただ読書で時間を潰すだけ。……そんないつもが、繰り返されるだけ。


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